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第8話『無能というレッテル』

 電話の内容は、交通事故の通報だった。


 SUMIKAに赴任して以来、圭吾にとって初めての本格的な事故対応だった。発生場所は、SUMIKA市内にある、もともと過疎地域から集団移住してきた住人たちが暮らす特別区画──行政的には「第三区」と呼ばれる地域だった。


 圭吾は制服に袖を通しながら、すぐさまSUMIKA警察本部に応援要請の連絡を入れた。この街では、交通事故などの重大事案に関しては駐在一人では対処できない仕組みになっており、本部との連携は絶対条件とされている。


 連絡を終えた圭吾は、パトロール用の軽ワゴンに飛び乗り、夜のSUMIKAを駆け抜けた。


 現場に到着すると、すでにSUMIKA本部のパトカーが停まっており、赤色灯の光が周囲の街路樹や住宅の壁にゆらゆらと映し出されていた。警部補ともう一人の巡査長が到着しており、事故現場の確認と関係者への聞き取りを行っている最中だった。


 車を降りた圭吾に気づいた警部補が、苛立ったように眉をひそめる。


「対応が遅いぞ、村瀬巡査。何やってたんだ」


 その声音にはあからさまな不快感がにじんでいた。圭吾は恐縮しながら頭を下げる。


「申し訳ありません。本部への報告と装備の確認に手間取ってしまいました」


「……まあいい。状況は今、整理中だ」


 警部補が顎をしゃくって示した先には、道路脇に倒れたままの電動自転車と、前方バンパーに小さなへこみを抱えたワゴン車が停まっていた。


 そして、その傍らには、地面に腰を下ろしてうずくまる中年男性がいた。肩を押さえており、明らかに痛みに顔をしかめている。


「自転車に乗ってたのは、あの第三区の住人だ。転倒した際に肩を強打したらしい」


 巡査長が説明を補足した。


 警部補が交通事故の現場に出向くのは、通常ではあまりないことだった。そのことからも、今回の件に対する本部の関心の高さがうかがえる。


 ──第三区の住人が関係している。


 SUMIKAにおいて、第三区の住人たちは他の地域の住民と一線を画した存在だった。彼らはこの街に新たな人生を与えられた者たちであり、なかには自らを選ばれた特別な存在と認識している者も多い。住人達は限界集落の出身者で占めている。


 よそ者は信用ならない。そんな意識が第三区には根強くある──。


 圭吾は息をのんだ。現場の空気は、どこか湿った緊張感を帯びていた。赤色灯の明滅が、彼の胸の鼓動と奇妙に同調するように見えた。


 事案はただの交通事故──。


 報告書のための聞き取りを始めるにあたり、圭吾はまず中年男性に声をかけた。


「お怪我の具合、大丈夫ですか? 無理なさらず、ゆっくりで構いませんので……」


 肩を押さえてうずくまっていた中年男が、その言葉に反応するように顔を上げた。血走った目。額には汗が滲み、唇は怒りでわなわなと震えている。


「大丈夫なわけねぇだろ! ぶつけられたのに、あの女は一言も謝らねぇんだぞ!」


 男は地面を叩くようにして声を荒げた。


「警察のくせに、なんでまず謝らせねぇんだよ! お前ら、加害者側の味方か! やっぱりな……やっぱり、だからなんだよ!」


 怒りの矛先が圭吾に向かって真っすぐ飛んでくる。彼はその圧力を、ぎりぎりのところで受け止めた。だが、次に続いた言葉には、内心に鋭い棘が刺さるのを感じた。


「……所詮、根っこは同じなんだよな、ああいう連中は。いくら忘れたふりしても、身体が覚えてるんじゃねぇのか?」


「どういう意味だ……いったい」


 ただの怪我をしてイライラしてるからなのかも知れない。

 だが、何か圭吾には引っかかる物言いをされ腹がたった。


 その中年男性値の発した言葉で、一瞬、現場の空気が変わった。圭吾の喉奥がひりついた。言葉の意味は明確ではなかったが、含まれた悪意は、鋭利な刃のように胸に突き刺さった。


 そこへ割って入ったのが警部補だった。


「おいおい、村瀬巡査。何をやってるんだ。住民対応もろくにできねぇのか?」


 その声には、苛立ちと見下しが隠しきれずににじみ出ていた。


「俺がやる。お前はもういい、あっちのワゴン車の女から話を聞いてこい。……おめえら、同じSUMIKAの住人なんだからよ。話しやすいだろうしな」


 侮蔑と嘲笑が混じったその言葉に、圭吾の奥歯が軋んだ。


 ──あんたも、元は同じだったんじゃないのか?

