第4話『駐在と噛まれた夜』
帰宅して荷物を置いた圭吾は、ふとリビングの明かりを落とし、ぼんやりとソファに腰を沈めた。
昼間に買った袋を視界の端に置いたまま、手持ち無沙汰に天井を見上げる。心の奥から、ふいに甘くもほろ苦い記憶が浮かんできた。
(……あの頃の麻里は、ほんと、眩しかった)
麻里と初めて出会ったのは、まだ自分が警察署に配属されて間もない頃だった。右も左も分からず、毎日が緊張と失敗の連続だった。圭吾は新人の巡査で、何をやってもぎこちなく、特に報告書の作成では様式すら間違えては書き直す始末。現場対応では空回りし、無線の扱いもおぼつかない。上司には小言を食らい、同僚の視線には苛立ちが混じっていた。
そんなある日、署内のコピー機の前で、麻里は声をかけてきた。
「それ、“様式3”じゃなくて“様式5”じゃない? 対象、窃盗じゃなくて器物損壊でしょ」
凛とした目元に、少しだけ困ったような笑みを浮かべながら。麻里は交通課に所属する女性警察官で、制服姿がよく似合っていた。動作も言葉もきびきびとしていて、署内でも評判の存在だった。
「……あ、すみません」
俯きながらも、圭吾はその声の柔らかさに救われる思いだった。
「最初はみんなそんなもんよ。私も新人の頃、報告書で毎日怒られてた。あんたの三倍はミスしてたかも」
ふいにそう笑うと、麻里はコピー済みの書類を手に、軽やかに立ち去った。
その背中が、不思議と印象に残った。
──それからというもの、圭吾はいつも麻里の姿を目で追っていた。
「今日の天気、午後から崩れるって」
「この前の現場、よく対応したって聞いたよ」
廊下ですれ違うたびに交わす短い言葉。書類の受け渡しの際に見せる笑顔。その一つひとつが、少しずつ、確かに圭吾の心に灯をともしていった。
初任給の明細を見た日、圭吾は真っ先に思った。
(何か、彼女に渡せるものを買おうか)
──そんな風にして、恋は静かに始まっていたのかもしれない。
今思えば、今日、衝動的に買い物へ向かったのも、麻里を想ってのことだった。
少しでも彼女に喜んでほしい。
少しでも彼女に触れたい。
リビングの静けさの中、圭吾はそっと目を閉じた。
そして、出会った頃の麻里の笑顔を、もう一度だけ心に思い描いた。
■
寝室の照明は落とされ、カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりだけが、うっすらとベッドルームを照らしていた。
圭吾は麻里の隣で横になりながら、夕食時にも話した健診での出来事を再び口にした。
「……それでさ、あの医者が言うんだよ。寝る前に水を飲めば夢を見なくなるかもって……」
麻里はシーツを引き寄せながら、まぶたを閉じたまま小さく息を吐いた。
「圭吾、それ……さっきも聞いたわよ?」
声にはとげがなかった。責めるような色はなく、ただ圭吾の心に静かに寄り添うような、あたたかな響きがあった。
それがかえって、圭吾の胸に鈍い痛みを残した。
(……また繰り返してる。何度も、同じ話を……)
自分の中にある“空白”がじわじわと広がっていく感覚。まるで、どこかの歯車がゆっくりと噛み合わなくなっていくような、奇妙な不安。
しばらくの静寂のあと、寝室に隠すように持ってきたアダルトグッズ……大人の制服を麻里に見せた。
「これ着てくれないか」
「何よそれ……」
麻里の表情は露骨な嫌悪感を示していた。
それでも、圭吾は迷うように手を伸ばし、麻里の肩にそっと触れた。
「麻里……なあ、久しぶりに……お前に触れたい。一つになりたいんだ」
言葉にしてしまえば、それはただの欲求に聞こえてしまうのかもしれない。
けれど圭吾にとって、それは孤独の中での救いを求める叫びでもあった。
麻里の身体が小さく強ばる。
「ごめんなさい……今日は、そんな気分じゃないの」
「いつもじゃないかよ。最初は今日はアレの日だとか……碧を授かってからずっとじゃないか!」
その言葉は柔らかだったが、圭吾には拒絶の刃のように感じられたから口ぶりが強く以前から思っていた事を言葉にしてしまった。
「……俺のこと、もう……愛してないのか?」
声が震えた。聞きたくなかった問いを、自ら口にしていた。
麻里は目を開き、こちらを見た。目の奥に、哀しみと戸惑いが混じった光が浮かんでいた。
