第1話 雨兄さん
パチパチ、パラパラ。
雨は、ぼくの真っ青な傘と出会うと、いつも楽しそうにおしゃべりを始める。
だからきっと、ふたりは仲良しなんだ。
水滴が透けて見える傘を、下から見上げて、そう思った。
ぼくはいま、家の近くにある小さな公園にいる。小さなブランコと小さなすべりだいが、せまい敷地内にひっそりと置いてあって、ぼくと兄さんはいつもここで遊んでいる。とても古いらしく、ブランコにもすべりだいにも茶色いさびが付いてしまっているし、敷地を囲んでいる木や草は手入れがされておらず、好き勝手に伸びている。
おかげでほかに遊びに来る人はいない。
傘にあたる雨が少しだけ強くなった。屋根のないここでは、ひとつだけポツンと置いてあるベンチはぐしょ濡れで、すわることはできない。
「……兄さん、今日はいないのかな」
「――呼んだ?」
突然の声に声にならない声を上げてビクッと飛び上がると、後ろからクスクスという笑い声が聞こえてきた。
「いい反応をありがとう」
楽しそうに肩を揺らして言う兄さん――雨兄さん。
本当の兄さんではないけど、誰よりも仲良しで、なんでも話せて、ぼくのことをわかってくれる、兄さん。
ぼくはあまり兄さんのことを知らないけど、でも兄さんはぼくを知っているから、それでいい。兄さんの名前も、正体も、兄さんがぼくとあそんでくれるなら、わからないままでいい。
「……少年? どうした、学校で何かあったのか?」
「ううん、ちがうよ。どうしたら兄さんのイタズラにびっくりしなくなるかなぁって考えてたの。それより兄さん、今日はせっかく早上がりだったんだから、早く遊ぼうよ!」
「おーそれじゃ、今日は何したい?」
「えっとねぇ……」
兄さんははしゃいでるぼくのランドセルを、さりげなく支えて下ろそうとしてくれた。それに甘えて肩からランドセルを下ろしつつ、ぼくは今日やりたいことを頭の中でぐるぐる考える。
まず鬼ごっこは欠かせないでしょ……それからかくれんぼもやりたい。いつもすぐ兄さんに見つかってしまうから、今日こそは勝てるといいな。
「みっけた」
「なんでいつも見つかるの?!」
「ふふ、修行が足りないぞ、少年!」
むちゅうで遊ぶこと三時間。雨の日でジメジメしていることもあり、着ていた青いシャツに汗が滲んで、みずたま模様ができていた。
毎回のことだけど、傘をさしながら遊ぶのはなかなか難しいな。……あ、だからすぐ見つかるのか。ぼくがどんなに隠れたって、ぼくより大きな傘が隠れなければ、かんたんに見つかってしまうよなぁ。兄さんったら、教えてくれてもいいのに!
