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第9話『幻聴、幻覚なのか!? それとも……』

 事故検分が終わった夜、圭吾はどんよりとした表情で自宅玄関に立っていた。時刻はすでに23時を回っており、SUMIKAの街並みは静寂に包まれていた。風もなく、虫の声すら聞こえない夜だったが、圭吾の胸の内にはざらつくような怒りと虚無感が渦を巻いていた。


  玄関のドアを開けると、かすかに残る夕食の匂いが漂ってきた。家族での食卓はすでに済ませており、照明の落ち着いた光がキッチンを包んでいた。


  「おかえり。こんな時間に……どうしたの? 何かあったの?」


  麻里がキッチンから顔を覗かせる。声にはいつもの優しさと、そこにほんのわずかな不安が混ざっていた。


  圭吾は答えず、無言で靴を脱ぎ、ゆっくりとリビングへと進んだ。ジャケットをソファに投げ出し、深く腰を下ろすと、重い口調でぽつりと漏らした。


  「……ただの事故だったよ。でも、現場で色々あってさ」


  目を伏せながら、圭吾は現場での出来事を語り始めた。怒鳴りつけてくる中年男性。理不尽な罵倒。「SUMIKAの住民はろくでもない」と言い放つ偏見。指示一つにも上下関係を押し付けてくる警部補の態度。そして、何より悔しかったのは、それに一言も言い返せなかった自分自身だった。


