第21話『ロボトミーからの偏移』
圭吾は、重くのしかかる倦怠感を引きずりながら警察車両に乗り込んだ。ドアを閉める音が、静まり返った朝の住宅街に乾いた金属音を響かせる。ハンドルを握る指先は冷え切り、かすかに震えていた。エンジンをかけると低い振動がシートを伝い、眠たげな街に機械のうなりが混じった。
時刻は午前八時を少し回ったころ。通勤車両がまばらに走るだけの道路は、まだ朝靄が薄く漂い、街全体が息を潜めているかのようだった。助手席には何もない。後部座席にも誰もいない。車内に響くのは、エンジン音と自分の荒い呼吸だけ。孤独感が胸に重く沈んだ。
目指すはSUMIKA総合病院。開院前の静けさの中なら、仲上医師に直接会えるはずだ。胸の奥で渦巻くのは、焦燥と諦念の入り混じった重苦しい感情だった。麻里はもう息をしていない。碧も、あの無惨な姿で床に倒れている。家庭は崩壊し、守るべきものは何も残っていない。だからこそ、圭吾が求めるのはただ一つ――真実。
「……知るんだ。全部……」
かすれた声が車内に溶ける。乾き切った舌が上顎に貼りつき、唇はひび割れている。多少手荒なことになろうとも、仲上に問いたださなければならない。少女と碧が口にした“水”の意味を、必ず突き止める。
早朝のSUMIKAを車で抜けながら、圭吾の脳裏には過去の断片が鮮明に蘇った。街路樹に濡れた朝露が光り、静まり返った住宅街を通るたびに、胸の奥が締め付けられるようだった。
――水だ。最初から違和感はあった。口に含むたび、わずかに苦味のようなものがあった。
――第三区の住人が事故で負傷したときの、あの冷たい偏見と警部補の吐き捨てるような罵声。
――仲上医師の柔らかな笑みと、何気ないあの一言。
――水道ポンプの入れ替えとともに感じた味の変化。その後、幻聴や悪夢は収まり、小動物の惨殺も止まった。
ハンドルを握る手に力がこもる。次に蘇るのは、忘れがたい惨劇の記憶だった。
――震災による断水。給水車に頼る生活。そして、悪夢の再来。
――住民が襲われ、犯人は……碧。
冷たい汗が首筋を伝い、制服の襟を湿らせた。これらすべての現象の背後にいるのは、仲上医師だ――圭吾の直感はそう告げていた。
「……お前に、聞かせてもらうぞ……」
握り直したハンドルの向こう、朝の光を浴びて白く浮かび上がる病院の建物が見えてきた。無機質で冷たいその輪郭は、これから直面する真実の重さを象徴するかのように、圭吾の視界に迫ってきた。
圭吾は、車を病院の駐車場に止め、重い足取りでSUMIKA総合病院の自動ドアをくぐった。朝の冷たい空気を背に受けながら、白い床と無機質な壁に囲まれたロビーを進む。初めて健診でここを訪れた日のことが、遠い記憶のようによみがえった。あの日から、何度この病院の敷居をまたいだことだろう――。
心療内科の前に広がるカフェテラス風の待合室には、観葉植物と小さな丸テーブルが整然と並び、朝の光に照らされて淡い影を落としている。今は開院前で患者はおらず、静まり返っていた。通路の先に進もうとしたその時、受付カウンターから女性が小走りで出てきた。
「お、おはようございます……村瀬さん? どうされましたか?」
圭吾は足を止めることなく、低い声で吐き捨てるように言った。
「ごめん。仲上医師に用がある。時間がないんだ……邪魔しないでくれ」
警察官の制服姿に気づいた受付の女性は、不安げに眉をひそめる。
「な、何か……あったのですか?」
圭吾は何も答えず、無言で診察室の扉を押し開けた。中から消毒液の匂いがふわりと漂い、白い壁に囲まれた静かな空間が現れる。机に座ってカルテを整理していた仲上医師が、目を丸くして顔を上げた。
「……村瀬さん? どうされました」
その表情は驚きと戸惑いが入り混じり、空気が一瞬で張りつめた。
圭吾は診察室のドアを背に立ち、全身に重くのしかかる緊張を抱えながら深く息を吸った。鼓動は耳の奥でドクドクと響き、手のひらはじっとりと汗ばみ、指先はかすかに震えている。窓から差し込む朝の光が白い壁に反射し、無機質な診察室はいつも以上に冷たく感じられた。
机越しに座る仲上医師は、カルテをめくる手を止め、驚きと戸惑いを入り混じらせた顔でゆっくりと圭吾を見た。
「……村瀬さん? 一体どうされましたか?」
圭吾は喉が張り付くような感覚を振り払い、重く沈んだ声を絞り出した。
「先生に……聞きたいことがある。息子の碧のこと、昨夜の惨劇のこと、全部だ……そして、なぜ水道水にこだわったのか、その理由もだ」
仲上は一瞬、眉をひそめた。「惨劇……? どういう意味ですか?」
圭吾は深呼吸をして、重苦しい空気の中で言葉を選ぶように経緯を語り始めた。
「……全部話す。先生に分かるように、最初から……」
圭吾は自分の喉が渇いていることに気づきながらも、乾いた声で語り始めた。
「最初は……ウサギ小屋だ。公園で飼われていたウサギが惨殺された事件。あれは……碧がやったんだ」
「ちょっと聞いて無かった話もありますし……水って何の話ですか? 息子さんの事で悩んでおられたのは知ってますが、そこまでの事は初耳ですよ」
仲上の表情がわずかに引きつる。圭吾は続ける。
