第10話 あの場所へ
カーテンを退けて窓の外を除くと、朝からやけに日が照っていて、夏が近づいていることを感じた。
制服に着替え、簡単に朝食を済ませた僕は鞄を持って玄関を出る。
やっぱり眩しい太陽を睨むように見上げると、急に学校に行く気も失せてしまった。そんな中、僕は突然にひらめく。
家の前で立ち止まった僕は、次の瞬間、学校とは真反対の方向に歩を進めた。同時にポケットからスマホを取り出し、電車の時刻表を確認する。
太陽が眩しい。しっかりと目を背けながら、僕は足を早めた。
購入したばかりの切符を眺めながらホームのベンチに腰を落ち着けているうちに、思いの外早く電車はやってきた。人の流れのままに少し駆け足で乗り込むと、時間が時間だからか、堅苦しいスーツに身を包んだ大人が大勢乗っていた。
やがてアナウンスとともに電車は動き出す。人が多くて席にはつけない。
僕はどこぞのサラリーマンの横に並んでつり革を掴んだ。
流れていく景色をぼんやりと目で追いつつ、この電車の行き先に思いを馳せる。
僕はこの日、生まれて初めて学校をさぼった。
懐かしい景色が目に映り、僕は電車を降りた。
記憶をたどってしばらく歩くと、ある一軒の家の前にたどり着いた。
ここは、僕のかつての家だ。
あの後新しく入居者がいたのか、見慣れない車が一台停まっている。庭に伸びていた雑草はきれいに刈られており、今の家主が手入れしたことが見て取れる。
もともと自分の部屋があった場所の窓からは、かすかに揺れるカラフルなカーテンが見えた。どうやら今のあの部屋の主は、僕よりも幼い子どものようだ。
部屋の様子を見るに、きっときみの親は、我が子のためにお金も時間も惜しみなく使ってくれる、素敵な人なのだろう。
僕の分まで愛されるんだぞ、なんて、見ず知らずの子どもに願うには迷惑だろうか。
かつての我が家に背を向けて、僕は再び記憶をたどって歩き出した。
次に向かったのは、兄さんとよく遊んでいたあの公園だ。あの頃よりも高くなった視点で見渡すのは、少し不思議な感覚だ。
今はもう身近にない、ぼくらの遊び場。こうして見ていると、なんだか寂しいような、悲しいような気分になってくる。
そうか、とそのとき思った。
今まで見てきた雨兄さんの夢の数々、あの頃のぼくと兄さんの記憶。全ては、僕が望んだものだったのだ。
僕はどうやら、懐かしんでいたらしい。
戻れない過去を。戻りたいなんて思わないけど、戻れない日々を。
ふと気になって、僕は公園のさらに奥に入っていった。向かうのは、あの宝石のように輝いていた池だ。
あの頃は背の高い草っぱらを、短い腕を平泳ぎのように動かして、一生懸命かきわけながら進んでいた気がするけれど、今はもう、ほんの少し足を上げていけば簡単に進めた。
背は伸びた。身体は成長した。そしてもちろん、心だって。
景色が違っていたからか、僕はしばらく『それ』が何か認識できなかった。
水が張っている。池だ。なんの変哲もない池だった、それだけだ。
でも僕にはそれが奇妙に感じた。だって、かつてここにあったのは、この世のものとは思えない、宝石のように美しい、あの池のはずなのだ。
兄さんが連れてきてくれた、あの場所。思い出の場所。
なぜ無い?
違う、無いわけじゃなかった。これがそうなのだ。多分兄さんと同じ、変わらないもののはずなのだから。
ああそれじゃあ、変わったのは僕の方か。
宝石のようにキラキラしていた少年の心を失った。それはもちろん、人間としての成長の過程で遅かれ早かれ失われてしまうもの、純真さ。
僕の心はもう、現実を見始めている。
この池はきっと、見た者の心をそのまま投影するのだ。
『うーん、水色? ……なんだろ、水の上に、薄い氷が張っているみたいな』
ならそう言っていた兄さんの心は、どこまでも青く美しく透き通っていることだろう。
あるいは、氷のように固く決意に閉ざされているのか。決意。別れの決意。
「……兄さん」
無意識に口から零れた言葉が虚しくこだまする。
今、無性に兄さんに会いたい。何も変わらないままの兄さんに会いたい。
僕は公園を後にして、帰りの電車の時刻を調べ始めた。
「……ただいま」
小さな声で呟きながらリビングに入ると、ちょうど母さんと鉢合わせた。
母さんは僕に一切目を向けることなく、
「学校休んだのね」
と言った。
「ああ、うん……」
何を言われるかと身構えたが、母さんはそれきり何も言わなかった。
それだけか。「おかえり」のひとことくらい、言ってくれてもいいのに。
そのひとことには、大した手間も労力もかからないだろう?
ああ、そういえば、ここにもあったな。
変わらないもの。