次は気をつけよう、と反省会をしていると、遠くの方から聞き馴染みのあるメロディーが流れてきた。午後六時を知らせる、地域のチャイム放送だ。
「もうこんな時間か。少年、どうする?」
「んー、そろそろ帰らないと……」
少しさびしい。なんたって兄さんとは、いつ会えるかほとんどわからないのだ。
目に見えてシュンとしたぼくに、兄さんは優しくほほえんだ。ぽん、とぼくの頭に手を置き、くしゃくしゃとかきまぜられる。
「そんな顔すんなよ〜。大丈夫、またすぐ会える」
「うん。ねえ兄さん、次のかくれんぼは負けないからね!」
「うっ、さては気づいたな?」
ぼくは木陰に置いていたランドセルを拾い上げて肩にかけ、公園の門に向かって走った。曲がり角のところでふりかえり、大きく手を振りながら「また遊んでね!」と声を張り上げる。
兄さんは軽く片手を上げるだけだったけど、それはいつものこと。ぼくは満足気に手を下ろし、家へと向かった。
雨兄さんと出会ったのは、去年の夏が始まったばかりのころ。
空気はジメジメとしているのに、太陽はなぜか気合を入れて世界を照らしていて、小学校にうまくなじめずにいたぼくには、すごく憂鬱な一日だった。
小さいころから人見知りをしてしまうぼくは、知らない人と関わるのが苦手だった。それはおとなでもこどもでもいっしょで、いきなり教室という知らない人だらけの空間に放り込まれたぼくは、不登校まではいかずとも、うまく周りの人と話すことができずに、孤立してしまっていた。
あの日は、帰る時間にちょうど雨が降り始め、公園の遊具は濡れて遊べなかったから、ぼくはただしゃがんでぼんやり地面を見つめているしかなかった。
ぼくのお父さんとお母さんは二人とも働いていて、学校が終わってもしばらく帰ってこれない。だからいつも、放課後はしばらく公園で暇をつぶしていたのだ。
*
「なにしてんの?」
と、突然、雨音に混じって声が聞こえた。
両手で包むようにして持っていた傘をゆっくりと持ち上げると、目の前には年上のお兄さんがひとり、膝に手を置き、ぼくの顔を覗き込むようにして立っていた。中学生……いや、高校生くらいだろうか?
「ひまつぶし」
ポツリと答えた声は、雨音にかき消されそうなほど小さかった。
「へえ」
するとお兄さんは、ぼくの前にしゃがみ込み、ほほえんで言った。
「じゃあ、お兄さんと遊ぼうよ」
そのとき気がついた。このお兄さんは、傘をさしていなかった。髪も、服も、靴も、ぜんぶびっしょりと濡れていて、頬にはいくつもの雫が滑っていた。
「雨だよ」
「そうだね」
「ぬれていいの」
「まあね。君は?」
「ぼくはだめだよ。お母さんにおこられちゃう」
「そっか。そうだよね」
ぼくらは、しばらくそんな風に話をした。算数をやる理由とか、友達のつくりかたとか、そんな、ちょっとどうでもいいこと。
どうでもいいことなのに、お兄さんはぜんぶ、ていねいに聞いて、ていねいに答えてくれた。気がつくとぼくは、毎日喉につっかえて言えなかったいろんなことを、ぜんぶ吐き出していた。
名前を聞いていなかったことに気づいたのは、質問が尽きたときだ。
「あ、そうだ、なまえ」
なまえ、とぼくが言ったとき、お兄さんの眉がピクッと少しはねたように見えたが、気にせず続ける。
「ぼくのなまえは」
「待った待った、知らない人に、簡単に個人情報明かすんじゃないよ」
お兄さんは笑いながらぼくの言葉をさえぎってしまった。
「名前ってのは特別なものなんだ。ときに『とびら』を開けてしまえる鍵となるからな。だから、俺みたいなのに教えるのは、よした方がいい」
「ふーん?」
お兄さんの言っていることはよくわからなかった。
「でもそれじゃあ、なんて呼べばいいの?」
「ん〜、好きに呼んだらいいよ」
そんなこと言われても。ぼくは仕方なく、頭の中の引き出しをあさってお兄さんの呼び名を考えてみることにした。
「…………………じゃあ、雨兄さん」
「雨」
「うん。雨なのに、お兄さん気にしない」
「あーそこが印象に残っちゃったのね」
お兄さん、もとい雨兄さんはおかしそうに肩を震わせた。ぼくが「どう?」と首をかしげると、雨兄さんはぼくを指さしてにっこり笑った。
「じゃあおまえは雨少年な」
え、それはちょっと。
そう思ったけど、ぼくがつけた名前を考えたら、お互いさまだったので言わなかった。
それからぼくは毎日のように兄さんに会いに行った。休日はもちろん、平日の放課後もむちゅうになって兄さんを探した。会えても、会えなくても、毎日だ。
そうしているうちにわかった。兄さんがやってくる日は、いつも決まって雨が降っているのだ。
どうやら雨兄さんは、名前の通り、雨の日にしか会えないようだ。