第5話『シートに覆われたウサギ小屋』
朝の電話を受けた圭吾は、駐在所の端末で補助システムモードを起動確認してから制服の胸元を整えた。
非番明けではあったが、警察官としての責任感が自然と身体を動かしていた。SUMIKA複合校、SUMIKAでは少し学校の様相が異なる。街のコンパクトな構造に合わせ、小学校から高校までがひとつのキャンパスに統合されている。6歳から18歳まで、約千人の子どもたちが同じ敷地内に通う大規模な学びの舎だった。
街の中心から少し東にずれた場所にあるその校舎は、つい最近新築されたばかりで、白を基調としたガラス張りのモダンな外観が太陽を受けて静かに光っている。
校門をくぐった瞬間、圭吾はどこか胸の奥にざわつくものを感じた。
電話越しの教頭の声は、あきらかに平静を装っていた。だが、裏にある焦燥と緊張は隠しきれていなかった。
(警察を呼ぶということは……学校の内部で解決できない問題が起きている、ということだ)
足早に校舎へと向かうと、すぐに正面玄関の外で二人の人物が待っているのが見えた。
一人は、朝の電話をかけてきた教頭。年の頃は五十代後半、細身のスーツ姿に眼鏡をかけた真面目そうな中年男性だった。
もう一人は、生活指導を担当していると見られる、やや年若い女性教諭。髪を後ろに束ね、表情には張り詰めた緊張が滲んでいた。
二人とも、圭吾の姿を認めると、ほっとしたように微かに頷いた。
「駐在さん、ありがとうございます。お忙しいところすみません」
教頭が小走りで近づいてきて、ぴたりと頭を下げた。その背後では、校舎のガラス越しに複数の教職員が廊下からこちらを伺っている姿が見えた。
この学校で、今何かが起きている。
圭吾は、制服のポケットに手を入れたまま、僅かに頷いた。
「状況を教えてください。場所はどちらですか」
教頭と女性教諭が顔を見合わせ、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……正直、私たちにも全貌は掴めていません。ただ、生徒たちにかなりの動揺が広がっていて……」
「現場は、小学生たちが飼育しているウサギ小屋のところです」
女性教諭が絞り出すように付け加えた。
圭吾の中で、何かが軋むように鳴った。
教頭の案内で校舎の裏手に回った圭吾は、思わず立ち止まった。
そこには、学校の片隅にあるはずの「うさぎ小屋」が、まるで凶悪事件の現場のように、背丈ほどの緑色の防災シートで三重に覆われていた。
風に揺れるシートの端が一瞬静止するたび、圭吾の胸にぞわりと嫌な予感が這い上がる。生徒の視界を遮断するには十分すぎるほどの徹底ぶりと、その不自然な緊張感。
教頭の顔には、明らかに疲弊した影が浮かんでいた。
「……これ以上、生徒たちに見せたくなかったんです。朝、登校してきた子が……たまたま通りかかって」
声の調子は震えを帯びており、どんな“光景”がこの中にあるのかを予感させるのに十分だった。
近づくにつれ、鼻腔に入り込む異臭が濃くなる。土と木材の匂いの奥に、じっとりと湿った鉄のような、甘さを含む腐敗の香りが混じっていた。
圭吾は喉の奥がひりつくのを感じながら、防災シートの隙間に指をかけた。
中に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
温度が低い。湿気がこもり、まるで誰かがここにずっと閉じ込められていたかのような重苦しさ。光が遮断されており、ほんのり差し込む日差しさえ色を失っていた。
木製のうさぎ小屋の柵は激しく壊されており、地面の土はあちこちで掘り返され、散乱した白い毛が粘り気を帯びて泥にまみれていた。
足を進めるたび、柔らかく湿った感触が靴の底にまとわりつき、嫌でも注意をそらせてくれない。
その中央に、小さな白い体がいくつも倒れていた。
一体は、腹部が大きく裂かれ、赤黒く染まった藁の上で仰向けに横たわっていた。すぐ隣には、明らかに体内から取り出されたと思しき臓器が並べられていた。内臓は乾ききることなく生々しく、どこか“並べられた”ような意図的な配置を感じさせた。
