第3話『抑えきれない衝動』
健康診断を終え、午後の陽射しが傾きはじめた頃。村瀬圭吾は、SUMIKAの人工的な整備道路を、静かに車で走っていた。窓の外を流れる街並みはまるでCGのように整いすぎていて、どこか現実感に欠けていた。
真新しい街路樹、塵一つない歩道、等間隔で設置された監視カメラ付きの街灯。空には音もなく無人の配送ドローンがすいと通り過ぎ、小型の清掃ロボットが淡々と路肩をなぞっている。まるで街そのものが生きているかのようだった。
この街には、無人のサポート端末があちこちに設置されている。例えば、交番の外壁にもめり込むように設置された無人端末は、簡単な道案内や落とし物の受け付け、地域のお知らせ、場合によってはペットの迷子情報まで対応していた。
たいていの住民は、人よりもこの端末を頼る。
こういった端末があるから圭吾は非番の日でも安心だった。
と言っても、流石に交通事故など人の手がかかる内容の時は知らせが端末から圭吾のスマホに連携するようにはなっていた。
でも、この一ヶ月に8回ほど非番を迎えていたがスマホからの知らせは皆無だった。
それは、圭吾がこの街に来てからの一か月間、駐在所に寄せられた通報や依頼は驚くほど少なかった。あったとしても、誰かが何かを落としたとか、子どもが鍵をなくしたといった日常的なトラブルばかり。
しかもそのどれもが、無人端末によって“事前に”処理されていた。
「駐在いらないんじゃないか、これ……」
呟きは自嘲混じりだが、本音でもある。街を歩いていても、住民と顔を合わせる機会は少なく、巡回しても声をかけられることすらない。
「……今日も平和だな」
独り言のようにつぶやいても、自分の声がやけに響いて聞こえる。非番の午後。駐在所に戻れば、あとは夕飯までゆったりとした時間が待っているはずだった。
けれど、なぜか心はざわついていた。理由のない不安というより、どこか身体が警戒しているような感覚──。
(妙に静かだな……)
SUMIKAに来てから何度思ったか分からない言葉が、また頭をよぎる。その時だった。
ふと歩道脇に目を向けると、住宅街の角のあたりに、二人の女性の姿があった。帰宅途中の女子中学生だった。
会話の内容までは聞こえないが、時折ふっと笑う仕草が見える。
学生時代には誰もが経験した事がある友人との自転車の並走走行。
でも、こういうのは話に夢中になっていると急な歩行者の飛び出しや出てきた車との接触から事故の元なのは警察官としてよく知っている。
親切心で今日は非番だけど注意するかと思いもう一度彼女達に視線を移した。
だが、圭吾の目を釘付けにしてしまったのは女子中学生のべダルを漕ぐムチムチとした若さからでる太ももだった。太ももの上には、短めの学生服のスカートが見えた。
何を見ているのだろう。
あんな場所に視線を集中してはいけない。
でも、見てしまう。
そんな時、気まぐれな風が吹いて彼女達のスカートが捲られた。
「キャー」
若い声が耳に入った。
偶然に見えてしまったのは下着ではない。
ブルマではあったが圭吾は下半身に熱い血の巡りを覚えてしまう。自分では抑えられない交感神経が無せる術。
女子中学生が通り過ぎた後、圭吾は現場にハザードを焚いて車を停めていた。
(あれはたまたまた起こってしまった。別にやましいことをしてたわけじゃない)
背中にじっとりと汗がにじんでいた。まるで自分が悪いような後味の悪い感覚。
圭吾は、おもむろにシャツのポケットに突っ込んでいたスマホを手に取ると検索をかけていた。
「近所のアダルトショップありますか?」
「SUMIKA内には0件……該当なし」
そのかわり、代わりに今は必要としていない情報の羅列。
液晶にはニュース、天気、自治体からのお知らせ──どれもAIによって整えられた、清潔すぎる情報の波。心がざわつくような刺激は一切排除されている。
ふとした思いつきで検索に入れたワードも、ことごとく弾かれた。
『喫煙所』──該当なし。
『酒屋』──該当なし。
『アダルト』──入力できません。
圭吾は目を細め、スマホの画面を見つめる。
「……本当に、何もない街だな」
SUMIKAでは、アルコール、タバコ、性表現を含む一切の物品・サービスが規制対象となっていた。街中には酒類を扱う店もなければ、電子書籍ストアでさえフィルタリングがかけられており、刺激的なコンテンツは表示すらされない。
表向きの理由は「住民の健康と健全な精神衛生を守るため」。
だが、それは本当に“善意”だけで成り立っているのか。
圭吾は知らず、喉の奥を詰まらせたような気持ちになる。誰にでも言えない本音や欲望は、どこに行けば発散できるのか。
そのときふと思いついた。
──街の外に出ればいい。
SUMIKAの北端には、一般道と繋がる出入り口がある。外に出ること自体は禁じられていない。病院、買い物、用事──目的があれば住民も自由に出られるのだ。
圭吾は車のキーを手に取った。
ゲートは、想像以上に物々しい造りだった。
バイオ認証ゲートとドーム型監視カメラ。通行の記録はIDで自動的に取られる。車両番号、出入り時間、同行者の有無──全てログとして記録される。
けれど、それはあくまで「安全管理の一環」とされている。誰も反対はしない。
ゲートを抜けた瞬間、圭吾は思わず深呼吸した。
空気が変わった。
コンビニの看板、道路脇のビル広告、タバコの自販機、車のクラクション。そこには、“管理されすぎていない世界”があった。
そしてその自由は、奇妙なまでに懐かしく、どこか“罪深い”ものに感じられた。
「なんだこれ……俺、何か悪いことしてるみたいじゃないか」
車内のミラーに映る自分の顔が、どこかこわばっているように見えた。
圭吾は、SUMIKAの街を出る前に一度スマホで検索したアダルトショップの位置情報を思い出しながら、ハンドルを握りしめた。
その目的地に向かうことに、果たして“自由”という言葉は似合うのか。
──この街は、俺たちの何を守っている? 何を、試している?