  「……SUMIKAの住民は、犯罪者の吹き溜まりだ、ってさ。落とし物や道案内がお似合いだとも言われた。……笑えるだろ」


  口元は笑っていたが、声は震えていた。


  麻里はしばらく黙って圭吾を見つめ、ゆっくりと呟いた。「……ひどいね。そんなこと言うなんて」


  しかし圭吾の感情は限界を超えていた。


  「ちくしょう……ちくしょう……」


  胸ポケットから取り出したボールペンを、圭吾は無意識のうちに握りしめ、そのまま自分の太ももに突き立てた。


  「圭吾!! なにやってるの!? やめてっ!!」


  麻里の叫びが、リビングに響いた。慌てて駆け寄り、震える手で圭吾の手からペンをもぎ取った。スラックスの布地がじわりと赤く染まり始めていた。


  「どうして……どうしてそんなこと……そんなに、つらかったの……?」


  麻里の声は震え、涙が目に浮かんでいた。


  そのとき、リビングの入口の陰から、ひょっこりと姿を現した影があった。


  碧だった。


  彼は扉の影から顔を覗かせ、薄く笑みを浮かべながら、まるで演劇の一幕を見るかのような口調で言った。


  「父さん……狂ってるね」


  その言葉に、麻里が息を呑む。


  「碧……なに、言って……」


  だが碧の目は冷たく無感情で、何の動揺もなかった。ただ、静かにその場の光景を見つめ続けていた。


  圭吾は、その視線に背筋がぞくりと凍るのを感じた。碧の目の奥にあるのは、幼さでも反抗心でもなかった。もっと別の、得体の知れない“何か”だった。


  怒り、屈辱、そして……恐怖。


  まるで家族という枠の内側に、別の存在が紛れているかのような不穏さが、じわじわと圭吾の心を締め付けていった。


  圭吾は自分の手のひらが少し痺れた感触があることに気づいた。

  何が起きたのか、記憶の断片が血のように脈打つ。


  リビングの空気はまだ重く、麻里のすすり泣く声が耳の奥にこびりついていた。

  さっきの出来事――。


  「父さん、狂ってるね」


  あの一言が引き金だった。

  気づいたときには、圭吾の手は碧の頬を打っていた。


  「親に向かって……お前に何がわかる! 何が……面白いんだよっ!」


  びしゃり、と乾いた音がリビングに響いた。

  碧は目を見開き、驚きに凍りついたまま動かなかった。だが、すぐに大粒の涙が目にあふれ、ぽたぽたと頬を伝って落ちていく。


  「ぼ、僕……何も言ってないよ……」

  かすれた声が、ひび割れた壁のように虚ろに響く。

  「笑っても……いない。ただ、のどが渇いたから……水を飲みに来ただけなのに……」


  その声を聞いた瞬間、圭吾の胸の奥に熱いものが込み上げた。

  それは怒りではなく、罪悪感だった。


  だが、その罪悪感に浸る暇もなかった。


  「やめてっ!!」


  麻里の叫び声とともに、彼女は碧の前に立ちはだかり、圭吾を睨みつけた。


  「何してるの!? この子が一体何をしたっていうの? 手をあげるなんて、あなた……どうかしてる!!」


  圭吾はその場に立ち尽くした。

  言い訳もできなかった。言葉が、声帯の奥で詰まって出てこない。


  碧は泣きじゃくりながら麻里の背中に隠れ、彼女はその頭を優しく抱きしめながら、怒りと恐怖の入り混じった眼差しを夫に向けていた。


  「信じられない……あなた、最近おかしいよ。どうしたの、圭吾……」


  その問いかけに、圭吾は答えられなかった。

  自分でも、自分が分からなかった。


  「……え? お前も聞いただろう、碧の言ったことを」


  圭吾は、震える声で問いかけた。額にはじっとりと汗が浮かび、肩が小刻みに震えている。


  だが麻里は、まるで圭吾の言葉の意味が分からないかのように、静かに首を横に振った。


  「あなた……どうしたのよ。碧は何も言ってないじゃないの」


  その一言が、圭吾の脳を鈍器で殴られたように打ちのめした。


  ――確かに聞こえた。あのにやけた顔、冷ややかな声で「父さん、狂ってるね」と――。


  だが、麻里の反応は真剣そのものだった。碧は目に涙を浮かべ、麻里の背に隠れるようにして怯えている。


  「嘘だ……俺は、聞いたんだ。碧の声を……」


  圭吾の呟きは、誰にも届かない空間に吸い込まれていく。


  混乱の渦が、頭の中で暴れ回る。自分は幻聴を聞いたのか? 本当に手を上げたのか? あれは一時の錯覚だったのか?


  だが、右手の平には、微かに残る平手打ちの感触――その事実だけが、圭吾を容赦なく現実に引き戻す。


  麻里は、そんな圭吾の動揺を目の当たりにしながらも、表情を曇らせたまま碧をそっと抱き寄せると、部屋の奥へと連れていった。


  リビングに取り残された圭吾は、まるで音を失った舞台の上に一人立たされているような感覚に囚われ、静かにソファへ沈み込んだ。


  両手で顔を覆い、長く深いため息を漏らす。


  夜は更け、やがて寝室の灯りがほのかに灯された。


  麻里がベッドに腰掛け、静かに語りかける。


  「……あなた、最近すごく無理してる。新しい土地での暮らし、事件、事故……心の奥で抱え込んでるものが多すぎるんじゃないかって、私ずっと心配してたの」


  圭吾は、天井を見つめたまま、黙ってその声に耳を傾けていた。


  「今日のこと……自分の足を刺したり、幻聴を聞いたり、幻覚まで見たんじゃないかって思えて……。そして碧に……あんなことを……」


  麻里の声は震えていた。けれど、そこに怒りはなかった。ただただ、深い心配と哀しみがにじんでいた。


  「お願い、病院に行ってみて。一人じゃ不安なら、私も一緒に行くから。きっと、あなたのせいじゃない。何かのバランスが崩れてるだけ。だから、怖がらずに、ちゃんと見てもらって……ね?」


  圭吾は目を閉じた。


  麻里の言葉は正論だった。反論の余地は、どこにもなかった。


  だが――。


  あれは本当に幻聴だったのか?


  幻覚だったのか?


  今まで一度だって碧に手を上げたことなどなかった。


  なのに、自分は……。


  打ち鳴らしたあの平手の感触が、皮膚の内側で微かに疼いていた。


  その感触が、罪悪感という名の錘となって、圭吾の胸の奥底へ、ゆっくりと、静かに沈んでいった。


 その夜、圭吾は再び、あの悪夢に苛まれた。


 濃い闇の中、赤黒い水たまりがじわじわと広がっていく。どこからか濡れた足音が近づいてくる。圭吾は夢の中で身動きできず、ただそこに立ち尽くしていた。


 ――ずるっ……ずるっ……。


 足音と共に現れたのは、顔の半分が血で濡れた少女だった。制服の襟元も真っ赤に染まり、片方の靴はどこかへ消えていた。


 「……お前が……やったんだ……」


 その声は、まるで釘でも打ち込むような、鋭く、乾いた響きだった。


 圭吾は首を横に振ったが、少女は動かず、ただその目で見つめてくる。その瞳に、底の見えない怨みが渦巻いていた。


 「違う……俺じゃない……」


 そう言ったつもりなのに、口からは声が出なかった。恐怖と罪悪感が、喉を凍らせていた。


 次の瞬間、少女が手を伸ばしてくる。その手も血まみれだった。


 「やめろ……っ」


 圭吾は叫んで目を覚ました。


 額には汗が滲み、シーツはしっとりと湿っていた。部屋はまだ夜の深みの中にあり、外からは虫の声だけが聞こえていた。


 深く息を吐きながら、圭吾は枕元のタブレットを手に取った。


 眠れないまま、布団の中でタブレットを開き、SUMIKA総合病院のサイトにアクセスする。以前、健康診断で一度だけ訪れたことがある総合病院だ。


 そのときのことを思い出す。問診を担当した50代くらいの男性医師が、やけに親身だったのを覚えている。最後に彼は、ふと真顔になってこう言った。


 ――悪夢を見たり、理由のない不安や怒りに苛まれるようなら、心療内科も検討してみてくださいね。


 その時は笑って聞き流したが、今となっては、その言葉が脳裏にこびりついて離れない。


 「心療内科……」


 ページをスクロールし、予約フォームを開く。やはり、心を病んでいる人は多いのだろう。午前中の枠はすべて埋まっていた。


 午後の枠に目を移すと、15時に一つだけ空きがある。


 「……ここしかないか」


 指先で予約を確定する。


 圭吾は深く息をついた。明後日、非番の日。ようやく、自分の中の何かと向き合う覚悟が決まりつつあった。


 布団の中で目を閉じる。けれど、少女の血まみれの顔は、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。




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