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第6話『揺れる心』

 あのウサギ小屋の一件から、あっという間に三ヶ月が経った。


 初めの頃は、SUMIKA警察本部から数名の上司が渋い表情で訪れ、圭吾の体調を気遣いながら、駐在所までわざわざ詳細を聞きに来た。

 小さな町の駐在員という枠を超え、ひとりの人間として扱われたことは、圭吾にとって精神的な救いでもあった。


 しかし、その後も不穏な出来事は続いた。


 市内の公園や路地、空き地などで「ネコやイヌが異様な状態で死んでいる」という通報が相次いだ。

 死因はさまざまだった。脚を切断されたものもいれば、一見外傷はないのに眼球だけが抜かれている個体もいた。

 まるで、誰かが異常な『関心』を抱き、残酷な実験を繰り返しているかのようだった。


 そのたびに本部への報告を求められることが、圭吾には大きなストレスとなっていた。

 というのも、圭吾は自分が無能だと思われているのではないかという強迫観念に囚われていたのだ。

 「またか」と思われているのでは──そんな被害妄想めいた感情が、日ごとに心の中で膨らんでいた。


 一方で、麻里との生活は、見かけ上は穏やかだった。

 朝食の味噌汁を一緒にすすり、夕食後にテレビのニュースを見ながら他愛ない会話を交わす。

 だが──あの夜の出来事を境に、何かが静かにズレ始めていた。

 互いに触れ合うことはなくなり、夜の沈黙が、以前よりも長く、重く感じられるようになっていた。


 そんなある日のことだった。


 ベッドルームで冬物の毛布を探していた麻里が、キャビネットの奥にある木製パネルの継ぎ目に、違和感のある隙間を見つけた。

 「ん……?」

 身をかがめ、指先で隙間をなぞると、そこに異物の感触があった。

 指を差し込んで取り出すと、それは小さな黒い筒状の装置だった。


 「これ……なんだろう」


 麻里の声はかすかに震えていた。

 照明を向けて見ると、装置の先端には小さなレンズのようなものがあり、それはベッドの方向を正確に向いていた。


 「カメラ……? 盗聴器……?」


 圭吾が眉をひそめながらそれを受け取り、装置から伸びた細いケーブルを慎重にたどる。

 床板の下を這うようにして柱の裏に続いていたコードは、そこからさらに壁の中へと続いていた。


 「なんで……こんなものが……」


 麻里は唇をかみしめながら、圭吾の隣に立ち尽くしていた。顔は青ざめ、手は微かに震えている。


 「誰かが……私たちを……?」


 その言葉に、圭吾も息を呑んだ。

 これまで何度も過ごしてきたこの寝室が、誰かに覗かれていたかもしれない──その想像だけで、背筋が冷たくなった。


 ふたりは無言のまま、照明を手に再び床下を調べた。

 そして見つけた。さらなる異物。

 先ほどのものよりも精巧な、明らかに監視用とわかる小型カメラが、布張りの壁紙の裏側に巧妙に仕込まれていた。


 「……間違いないな。これ、誰かが意図的に設置してる」


 圭吾の声は低く、重かった。


 「どうして……私たちが……?」


 麻里の問いかけには、答えがなかった。

 ふたりの間に沈黙が落ちる。

 それは、恐怖よりも深く、根のように絡みつく不安だった。


 ──このベッドルームは、誰かに監視されていた。


 その事実が、じわじわとふたりの心を締めつけていた。


 見つかった盗聴器と隠しカメラを、圭吾はリビングのテーブルの上に並べていた。冷たい金属の光が蛍光灯に反射し、室内にひやりとした緊張が漂っていた。麻里とふたり、その異物を挟んで沈黙していた。


