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第7話『碧』

 灰色の空が低く垂れこめ、じっとりとした雨が窓を曇らせていた。駐在所兼自宅の一室――いつもの事務スペースに、圭吾は黙々と座っていた。


 書類に向かってはいたが、意識はどこか上の空だった。手元のボールペンを握る指先に、微かに力が入りすぎていたことにも気づかずにいた。


 ──ここ最近の出来事が、じわじわと圭吾の精神を蝕んでいた。


 ウサギ小屋で起きたあの惨殺事件。あれは情操教育の名のもとに飼育されていた小さな命たちが、無惨に踏みにじられた衝撃的な出来事だった。


 それだけではない。


 妻・麻里との間にも、言葉にしがたいすれ違いが生じていた。かつては触れるだけで安堵を感じられた存在が、いまではどこか遠い。


 夫婦の営みも、碧が生まれてからは自然と減っていた。とはいえ拒否され続け、挙げ句には本気で噛まれるという出来事は、圭吾の中にひとつの傷を残した。


 そして、盗聴器と隠しカメラの発見。

 自宅内という最も無防備であるべき空間にまで、その影が入り込んでいた。


 犯人の特定もできず、業者に助言されたように“戻して様子を見る”という選択肢まで現実味を帯びてくる。誰が、なぜ、何のために――そうした問いの答えが見えないまま、ただじわじわと不信と緊張だけが積もっていく。


 そしてもうひとつ、圭吾を蝕んでいるもの。


 それは、“夢”だった。


 ここ数ヶ月、繰り返し見るようになった悪夢がある。

 最初は曖昧でぼやけた映像のようだったが、最近では輪郭がはっきりしてきた。


 いつも水の音がする。どこからともなく、蛇口の水がぽたぽたと落ちる音。

 濡れた床。暗い廊下。湿った空気。誰かが、こちらを見ている気配。


 そして、何よりも不快なのは、自分自身の身体がどんどん重くなっていき、やがて潰されるような圧迫感に襲われる場面だった。


 息ができない。喉が詰まり、叫ぼうにも声が出ない。目を覚ましたときには、全身が汗でびっしょりと濡れていた。


 最近では、その悪夢を週に何度も見るようになっていた。

 そして不思議と、それは外に出て動物の惨殺現場に立ち会った日や、麻里と何か気まずい会話を交わした日の夜に限って顕著だった。


 「……繋がってるのか?」


 圭吾はつぶやき、椅子にもたれかかった。天井の蛍光灯が滲んで見える。


 事件。家庭。不信。そして夢。

 それぞれはバラバラのようで、どこかで細く結びついているような気がしてならなかった。


 「いや、考えすぎか……」


 だが圭吾は知っていた。警察官としての直感が、静かに、確実に警鐘を鳴らしていることを。


 これらは単なる偶然ではない。


 何かが始まりつつあるのだ。


 そして、自分自身がその渦の中に足を踏み入れていることを、圭吾はようやく自覚し始めていた。


 勤務を終え、夕暮れが街をゆっくりと包み込む頃。

 主人公は駐在所の照明を落とし、階上にある自宅へと戻った。


 リビングでは、妻の麻里がいつも通りに食卓を整え、息子の碧も机に向かって学校の課題に取り組んでいた。湯気の立つ味噌汁の匂い、グラスに注がれた冷たい麦茶、テーブルに並べられた夕餉の光景。だが、その空間には、見えない亀裂のようなものが走っていた。


 ──あの盗聴器の業者が言っていた言葉が、ふと脳裏をかすめる。

「犯人は、案外近しい人間かもしれませんよ」


 まさか、と思う。思いたくもない。だが、否応なく心に居座るその予感は、夕飯の湯気よりも冷たく、重たかった。


 「今日の給食ね、カレーだったんだ」

 碧の明るい声が響く。

 「へぇ、それはよかったわね」

 麻里が笑顔で応じたが、どこかその声に覇気がない。

 主人公も笑顔を作って頷いたが、その心は波立っていた。


 夫婦ともに、表面上はいつも通りを装っていた。だが、互いの目を正面から見つめることは少なく、言葉の端々には、慎重さと怯えが混じっていた。


 あの業者の言葉が、頭の中で何度も反芻される。犯人が内部にいる可能性。それを否定するためにこそ、何か確かなものが欲しかった。


 スマホを見れば一発だ。それは確かだ。だが、碧のスマホにはロックがかかっており、しかも常に肌身離さず持っている。盗み見ることなどできるはずもなく、仮にできたとしても、それは親としての一線を越えることになる。


 麻里もまた、同じように思っているのだろう。

 「違うと信じたい。でも──」

 そんな心の声が、主人公には聞こえるようだった。


 何か、小さなきっかけでいい。違うと確信できる何かがあれば、それでいい。

 それを探すだけなのだ。疑うのではない。


 主人公は立ち上がった。

 「トイレ、ちょっと」

 何気ないふりで言って、廊下へ出る。麻里は後片付けに集中していた。


 碧の部屋の前で立ち止まる。戸の向こうからは、動画の音らしき小さな音が漏れていた。

 ──今は入れない。確信した。


 だが、もしも今夜、碧が風呂に入っている間にスマホを置いていたら? あるいは部屋を離れた隙に?

 そんな自問を抱えながら、主人公はゆっくりと自室へ戻った。


 この家の中に、信頼を損なう何かがあるのか、それとも──ただの思い過ごしなのか。

 その答えは、まだ霧の中だった。


 結局、ドアノブを握ったまま、主人公・圭吾はそっと手を離した。

 ドアの向こうに広がるかもしれない現実に、足がすくんだのだ。


 勇気がなかった。何も見つからなければ安心できたかもしれない。だが、もし痕跡が残されていたら──。

 そんな不安と、息子を信じたいという気持ちが、圭吾の中でせめぎ合っていた。


 ──なぜ直接聞かないのか。

 それもできなかった。向き合うことが怖かった。

 「何か知ってることがあるのか?」と問えば、全てが変わってしまう気がした。


 肩を落とし、圭吾はリビングへと戻る。

 麻里は食器を片づけている最中だったが、振り返って圭吾に小さく微笑んだ。その表情は、どこか張り詰めたものを無理に和らげようとするような、そんな微妙な温度を帯びていた。


 圭吾は黙ってダイニングの椅子に腰を下ろし、缶ビールのプルタブを静かに開けた。炭酸の弾ける音が、妙に大きく聞こえる。


 テレビの音もつけず、碧が自室に戻ったあとのリビングは、静けさが重たく漂っていた。


 缶を傾けながら、圭吾はふと碧のことを思い返す。


 ──あいつは、ゲームが好きで、友達とよくオンラインで騒いでいる。成績は、普通より少し上くらい。努力もしているし、これまで問題を起こしたこともない。


 思春期に入ってからは口答えも増えてきたが、それも成長の証。反抗の裏にあるのは、たぶん、まだうまく言葉にできない心の揺れだろう。


 ……自分の心に余裕がなかったのかもしれない。

 この環境、この家族、このSUMIKAという街。

 馴染もうとするあまり、見えなくていいものまで探していた気がする。


 そっとビールを置き、深く息を吐いたその時──駐在所の電話が鳴った。


 リビングにいても、その電子音は鋭く響いた。


 圭吾は一瞬、ビールの缶を置く手を止め、麻里と目を合わせた。


「こんな時間に……何かしら。珍しいわね」


 麻里が静かに呟いた。


 圭吾は無言で頷き、立ち上がると、階下の駐在所へと足早に向かった。胸の奥に残る不安を振り払うように、階段を降りていった。





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