「圭吾……違う。愛してるよ。でも……今、わたしがそうじゃないってことも、あなたならわかってほしいの」
“愛してる”のに応えられない。
それに「愛してるなら、そんな汚い服なんか着させようとしないよ」
麻里が言うのはもっともな事で反論出来ない。
それは、どちらにとっても辛いことだった。
圭吾の心には、理解と衝動がせめぎ合っていた。
彼女の言葉を飲み込みながらも、心の奥に広がる空虚がそれを上書きしていく。
「でも、俺は……俺は……」
その言葉の続きが出る前に、圭吾は麻里の肩を抱き寄せていた。
「やめて……圭吾、お願い。ほんとに、やめて……」
必死な声だった。麻里の小さな手が圭吾の胸を押し返してくる。
けれど、止まらなかった。
(愛してるなら、受け入れてくれよ。俺は、ただ、つながっていたいだけなのに)
圭吾はそのまま麻里をベッドに押し倒した。
その瞬間──
「いやああああっ!」
叫びとともに、激しい痛みが走った。
麻里の歯が、圭吾の腕に深く食い込んでいた。
「ぐっ……!」
反射的に体を引く。ベッドの上で麻里は肩を震わせ、涙をこらえるように息を荒げていた。
圭吾は、にじむ血を見た。にじんだ痛みが、徐々に冷静さを呼び戻していく。
「……ごめん、麻里。ごめん……」
震える声で謝るしかなかった。
けれどその謝罪が、どれほどの意味を持つのか、圭吾自身にもわからなかった。
圭吾と麻里。
二人のプライベートな空間を自室で見ていた者がいた。
ベッドルームの照明に密かに設置していた隠しカメラの映像と鮮明な音声。
碧が一言つぶやく「つまらないな。僕は大人のセックス見たかったのに……」
朝の駐在所には、どこか張りつめたような静けさが漂っていた。
制服に袖を通しながら、圭吾は壁際のロッカーに掛けられた鏡に自分の顔を映した。そこに映るのは、ややくたびれた目元と、ひどく気だるい表情。そして――右腕に貼られた、肌色の絆創膏だった。
(……やっぱり夢じゃなかったんだな)
ほんのわずかに額をしかめ、圭吾はそっと腕を下ろした。麻里の叫び声、拒絶の力、そしてあの噛み痕の痛みは、すでに身体的には癒えかけている。
だが、心には妙な重さだけが残っていた。
昨晩も、あの嫌な夢を見ていた。
蛇口からぽたぽたと落ちる水の音、血まみれの少女の姿。そして、目覚めた瞬間のあの冷たい汗。現実と夢の境目があいまいになってきている。
「……麻里」
名を呼ぶように、圭吾は小さくつぶやいた。届くはずのないその声は、壁に貼られた地域マップの上で消えていった。
夫婦関係自体は、決して悪いものではない。
麻里は思慮深く、家事も育児も手を抜かない。息子の碧に対しても、いつも穏やかで、優しく接している。
けれど──
碧が生まれてからというもの、夫婦としての営みはすっかりなくなっていた。
「……セックスレス、ってやつか」
誰にも聞かれないはずの空間で、苦笑混じりに呟いてみる。思えば、最初はそんなに気にしていなかった。子育てが落ち着けば、また自然と戻ると思っていた。
だが昨夜、麻里に噛まれた瞬間──彼女の拒絶が「偶然」や「気分じゃない」などというレベルではなく、もっと深い“拒否の意思”だったと、ようやく気づかされた。
(……もしかして、麻里は心のどこかで俺の異変に気づいているのかもしれない)
自分でも最近、何かがズレてきている感覚はあった。
壊れかけているというほどではないが、心の奥で小さな軋みが生じている気がする。夜になると、それがジクジクと疼き出す。
(……忘れよう。仕事に集中しよう)
圭吾は気を取り直し、掃除道具を手にした。
箒を持って駐在所の床を掃きながら、無人対応端末の液晶に目をやる。
今日も、事件の匂いはどこにもなかった。
この街は平和だ。あまりにも、異様なまでに──
――プルルルル。
そのとき、壁際の古びた黒電話が突然鳴った。
圭吾は一瞬箒の手を止め、受話器へと手を伸ばす。
「はい、こちら駐在所です」
受話器の向こうから聞こえたのは、やや緊迫したトーンの女性の声だった。
『あの、こちらSUMIKA複合校の教頭です。少し、お話が……』
空気が変わった。
どこかでギシ、と音が鳴ったような気がした。
圭吾の心臓が、じわりと速さを増す。
(……碧のことじゃない。けれど、何かがあった)
朝の光は穏やかなままだったが、その穏やかさに小さなひびが入りはじめていた。