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第22話『SUMIKAプロジェクト』

 診察室の中は、冷たい朝の光と蛍光灯の白い明かりに満たされていた。壁に掛けられた時計の秒針が、カチリ、カチリとやけに大きく響く。村瀬圭吾は、冷や汗に濡れた手で拳銃を握ったまま、仲上医師を睨みつけていた。心臓は胸を打ち破るように早鐘を打ち、耳の奥では自分の血流の音が渦巻いている。緊張で呼吸は浅く、口の中はカラカラに乾いていた。


 「……ロボトミーの話と、俺たちに何の関係があるんだ?」


 圭吾の声は低く、掠れ、怒りと焦燥が混じり合っていた。仲上はしばらく沈黙し、視線を外さずに圭吾を見返した。その瞳には、どこか決意と諦めが入り混じった色があった。そして、ゆっくりとノートPCを開く。薄いファンの駆動音が、静寂の診察室に小さく響いた。液晶画面が白く光を放ち、圭吾の顔に反射する。


 「……言葉より、これを見ていただいたほうが早いでしょう」


 仲上は静かにそう告げると、キーボードを打ち込んだ。画面に現れたのは、冷たいデータベースの画面。ファイル名には「SUMIKA_被験者履歴」の文字が並ぶ。仲上の指先が止まると、圭吾の家族の経歴が一覧となって浮かび上がった。


 「……何だ、これは……?」


 圭吾は思わず身を乗り出した。画面に映った文字を目で追うにつれ、全身の血の気が引いていくのを感じる。


 最初に表示されたのは、自分自身の名前だった。「村瀬圭吾」――その横には、括弧付きで別の名前が記されている。まるで、自分の知らない“本当の名前”を突きつけられたようだった。その下に並んだ記録に、圭吾は凍り付く。


 ――性の衝動から塾帰りの少女を多目的トイレに連れ込み、暴行後に殺害。

 ――裁判では重度の精神疾患が認定され、医療指定入院医療機関に収容。


 「……俺が……こんな……?」


 喉の奥からしぼり出した声は震えていた。手の中の拳銃もわずかにカタカタと音を立てる。現実感が薄れ、足元がふわりと浮くような感覚に襲われる。


 仲上は淡々と作業を続け、スクロールした。次に現れたのは麻里のデータだった。


 ――村瀬麻里:大規模なロマンス詐欺および特殊詐欺に関与。フィリピンで逮捕。

 ――刑の軽減を条件に、SUMIKAプロジェクトへの協力を承諾。


 「麻里が……詐欺の首謀……?」


 圭吾は信じられないというように呟き、息をのんだ。昨夜、血の海で息絶えていた妻の面影と、冷たいデータの文字列が重なる。目の奥が熱くなり、涙とも汗ともつかぬものがにじむ。


 そして最後に、碧の経歴が表示された。


 ――村瀬碧:同級生を自宅に誘い込み殺害。動機は「人を殺したかった」。

 ――殺害後に遺体を解剖。医療少年院に送致され、その後保護観察。


 「……嘘だ……そんなはず……碧は……」


 圭吾は声にならない悲鳴を漏らし、壁に片手をついてよろめいた。目の前の画面がにじみ、遠く霞んでいく。頭の奥でゴウゴウと風が鳴るような幻聴が響く。耳には、自分の心臓の鼓動がやけに大きく響いた。


 仲上はゆっくりと圭吾の方に顔を向け、冷ややかに、しかし哀れむような口調で告げた。


 「……つまり、あなた方は血のつながった家族ではありません。赤の他人同士を集めて作った――偽装家族なのです。そして、SUMIKAプロジェクトは、その過去を消し、別人としての“新たな生活”を与えるための実験場です」


 「……偽装……家族……?」


 圭吾はつぶやき、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。頭の中で、昨夜の惨劇と血まみれの寝室がフラッシュのように蘇る。麻里の冷たい体、碧の歪んだ笑み、血まみれの少女の幻影。そして今、目の前の画面に突きつけられた、覆しようのない過去の罪。


 呼吸が荒くなる。肺が縮むように苦しい。視界が揺れ、診察室の白い壁が遠ざかったり近づいたりする。膝が震え、思わず机に手をついた。


 「……俺たちは……最初から……」


 声は震え、喉の奥でかすれた。圭吾は自分の心が音を立てて崩れていくのをはっきりと感じた。昨夜の惨劇も悪夢も、この真実に比べれば序章にすぎない。圭吾の胸を鋭く抉るのは、嘘で塗り固められた“家族”という幻想が完全に崩れ落ちた瞬間だった。


 診察室の空気は重く、針の先で張り詰めたような沈黙が流れていた。村瀬圭吾は、銃を握った手を震わせながら、目の前の仲上医師を睨みつけていた。心臓の鼓動が耳の奥で響き、呼吸は浅く速い。額からは冷や汗が伝い、制服の襟をじっとりと濡らしている。


