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雨兄さん  作者: だむせる
10/12

第10話 あの場所へ

 カーテンを退けて窓の外を除くと、朝からやけに日が照っていて、夏が近づいていることを感じた。


 制服に着替え、簡単に朝食を済ませた僕は鞄を持って玄関を出る。


 やっぱり眩しい太陽を睨むように見上げると、急に学校に行く気も失せてしまった。そんな中、僕は突然にひらめく。


 家の前で立ち止まった僕は、次の瞬間、学校とは真反対の方向に歩を進めた。同時にポケットからスマホを取り出し、電車の時刻表を確認する。


 太陽が眩しい。しっかりと目を背けながら、僕は足を早めた。




 購入したばかりの切符を眺めながらホームのベンチに腰を落ち着けているうちに、思いの外早く電車はやってきた。人の流れのままに少し駆け足で乗り込むと、時間が時間だからか、堅苦しいスーツに身を包んだ大人が大勢乗っていた。


 やがてアナウンスとともに電車は動き出す。人が多くて席にはつけない。


 僕はどこぞのサラリーマンの横に並んでつり革を掴んだ。


 流れていく景色をぼんやりと目で追いつつ、この電車の行き先に思いを馳せる。



 僕はこの日、生まれて初めて学校をさぼった。




 懐かしい景色が目に映り、僕は電車を降りた。


 記憶をたどってしばらく歩くと、ある一軒の家の前にたどり着いた。


 ここは、僕のかつての家だ。


 あの後新しく入居者がいたのか、見慣れない車が一台停まっている。庭に伸びていた雑草はきれいに刈られており、今の家主が手入れしたことが見て取れる。


 もともと自分の部屋があった場所の窓からは、かすかに揺れるカラフルなカーテンが見えた。どうやら今のあの部屋の主は、僕よりも幼い子どものようだ。


 部屋の様子を見るに、きっときみの親は、我が子のためにお金も時間も惜しみなく使ってくれる、素敵な人なのだろう。


 僕の分まで愛されるんだぞ、なんて、見ず知らずの子どもに願うには迷惑だろうか。


 かつての我が家に背を向けて、僕は再び記憶をたどって歩き出した。



 次に向かったのは、兄さんとよく遊んでいたあの公園だ。あの頃よりも高くなった視点で見渡すのは、少し不思議な感覚だ。


 今はもう身近にない、ぼくらの遊び場。こうして見ていると、なんだか寂しいような、悲しいような気分になってくる。



 そうか、とそのとき思った。


 今まで見てきた雨兄さんの夢の数々、あの頃のぼくと兄さんの記憶。全ては、僕が望んだものだったのだ。


 僕はどうやら、懐かしんでいたらしい。


 戻れない過去を。戻りたいなんて思わないけど、戻れない日々を。



 ふと気になって、僕は公園のさらに奥に入っていった。向かうのは、あの宝石のように輝いていた池だ。


 あの頃は背の高い草っぱらを、短い腕を平泳ぎのように動かして、一生懸命かきわけながら進んでいた気がするけれど、今はもう、ほんの少し足を上げていけば簡単に進めた。


 背は伸びた。身体は成長した。そしてもちろん、心だって。


 景色が違っていたからか、僕はしばらく『それ』が何か認識できなかった。


 水が張っている。池だ。なんの変哲もない池だった、それだけだ。


 でも僕にはそれが奇妙に感じた。だって、かつてここにあったのは、この世のものとは思えない、宝石のように美しい、あの池のはずなのだ。


 兄さんが連れてきてくれた、あの場所。思い出の場所。


 なぜ無い?


 違う、無いわけじゃなかった。これがそうなのだ。多分兄さんと同じ、変わらないもののはずなのだから。



 ああそれじゃあ、変わったのは僕の方か。


 宝石のようにキラキラしていた少年の心を失った。それはもちろん、人間としての成長の過程で遅かれ早かれ失われてしまうもの、純真さ。


 僕の心はもう、現実を見始めている。


 この池はきっと、見た者の心をそのまま投影するのだ。


『うーん、水色? ……なんだろ、水の上に、薄い氷が張っているみたいな』


 ならそう言っていた兄さんの心は、どこまでも青く美しく透き通っていることだろう。


 あるいは、氷のように固く決意に閉ざされているのか。決意。別れの決意。


「……兄さん」


 無意識に口から零れた言葉が虚しくこだまする。


 今、無性に兄さんに会いたい。何も変わらないままの兄さんに会いたい。


 僕は公園を後にして、帰りの電車の時刻を調べ始めた。




「……ただいま」


 小さな声で呟きながらリビングに入ると、ちょうど母さんと鉢合わせた。


 母さんは僕に一切目を向けることなく、


「学校休んだのね」


 と言った。


「ああ、うん……」


 何を言われるかと身構えたが、母さんはそれきり何も言わなかった。


 それだけか。「おかえり」のひとことくらい、言ってくれてもいいのに。


 そのひとことには、大した手間も労力もかからないだろう?



 ああ、そういえば、ここにもあったな。


 変わらないもの。

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