 「……一体、いつからこんなものが……」


 麻里の声はかすかに震え、指先もわずかに揺れていた。


 圭吾は腕を組んだまま、視線を逸らして答えに詰まっていた。生活のすぐ傍に、こんなものがずっとあったかもしれない──その想像が背筋を冷たくさせた。


 「でも、見つけられて良かったじゃないか。これで終わりかもしれないし」


 圭吾は落ち着いた声でそう言ったが、その言葉に麻里は眉を吊り上げた。


 「……終わり? 圭吾、何言ってるの? 一つ見つかったってことは、他にもある可能性が高いってことよ! なんでそんな悠長なことが言えるの?」


 「いや、確かにそうだけど、今はまだ騒ぎ立てるより、少し様子を──」


 「様子なんか見てたら、また誰かに覗かれるかもしれないのよ! あなた、平気なの? 自分たちのベッドルームを見られてたかもしれないのに!」


 麻里の声が一段と大きくなり、ついには怒鳴り声に近くなった。


 「それは……俺だって平気なわけじゃない。だけど──」


 「だったら、なおさらすぐに調べてもらわないと! 私、もうあの部屋にいるだけで息苦しいのよ!」


 麻里の顔は紅潮し、目には怒りと不安が混じった光が宿っていた。圭吾はその迫力に押され、言い返すことができなかった。


 「……わかった。ごめん、俺が間違ってた。すぐに専門業者に連絡する」


 麻里の肩がようやく落ちた。だが、怒りの余韻はまだ残っていた。


 「……お願い、もうこれ以上、何かが壊れるのは嫌なの」


 圭吾は小さく頷き、スマートフォンを手に取って業者を検索し始めた。


 ──『何かが壊れる』。その言葉に、圭吾の心はかすかにざわついた。


 彼女が意味しているのは、盗聴器によって脅かされた夫婦の安心だと信じたい。でも──もし、それが夫婦としての関係そのもののことを指していたのだとしたら。


 夫婦としての営みがなくなってから、もうどれほど経っただろうか。あの夜、麻里に噛まれた腕は、まだかすかに痛みを訴えていた。


 あれ以来、形の上では穏やかな日々が続いている。けれど、何かが欠けているような感覚は拭えない。


 もしかしたら、もう自分たちは壊れかけているのかもしれない──そんな予感だけが、胸の奥に薄く残った。


 その夜、圭吾は市内にあるセキュリティ調査を専門とする業者に電話を入れた。応対した担当者は、明朝の訪問が可能だと即答し、圭吾は時間を指定して依頼を終えた。


 電話を切ったあと、圭吾はテーブルに並ぶ盗聴器と隠しカメラを再び見つめた。

 その無機質な光沢は、まるでまだどこかに目を光らせているかのようで、胸に薄暗い不快感がじっとりと広がっていた。


 翌朝、圭吾の家には指定した時刻ぴったりに、セキュリティ業者の車が滑り込んできた。銀色のバンから降り立ったのは、黒いポロシャツを着た中年の男性と、その後ろに控えた若い助手だった。二人は簡単な挨拶を交わすと、手際よく専用の機器を取り出して作業を開始した。


 圭吾と麻里は、リビングのソファに並んで腰掛けながら、その様子を見守っていた。中年の作業員は、無言のままリビングから寝室、バスルーム、玄関と順に調査を進め、助手はタブレットで数値を記録していく。


 一時間ほどが経過した頃、作業員がタブレットを手に戻ってきた。


 「調査、終わりました。他に盗聴器やカメラの反応はありません」


 その言葉を聞いた瞬間、圭吾と麻里の肩から力が抜けたように、同時に息を吐いた。麻里は両手を膝の上でぎゅっと握りしめたまま、涙をこらえるように目を伏せた。


 「……よかった、本当に……」


 「これで、少しは落ち着けるな……」


 圭吾は麻里の背中に手を添えて、静かに撫でるようにしていた。その仕草には、彼自身も安堵しようとしている様子が滲んでいた。


 だが、業者はふいに声を潜めるようにして言葉を続けた。


 「ただ、気になる点が一点あります」


 圭吾と麻里が再び顔を上げる。


 「昨日見つけた隠しカメラの型式ですが、Wi-Fi式のスナップショット送信タイプでした。スマートフォンに専用アプリを入れるだけで、映像がリアルタイムで送られるタイプです」


 圭吾は眉をひそめた。


 「つまり……設置した人間が近くにいた可能性が高い、ということですか?」


 「そうなりますね。多くは、外部の者というより“家庭内”のケースが多いんですよ」


 麻里がピクリと肩を揺らした。


 「家庭内……」


 「ええ。例えば、夫婦間の問題とか、親子関係とか。もちろん断定はできませんけど、実際、調査してみると身内が関与している例は少なくないんです」


 圭吾は、その言葉に一瞬、碧の顔が脳裏をよぎった。しかしすぐに首を横に振った。


 「そんなはずは……」


 「ご安心ください。ご子息のことを指しているわけではありません。あくまで“可能性”の話です。ただ、犯人がスマートフォンにアプリを入れている限り、追跡は可能です。ただし……」