 いや、この警部補はみない顔だ。

 出向者かも知れない。だからこれだけ横柄な態度が取れるのだ。


 そのような事を思い、心の中で反論しかけたが、言葉は喉の奥で溶けた。


 今ここで何か言えば、感情的な対応と受け取られる。それは結局、立場を悪くするだけだ。


「……了解しました」


 圭吾は短く答えると、冷えた空気の中をワゴン車の女性のもとへと歩き出した。背後では、警部補と中年男性の怒鳴り合いが続いている。


 その音が、彼の耳にはただただ遠く、鈍く響いていた。


 事故現場から少し離れたワゴン車の前に立ち、圭吾は深いため息をついた。


 警部補のあの横柄な態度が、まだ胸に引っかかっている。


 警察組織というのは、典型的な縦社会だ。上が白と言えば黒も白になる世界。階級が一つ違うだけで、逆らうことは許されない。命を懸ける任務もある以上、統率を優先するのは当然といえば当然だった。


 だが、それでも理不尽な扱いには慣れない。


(これじゃ、署にいるのと変わらないじゃないか……)


 圭吾は自嘲気味に唇を歪めた。


 かつては自分も、出世を目指していた。だが、いつしかその競争に疲れ果てた。命令ばかりを優先し、住民の顔が見えない仕事に疑問を感じるようになった。だから、彼は駐在勤務を選んだのだ。住民のそばで、もっと身近な形で関わりたいと。


 だが、現実は甘くなかった。SUMIKAという特異な場所で、理想を貫くには、あまりに障害が多すぎた。


 胸の奥にのしかかるものを感じながら、圭吾は事故車へと歩を進めた。


 ワゴン車の運転席には、事故の加害者と思われる女性が座っていた。長い髪を一つに束ね、無表情のまま前方を見つめている。肩を丸め、ハンドルを握った手は小刻みに震えていた。


 彼女は負傷者を目前にしてなお、車外へ出てこなかった。交通事故において、救護義務が法律で定められていることを知らないはずがない。だが彼女は、まるでその場に凍りついたかのように座り込んでいた。


 圭吾は窓を軽くノックし、声をかける。


「すみません。お怪我はありませんか?」


 女性はゆっくりとこちらを振り返った。その瞳には恐怖や罪悪感といった明確な感情は見えず、ただ茫然とした色が漂っている。まるで感情そのものがすり減ってしまったかのようだった。


 彼女がなぜ現場に出て助けようとしなかったのか、すぐに答えを求めるべきではない。交通事故における救護義務違反は重大な違反だが、それ以上に、今は精神的な状態が気がかりだった。


「よろしければ、お話をお伺いしてもいいですか?」


 女性はこくりと小さく頷いた。


 その無言の頷きに、圭吾はまたひとつ、胸の奥に重たい何かがのしかかるのを感じた。


(ここにも、何か隠されたものがあるのかもしれない……)


 彼はそう思いながら、ドアを開け、事情を聴き始めた。


 その間、現場では救急車が到着し、肩を強打していた中年男性が担架に乗せられ搬送されていった。赤色灯の光に照らされながら、うずくまっていた彼の姿は、やがて救急隊員の手で静かに車内に収められた。


 現場に漂っていた緊張感は、徐々に別の空気へと移り変わっていった。しかし圭吾の胸の中には、拭いきれない違和感と、重く沈む不安だけが残されていた。


 事故現場で、圭吾はワゴン車の女性に慎重に声をかけた。


「すみません、何があったのですか?」


 女性はハンドルを握ったまま、ややうんざりした様子で肩をすくめ、ため息交じりに答えた。


「私は悪くないです。謝ると自分が悪くなっちゃうでしょ。事故の詳細はドライブレコーダー見ればわかるんじゃないですか?」


 その言葉に、圭吾は一瞬言葉を失った。


 この種の反応は珍しくなかった。だが、まるで機械的に責任を回避するような物言いに、どこか胸の奥がざらつく。


「一応、お聞きするのが私の仕事ですので……」


 柔らかく、なるべく波風を立てぬようもう一度尋ねると、女は小さく舌打ちし、横目で圭吾を見ながら呟いた。


「相手の方が勝手に飛び出してきたのよ。私はブレーキ踏んだし……でも間に合わなかった。仕方ないじゃない」


 それだけだった。


 彼女の言葉には明確な反省も謝罪もなかった。圭吾は軽く頭を下げてから、現場の少し離れた場所で指揮を執る警部補のもとへ戻った。


「事故の状況ですが、加害者側の女性は『相手が急に飛び出してきた』とだけ…」


 言葉を続けようとした瞬間、警部補が苛立ちを隠さずに言葉を被せてきた。


「聴取もまともにできねぇのかよ、村瀬巡査。何年やってんだお前は。こっちは忙しいんだよ。報告は交通課の巡査長に引き継ぐ。お前はもう帰っていいよ。……落とし物の対応や道案内みたいな仕事なら間違えないだろ、なあ?」


 皮肉混じりの笑みに、圭吾の胸に鈍い怒りがこみ上げた。


 ──SUMIKAの住民は、所詮その程度。


 そんな言葉が言外に漂っていた。


「……了解しました」


 唇を噛み締めるようにして答え、圭吾は現場を後にした。


 背を向けながら、喉の奥からこみあげてくる感情をどうにもできなかった。


(なにも言い返せない自分が、一番腹立たしい)


 拳を握ったまま、空を見上げた。


 雲が重く垂れ込め、街灯の光がアスファルトの表面を湿ったように照らしている。


 その冷たさが、今の自分の気持ちとどこか重なっている気がした。





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