 仲上はその圧に耐えるように一度深呼吸し、言葉を選ぶように口を開いた。


 「……感の良い村瀬さんには、これまでのことからだいたい想像はついているでしょう。しかし、ここから先は、私の口から直接お話しします」


 圭吾は息を呑み、視線で続きを促した。仲上はゆっくりと姿勢を正し、低く落ち着いた声で語り始める。


 「私は本来、帝都大学の精神科教授を務めています。そして、研究仲間と共に、画期的な精神安定薬を開発しました。これさえあれば、かつてのロボトミー手術のように患者の脳にメスを入れる必要はなくなる。むしろ、ロボトミー以上に確実で、持続的な安定をもたらす薬です」


 圭吾の心臓がひときわ大きく打った。仲上は、淡々と、しかしどこか高揚した声音で続ける。


 「もちろん、最初はサルから始めました。臨床試験の結果は良好でした。動物は攻撃性を失い、従順になった。しかし、ただ一つ大きな問題があったのです……」


 仲上はゆっくりと圭吾を見据えた。その瞳は遠くを見つめるようで、同時に異様な輝きを帯びている。


 「……定期的な服用が必要でした。一日に数十回も薬を投与しなければ、効果は安定しない。これでは現実的ではありません。だから……我々は考えました。水道水に薬を溶かしてしまえばいい、と」


 圭吾は息を止め、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 「SUMIKAの住人には、すべて我々の試験体になってもらいました。水を飲むたびに、薄く調整された薬が体に取り込まれる仕組みです。……最初は濃度を抑えていました。あなたや碧君には、ほとんど効いていなかった」


 仲上の声は淡々としていたが、その奥に奇妙な熱が混じっていた。


 「その結果が……ウサギ小屋の惨劇。そして、あなたが息子に暴力を振るったあの時期です。我々はそれを確認し、薬の濃度を上げました。すると、しばらくは安定していたでしょう?」


 圭吾は銃を握りしめたまま言葉を失った。頭の奥で何かが崩れ落ちる感覚と、腹の底から込み上げる怒りが同時に渦巻く。診察室の白い壁がゆらりと揺れ、世界が歪むように見えた。


 仲上はさらに続ける。声にはわずかな誇りがにじんでいた。


 「これは、もし成功すれば我々に帝都大学初のノーベル賞をもたらす研究でした。だからこそ、学会には報告せず、極秘裏に進める必要があったのです……。あなた方の“生活”すべてが、我々にとっては実験の場だったのですよ」


 仲上はそこで一息つき、さらに静かに言葉を重ねた。


 「つまり、このSUMIKAの住人たちは、何らかの凶悪犯で構成されています。第三区の住人たちを除いては、皆が過去に重い罪を背負った人間たちなのです。そして、第三区だけは水道水の供給系統を完全に分けています。だから、当たり前ですが、彼らには薬が届かない。彼らがSUMIKAの住人達を偏見の目で見ていたのもその為です。彼らはプロジェクトの全容の全部は知らないものの概ねは理解しています。その代わり莫大な協力金を支払いましたが……」


 診察室の白い壁は、冷えきった冬の朝のように無機質で、蛍光灯の光に照らされてかすかに青白く見えた。村瀬圭吾は額から流れる汗をぬぐうこともできず、銃を握る手は小刻みに震えている。心臓は耳の奥でドクンドクンと早鐘を打ち、喉の奥は乾ききっていた。時計の秒針がカチリ、カチリと鳴るたびに、静まり返った診察室に不気味な音が響く。


 仲上医師は、そんな圭吾の緊張を受け止めるように、深く長く息を吐いた。そして、ゆっくりと口を開く。


 「ここまでは……私たちの計画通りに進んでいました。ですが、予期せぬ出来事が起きた。そう……震災です。あれで水の供給が途絶え、今も完全には復旧していません」


 圭吾のこめかみがぴくりと動き、眉間に深いしわが寄る。


 「……だから……俺や碧は……」


 仲上は小さく頷き、淡々と答えた。


 「ええ。来週には水は戻る予定でした。しかし……あなたや碧君には間に合わなかった。薬の効果が切れ、本来の衝動が顔を出した。だから……あなたは今、ここにいる。そういうことです」


 圭吾は浅く荒い呼吸を繰り返し、目を細めて問い詰めた。


 「じゃあ……記憶はどうした? 俺たちの過去の記憶は……どこへ行った?」


 仲上は机に組んでいた手をゆっくりとほどき、まるで何気ない話をするかのような口調で答えた。


 「公には、倫理上発表されていませんが……記憶を消去したり、新しい記憶を構築したりする技術は、十年以上前に完成しています。脳の特定の部位に電気を送り、回路を再構築するだけです。元々は軍事技術の応用なんですよ」


 圭吾は背筋に冷たい電流が走るのを感じ、手の中の銃を握り直した。指先まで血の気が引き、膝がわずかに震える。


 仲上はさらに声を潜め、しかしその瞳には奇妙な誇りの色が浮かんでいた。


 「ちなみに、このSUMIKAプロジェクトは極秘裏ですが、政府公認です。一部の有力族議員が深く関わっています。理由は簡単です。地方再生の名目で、行き場のない、処罰できない囚人を“更生”させる。社会には出せないけれど、国家にとっては都合の良い存在ですからね」


 診察室の空気は凍り付き、圭吾の耳には自分の心臓の鼓動が重く響く。仲上の口からこぼれる現実は、悪夢よりも冷たく、逃げ道のない真実として圭吾の胸に突き刺さった。



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