答えの出ない問いが、車の走行音にかき消されていった。
SUMIKAのゲートを越えてから、小一時間ほど国道を走った先に、それはあった。
青白いネオンサインを掲げたその店は、かろうじて「書房」と銘打っていたが、圭吾が思い描く“本屋”のイメージとは、どこかかけ離れていた。
昼下がりの陽射しは強く、アスファルトの上に陽炎が揺れている。車を停めた瞬間、周囲の空気の違いに圭吾はすぐ気づいた。SUMIKAに満ちていた無臭の空気とは違い、ここには排気ガスと湿った土の匂いが混ざっていた。看板には年季が入り、壁の一部には薄くなった落書きが残されている。
圭吾はしばし車内でためらい、窓越しに店を眺めた。足元にはコンビニ袋が転がり、駐車場の隅には干からびた雑草が揺れている。
「……別に、違法なことしてるわけじゃない」
そう心の中で言い聞かせ、ゆっくりとドアを開けた。
足を踏み入れた店内には、どこか雑然とした空気が漂っていた。
雑誌、漫画、古びた実用書、そして少し時代遅れのビジネス書がぎっしりと並んでいる。その隙間に、不意に目を引くような表紙の雑誌が顔を覗かせている。店内奥の一角には、“おとなのエリア”と書かれた小さな札がひっそりと掲げられていた。
BGM代わりのラジオからは、昭和の懐メロが流れている。昭和どころか、平成も遠くなった現代に、こんな音楽を流す店がまだ残っていることに圭吾は軽く驚いた。
とりあえず雑誌棚を見回る。探しているものがあるわけではない。むしろ、この混沌とした空気に触れることで、自分の中の何かを確かめたかったのかもしれない。
──そして、彼の足は止まる。
“その先”にあるコーナーを、もう一度だけ見ておこう。そう思った。
仕切りの向こうには、鮮やかなピンクや赤のパッケージが無数に並んでいた。説明文は過剰なまでに語りかけ、商品たちはどれも「刺激」と「興奮」を売り文句にしていた。
それらに目を奪われたわけではない。ただ、その空間に漂う空気──人間の衝動が、剥き出しのまま肯定されているような感覚──に、圭吾は妙な懐かしさを覚えた。
「……こういうのが、普通なんだよな」
検診の時に見た同じ街に住む表情のない人達の事が一瞬脳裏によぎる。
つぶやいた声は、商品棚の陰に吸い込まれていった。
SUMIKAでは、こうした“人間らしさ”は排除されている。健康的で、清潔で、調和的──だが、そのぶんどこか乾いていた。
ここには、混沌があった。規則から外れた欲望や衝動が、ごく自然な顔で並んでいた。
圭吾は店内を一通り見て回ったあと、あらためて大人向け商品の棚に戻り、目的だったアダルトなコスプレグッズを手に取った。それは女子高生の制服。ブレザーの制服を大人向けように過激に露出させ性の欲望を爆発させるような導火線のようなグッズ。別にネットでも注文できる品だ。しかし、今日――今、必要だったのだ。目の前で現物を選び、自らの手で購入するという行為そのものに、意味があった。
そして着せて楽しみたい相手が圭吾にはいる。
SUMIKAでは考えられないこの感覚。圭吾の中で、それは小さな背徳感とともに“人間らしさ”を思い出させてくれた。
久々に抑え切れない衝動に駆られた非番の1日。気分は悪くない。
ただ、罪悪感が少し胸を締め付けるだけ……。
店を出る頃には、昼下がりの光が傾き始めていた。西日に照らされながら、圭吾は車に乗り込み、再び境界の街へと戻るハンドルを握った。