別の一体は、壁際に叩きつけられたかのように転がっており、頸部が奇妙な角度に折れ曲がっていた。骨が皮膚を内側から突き破ろうとしているように、盛り上がって見えた。
また別の一体には、喉元に注射器のようなものが突き刺さったまま残されていた。刺したまま力尽きたようなその光景に、圭吾の指先はひどく冷たくなった。
どれも、衝動的な行動では説明がつかない。異常性、悪意、そして何か“演出”めいた気配すら漂わせていた。
「……まだ、片付けていません。警察の方に、先に見てもらった方が良いと」
教頭の声が、背後から絞り出されるように届く。
圭吾は返事を返さなかった。言葉が、出なかった。
背中を汗が伝い、喉が張り付いたように乾いていた。
子どもたちが遊ぶ小屋だったはずの場所が、今やまるで儀式の跡のような、異様で不穏な空間へと変貌していた。
そして、その静けさの中に──水音が響いた。
コツ、コツ、と蛇口の締まりの悪い音がどこかで鳴っている。水の音が妙に生々しく、規則正しく、鼓動に重なるように響く。
「この学校で……こんなことが……」
教頭の呟きは、誰にというわけでもなく、空気に溶けて消えていった。
圭吾は小屋全体を見渡し、重く息を吐いた。
この街で初めて、“完全な異常”が明確に姿を現した瞬間だった。
教頭との簡潔な情報共有を終えた圭吾は、深く静かな呼吸をひとつ吐き出した。まだ体の芯が冷えているような感覚が残っていた。
うさぎ小屋の内部──そこにあった光景は、彼の記憶にこびりついて離れない。小屋の中に漂っていた鉄錆のような血の匂い、濡れた毛が泥に貼りついたような感触。そして何より、並べられるように倒れていた白い小さな遺体たち。
本来であれば、うさぎの飼育は子どもたちに命の大切さを教えるためのものだったはずだ。
命を預かる責任。生き物とふれあい、思いやりを育むための機会。手を汚し、世話をし、やがて死を迎えるその瞬間に心を寄せる。そういう教育的価値が、確かにそこにあった。
だが。
近年では、動物アレルギーへの配慮や、飼育環境の確保が難しいことから、学校での動物飼育そのものが減りつつある。夏休みなどの長期休暇中に誰が世話をするのかという問題も、常に議論の的だった。
それでも──SUMIKAは、それを選んだ。子どもたちに“命に触れさせる”ことを教育方針の一環として掲げ、うさぎ小屋を存続させてきた。
その結果が、これだ。
圭吾は、感情を押し殺しながらも、胸の奥に沈殿していく鈍い怒りと虚しさを否定できなかった。
子どもたちが慣れ親しんできた小屋。彼らが手で藁を替え、水を与えてきた場所。その空間が、今や見るも無惨な惨劇の現場へと化していた。
教頭があれほどの緑のシートで小屋全体を覆い、目に触れないようにしたのも当然だろう。生徒たちにこれを見せるわけにはいかない──そう判断した大人の責任が、そこにあった。
だが同時に、これをこのまま済ませるわけにもいかない。
圭吾は校舎内の空き教室に入り、携帯端末を開いた。
まず、駐在を統括するSUMIKA警察本部への報告。
現場の写真、状況の要約、そして動物虐待に該当する可能性を示した簡易的な初動レポートをまとめ、添付して送信する。
次に、法的義務こそないものの、動物愛護団体への通報文を作成した。
公共施設内での動物に対する異常な加害行為は、教育的・倫理的観点からも大きな問題となり得る。専門的知見による助言を仰ぎ、必要があれば外部からのサポートも求めるべきだと判断した。
特にこうした動物虐待の事案は、発展的に猟奇的な事件へと結びつく危険性を孕んでいる。初期の兆候を見逃すことが、将来の重大犯罪を見逃すことにもなりかねない──そんな警察官としての危機意識が、圭吾の手を動かしていた。
文書を打つ手のひらは、どこかぎこちなかった。手が震えていた。
何かが、壊れている。
誰かが、壊れている。
だが、それが誰なのか、何のためなのか、まだまったく見えてこない。
SUMIKA──管理された、理想の都市。
安心、安全、そして秩序の象徴であるはずのこの街で、誰かが明確な意志を持って、命を弄んだ。
圭吾は、空になった画面に自分の顔がぼんやりと映るのを見つめた。
その中の自分の瞳が、わずかに濁って見えたのは気のせいだったのだろうか。