 「ただし?」


 「もし犯人が“バレた”と気づいたら、すぐにアプリを削除する可能性が高い。その場合、手がかりはほぼ消滅します」


 沈黙が落ちる中、作業員は真剣な眼差しで二人を見つめながら続けた。


 「ですから、もし犯人を特定したいというのであれば、元の場所に戻して、しばらく様子を見るのも一つの手ではあります。囮ですね」


 麻里が息を呑んだ。


 「そんな……またあの部屋で生活するなんて……」


 圭吾も表情を曇らせた。内心では、この状況に強い不快感と恐怖を覚えていた。それ以上に、そうしたことを本部に報告しなければならない自分の立場が、じわじわとストレスになっていた。


 本部に報告するたびに、“無能な駐在”と思われているのではないかという不安が胸を締めつける。今回もまた、“なにかを見逃していた”と評価されるのでは──そんな考えが頭から離れない。


 「ご提案だけしておきます。どうされるかは、ご自身でご判断ください」


 業者は礼儀正しく頭を下げ、助手とともに静かに帰っていった。


 玄関のドアが閉まると、またしても静寂が戻った。


 圭吾と麻里は並んで立ち尽くし、その沈黙の中に、まだ終わらない不安がじわじわと広がっていくのを感じていた。


 圭吾は、自宅一階にある駐在所の事務机に腰を下ろしていた。朝の光が窓から差し込み、まだ人の気配の薄い街並みに、春の空気がゆっくりと流れている。だが、その穏やかな光景とは裏腹に、彼の胸中は重く沈んでいた。


 昨晩、盗聴器と隠しカメラが見つかったという現実。それをいまだ本部には報告していない。


 うさぎ小屋の惨殺事件のときとは違っていた。あの件は、外部の犯行と判断できる明確な痕跡があり、報告義務は当然だった。だが今回は、犯行の意図も、設置した人物の素性も不明瞭だ。──むしろ、考えたくはないが、“家の中”の誰か、つまり家族の可能性すらある。


 しかも、仕掛けられた場所が自分の勤務先であり生活の場でもある駐在所兼自宅だということが、事態の深刻さをより際立たせていた。もしこれを本部に報告すれば、徹底した内部調査が入り、家族の生活や内面にまで土足で踏み込まれることは避けられない。


 圭吾は自問した。


 ──自分は、職務を果たすよりも、家庭を守ることを選ぼうとしているのではないか?


 報告をためらっている理由が、ただの自己保身であってはならないと彼は強く思っていた。だが、それ以上に、本部の上層部に「無能」と思われることへの恐れ──それもまた、否定しきれない感情としてあった。


 それでも、報告を見送ったのは、家族を守りたかったからだ。麻里のあの時の怯えた目や、碧のまだ無垢な笑顔が、赤の他人の目にさらされることだけはどうしても避けたかった。


 問題はただ一つ。

 犯人を完全に放置することは、圭吾の中でどうしても許せないことだった。


 業者の残した一言が脳裏を離れない。

「Wi-Fi型で、スマホにリアルタイムで送信されるタイプ。比較的近くにいる人間の犯行の可能性が高いですね」


 近くにいる人間……。


 まさか、と思いながらも──息子・碧の顔が一瞬、頭をよぎった。

 いや、あの子がそんなことをするはずがない。そう思いたい。

 だが、警察官としての直感は、心の奥で別の警鐘を鳴らしていた。


 麻里には言えなかった。もし口にすれば、あの小さな家族の絆が崩れ始める気がして。


 だから、調べるのは自分一人でやると決めた。


 この件は、本部には報告しない。

 それは決して自己保身のためではない。

 これは、家族のプライバシーを守るための選択だ──たとえ、その選択が正義から逸れていたとしても。


 だが、もし碧が犯人だったとしたら。


 その時は……。


 圭吾は、深く息を吐きながら、そっと机の引き出しを開けた。そこには業者から返された、あのカメラと盗聴器がしまわれている。


 朝の光の中、それを見つめる彼の目は、薄く疲れの色を滲ませていた。


 ──まだ、壊れてはいない。

 だが、確実に“予兆”はある。


 「……確かめなきゃいけない」


 その呟きは、静かな駐在所の一室にだけ、ぽつりと落ちた。






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