表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨兄さん  作者: だむせる
11/12

第11話 雨を待つ

 池での僕の願いとは裏腹に、それからなかなか雨の日は訪れない。


 結局次に兄さんに会えたのは、学校をさぼった日から一週間が過ぎた頃だった。



 目覚めてすぐに雨音が耳に入った僕は、陽気に傘を揺らしながら登校した。


 沢田にはこんなことを言われた。


「天霧くん、なんだか今日はいつもより調子良さそうだね。なにかいいことでもあった?」


 僕は珍しく少し口角を上げて答える。


「今日は、兄さんに会えるからね」

「ああ、そっか、雨だもんね」

「……沢田、あれから兄さんと会った?」

「いやぁ。やっぱり俺とはもう、会ってくれないみたい」


 困ったようにそう言う沢田に僕は言葉が詰まった。正直な感想は、『やっぱりそうなんだ』。


「そっか」


 あいにく、優しくかけてあげられるような言葉は持ち合わせていなかった。




 放課後、僕は鞄からひったくるようにして取り出した折りたたみ傘を握りしめ、大急ぎで階段を駆け上がった。


 こういう日は、兄さんは屋上で待っていてくれることが多いのだ。


「兄さん!」

「おお、びっくりした。どうした少年、そんなに息切らして……」

「ちょっと……急いで、来たから……」

「まず落ち着けって」


 兄さんは濡れた手で優しく背中をさすってくれた。



 しばらくしてようやく呼吸を整えた運動不足の僕は、何を思ったか、唐突にこんなことを口走ってしまった。


「兄さん、『氷雨』って、わかる?」


 きっと、まだ酸素が脳みそに行き届いていなかったのかもしれない。


「ひさめ?」

「そう。冬の寒い時期に降る、冷たい雨のことなんだ」

「へえ……」


 兄さんは僕をじっと見つめた。少しの間があり、やがて首を傾げながら、


「似合わないね」


 と笑った。


「は……」


 僕は愕然とした。まさか意図が伝わるとは思っていなかったのだ。


「……、……ひどくない?」


 驚きを飲み込んで言い返す。


「そうか? だって少年、優しいじゃんか。『冷たい』わけがないさ」


 予想外の返答に、飲み込んだ驚きが再び込み上げてきてしまった。


 まったくこの人は、どうしてそんなに、僕のことを理解しているのだ。そろそろエスパーにでもなれるんじゃないだろうか。



「んー、じゃあ少年、『時雨』はご存じかな?」


 兄さんはアスファルトに視線を落とし、聞いた。


 この流れで聞くなんて、それはつまり、そういうことなのだろうか。


 ……しぐれ、時雨。確か、降ったり止んだりする小雨のことを指す言葉だったような。


「存じてるよ。……雨兄さんにはぴったりの言葉じゃない?」

「そうかぁ?」

「そうだよ、出たり出なかったり」

「人をオバケみたいに言うんじゃない」

「どうせ似たようなもんでしょ」

「あー少年が偏見でものを言ったー!」

「悪い? こんなふうに育てたのは兄さんだよ。一番いっしょにいたんだから」


 僕らは顔を見合わせ、二人して吹き出してしまった。



 『氷雨』、『時雨』。どちらも冷たい雨。


 得体のしれない、遠い存在だとばかり思っていたけれど、案外、似た者同士だったのかもしれない。


 と、ここで僕の脳内にひとつの純粋な疑問が浮かんだ。いつもなら気軽に口に出すことが憚られるようなことなのだが、なんだか今ならなんでも答えてくれそうな気がして、思ったまま声に出してみることにした。


「……雨兄さんってさ、死ぬの?」


 兄さんはポカンとした。


「さ、最近の少年はいろいろ唐突だなぁ〜。んー、俺にもよくわからんが、まあきっと、いつかは死ぬだろうさ。こんなでも一種の生き物なんでね」

「曖昧だね」

「曖昧なんだ、俺ってやつは」


 目を細め、笑う兄さん。でもいつもより少しだけぎこちなかった。


 笑っているんじゃなくて、ただ目を細めているだけみたいな、ただ口角を上げているだけみたいな、奇妙な表情だった。たまにこの顔をするんだよな、この人。


 僕は昔からこの表情の奥底を見抜けない。悲しみなのか、苦しみなのか、諦めなのか。わからないけれど、よほどたくさんのものが詰まっているように感じる。


「なあ少年。ひとつ、俺のお願いを聞いてくれないか」


 僕は少し考える素振りをした。


「ものによるかな」

「おまえほんとに生意気に育ったよな」


 呆れ顔の兄さんは、屋上を囲んでいる金網に近づいた。生徒の落下防止のためなのだろうが、高校生男子の平均身長から考えると、足をかければ誰でも簡単に乗り越えることができそうな高さだ。


