最終話 雨はいつか上がるものだから
「よ、少年」
なんて、いつかのように軽すぎる挨拶をしてくるこの人は、一体どういう神経をしているのだろうか。
あろうことか、兄さんと別れてから約十五時間しか経過していない。まさかあの流れで、翌日も雨になるとは思わないだろう。
ああしかし、どうだろう、昨日この人に感じた恐怖は、もう微塵も湧き上がってこないではないか。会えば会うほど、やっぱり雨兄さんは雨兄さん以外の何者でもないではないか。
昨晩思ったのだ。怖いと思ったのは、多分、そんなに悪いことじゃない。むしろ必要なことだったと。
そうだ、よくよく考えれば、兄さんと関わって良くなかったことが、これまで一度でもあっただろうか? いや、ない。あるはずがないのだ。大好きな兄さんといることに、幸せ以外のなにがあるというのだろう。
記憶の整理。それだって、決して悪いことなんかではなかったのだ。
僕が僕として成長するために必要なことだった。たとえそれが、雨兄さんがいない未来に向けての成長だったとしても。
懐かしんだのは、そこで区切りをつけて、次に進むためだったとしても。
俺がいなくなっても、と、兄さんはそう言った。
でもそんなことはとうにわかっていた。そうなんじゃないかな、と考えていた。
昔、兄さんが一時的に会いに来てくれなくなって、不安になって、小さな小さなぼくはそのとき悟ったのだ。
この人が、いつまでも一緒にいてくれる保証はないのだと。
でも、それでもいいと思って、そばにいた。期限があってもいいから、遊びたかった。
兄さん、と僕は心の中で語りかけた。兄さんはきっと、そのときが来たら、僕に何も言わずに、消えるように離れるつもりなんでしょ。沢田にそうしたように。
小さい頃のぼくなら、きっと泣き喚いて兄さんを止めたんだろうけど……しがみついてでも離れなかったんだろうけどさ。
今の僕は、……やっぱり泣くは泣くかもしれないけど、でも止めないことにしたよ。
その代わり、それまでは絶対に離れてやるものか。両親でも教師でも神様でもない、他ならぬあなたがそばにいることを許してくれている限りは、絶対に離れない。
だから兄さんもそのときまでは決して自分から距離を置こうとしないで。離れようとしないで。僕をあなたから遠ざけないで。もう少し、もう少しだけでいいから。
これを口に出して伝える勇気は、残念ながらないんだけど。
僕は兄さんの目を見つめた。僕は、あなたがいつか感情を閉じ込めた氷の部屋を、僕の温度では溶かすに至らなかった暗く儚い心の底を、ずっと覗きたかった。
でも僕にはできなかった。これから先も、誰一人としてできないのかもしれない。
だけど覚えていてほしい。あなたが救った、ひとりの人間を。血のつながらない、親友のような弟のことを。まあ、そう思っているのは僕だけかもしれないけど。あなたは僕を「少年」としか呼ばないしね。
でもあの頃の、公園でひとり時間を潰すしかなかったぼくにとって、
あなたは紛れもない、『兄さん』だったんだ。
「こんにちは、雨兄さん」
さあ、今日は何を話そうか。
遠くの空には、青空が覗いていた。