 兄さんはそんな金網越しに、広大に広がる街並みを覗いたかと思うと、突然こっちを向き、


「よーく聞けよ」


 と変に真面目な顔をした。


 僕が緊張しながら頷いたのを確認すると、兄さんは、街の方に向き直し、両手を口のあたりで構えた。


 やがてすぅー……と息を吸い始める。



「俺がいなくなっても! ちゃんと生きろよー!」


 そんなことを叫んだ。


 いろいろと言いたいことが湧き上がってきたが、僕はそれらをぐっと飲み込み、黙って兄さんの隣に並ぶ。


 そして同じようにめいっぱい息を吸った。


「うるせー!」


 めいっぱい叫んでやった。目を丸くしている兄さんをよそに、僕は傘を握る手にぐっと力を入れ、立て続けに叫ぶ。


「もう何歳だと思ってんだーっ! あんたに言われなくても、ひとりでちゃんとやってやるわーっ!」


 喉がピリピリするが、気分はやけに清々しい。こんなに大声を出したのは生まれて初めてではないだろうか。


 肩で息をする僕の横で、兄さんはだんだんと表情を和らげていった。唇は弧を描き、目は嬉しそうに細められているが、眉は控えめに八の字になっており、まるで我が子の成長を寂しがる親のようだ。


 初めて見る兄さんの表情に驚いたのもつかの間、すぐにいつものへら〜っとした顔に戻ってしまう。


「そうだ少年、運動ももう少し頑張れよ!」

「嫌だ!」

「即答すんなよ、頑張れって」

「無理!」

「そんなにかよ」


 兄さんが吹き出した。


 そうそう、これだ。これが兄さんの本当の笑い方だ。僕も嬉しくなって微笑んだ。



 と、そのとき。突然頭上がスポットライトでも当たったかのように輝き始めた。傘からあたたかい光が漏れて見える。


 不思議に思って傘をずらしてみると、どうやら空を覆っていた分厚い雲が割れ、そこから光が差し込んだようだった。


 辺りがだんだんと明るくなるにつれて、雨脚も少しづつ弱くなっていく。


「やっべ」


 兄さんは慌てたように僕の前から去ろうとした。しかしその腕を僕はしっかり掴んで止める。


「ちょっ、少年離せって。あんま見て気分良いもんじゃないから!」

「いいよ。見たいから」


 向き合いたいから。あなたに。


「……ったく、しょうがないな」


 僕の真っ直ぐな視線に見つめられ、兄さんはため息をついて抵抗をやめた。


 やがて光は兄さんにも降りかかった。握ったままの腕がだんだん冷たくなっていくような感覚がする。違和感を感じて兄さんの腕を見てみると、光が透けてキラキラと輝いているではないか。


「……透けてる?」


 僕は思わず目を見開いた。兄さんはなんだか微妙な顔をしている。


 少しして、兄さんの身体が本格的に透け始めたかと思うと、今度はぶくぶくと炭酸水のように泡立ち始めた。気泡が彼の内側へと一斉に向かっていく。


「じゃ、またな少年。あ、キモチワルイって思うなよ?」


 兄さんは戸惑う僕に笑った。


 次の瞬間、握っていた腕の感触がぱっと消える。目の前からも、兄さんがぱっといなくなってしまった。まるで液体が蒸発して消えてしまったかのようだ。


 手のひらについている水滴が、跡形もなくいなくなった兄さんの唯一の痕跡となっている。


「いつもそんなふうに消えるんだ……」


 急激に全身から力が抜けていき、僕はその場にへたり込んでしまう。向き合いたいと思っておきながら、なんだこの体たらくは。乾いた笑いが零れた。



 怖い。


 あの日捨てたはずの気持ちが僕を取り巻いて囁いてくる。雨兄さんは人じゃない、雨兄さんは人じゃない、雨兄さんは人じゃない……。


 でも、じゃあなんだっていうんだ。僕にとって雨兄さんは雨兄さんだ、今も昔も。


 それが変わることは、ないはずなんだ。



 いつの間にか空はすっかり青くなっていて、灰色の雲は遠くに流されていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