「次に起きたのは……小動物の虐殺。猫や犬、近所の生き物が、腹を裂かれたり、首を折られたりして殺されていった……。俺は最初、ただの異常者の仕業だと思った。でも……家の中で見つけたんだ。鍵のかかった引き出しの中の、サバイバルナイフ……そして、あいつが投稿していた小説サイト……」
圭吾は拳を握りしめ、机に押し付けた。記憶が鮮明に脳裏に浮かぶ。
「そのサイトには、碧のペンネームで……日記のように書かれていた。ウサギを殺したこと、小動物を痛めつけたこと……楽しそうに、まるで遊びのように……。俺は読んだとき、全身が冷たくなった」
仲上は声を失い、口を固く閉じたまま圭吾の話を聞いている。
「やがて、散歩中の少女が襲われた。第三区の住人だ。犬を連れていた子で……碧は金属バットでその子を襲い、犬を撲殺した。幸い少女は命を落とさなかったが……そのときも碧は、何事もなかったように帰宅していた」
圭吾の声は次第に震え、怒りと悲しみが入り混じる。
「そして昨晩……あいつは……俺の妻の麻里を殺した……。そして俺も襲ったんだ。金属バットで……本気で俺を殺そうとしていた……しかも、家族の事を偽装家族だとも言ったんだ」
圭吾は拳をぎゅっと握りしめ、指先が白くなる。目の奥に焼き付くのは、血にまみれた寝室の光景だった。
「先生……俺はもう、限界だ……。なぜ、あいつがこんなことになったのか……なぜ水にこだわったのか……教えてくれ……そして息子は何故家族じゃないと言ったのだ」
診察室には圭吾の荒い呼吸だけが響き、重く張り詰めた空気が二人の間を満たしていた。
仲上医師の顔色は、語られるごとにみるみる青ざめていく。だが、医師は声を落ち着かせようとしながら口を開いた。
「村瀬さん……前回の診察からしばらく経っていますね。言ってる事も私には支離滅裂で幻覚も入っているように思いますよ。つまりだいぶ悪化しているようです。まずは、すぐに効く注射を打ちましょう。それで落ち着きますよ」
その穏やかな言葉に、圭吾の胸の奥に怒りがじわりと広がった。机に両手をつき、身を乗り出す。
「……ふざけるな……俺は正気だ……事の重大さが分かっていないのか! 俺は夢の話なんてしていない、現実だ! 麻里は死んだんだ……碧は……!」
次の瞬間、圭吾は腰のホルスターに手を伸ばし、拳銃を抜いた。冷たい金属の感触が手のひらに伝わる。彼は迷わず天井に向けて引き金を引いた。
轟音が診察室の狭い空間を切り裂き、蛍光灯がビリリと震えた。火薬の匂いが鼻腔を刺し、白い天井には薄い煙がゆらめく。耳の奥には反響音がこびりつき、世界が一瞬静止したように感じられた。
「な……っ! 誰か! 誰か来てくれ!!」
仲上医師は悲鳴に近い声を上げ、椅子を引きずるように後退した。事の重大さをようやく悟った顔は蒼白で、額には冷や汗が浮かんでいる。
圭吾は冷たい瞳で医師を見据え、低く、抑えきれない怒りを込めて言った。
「話してくれないなら……次はお前を撃つ……。全部話せ、仲上……水のことも……SUMIKAのことも……」
診察室の扉に鍵をかけると、カチリという金属音が狭い部屋に響いた。外の世界と隔絶された静寂の中、圭吾の荒い呼吸だけが部屋を満たし、重く張り詰めた空気が二人を圧迫していた。
診察室は、針で刺すような緊張に包まれていた。圭吾は額に浮かぶ汗を拭うこともせず、拳銃を握った手を小さく震わせながら、机越しに仲上医師を射抜くように見つめていた。窓から差し込む朝の光は白く冷たく、無機質な蛍光灯の光と混じり合って、部屋の空気をさらに硬直させる。
仲上は固唾を飲み込み、ようやく静寂を破った。
「……息子さんの異常さは、分かりました。でしたら……私に協力させてください。治療を始めましょう」
圭吾はゆっくり首を振る。その瞳の奥には、昨夜の惨劇――血に染まった寝室と、麻里の冷たい身体、無残な息子の姿――が焼き付いている。
「もう……手遅れだ。碧は治らない。……いや、もしかしたら……もう殺したかもしれない」
仲上の顔が一瞬引きつり、声はかすかに震えていた。
「……だ、だったら……あなたの目的は、何なのです?」
圭吾は机に身を乗り出し、低く押し殺した声で問いかける。
「なぜ……あのとき、水にこだわった? 薬を飲むとき、必ず水道水でと言っただろう」
仲上はぎこちない笑みを浮かべ、声を整えようとした。
「……それは、水道水でないと……あなたに処方した薬が効かないのですよ、と……説明したはずです」
だが、その瞳は明らかに泳いでいた。焦点は定まらず、視線は左右に揺れる。隠している、あるいは平然と嘘をついている目だ、と圭吾の胸に冷たい確信が落ちた。
圭吾はゆっくりと机の脇を回り込み、仲上の背後に迫った。銃口の冷たい金属を、医師のこめかみに押し当てる。硬直した肩が小刻みに震え、唇がわずかに痙攣する。
「……本当のことを話せ、仲上。今すぐだ……」
診察室の空気は重く、外界と切り離されたかのように静まり返る。圭吾の荒い呼吸と、医師の喉が鳴る音だけが響き、命を握る緊張が部屋全体を支配していた。
診察室は白く冷たい光に満ちていた。窓から差し込む朝日と蛍光灯の光が混じり、机の上のカルテや医療器具の影が長く伸びている。村瀬圭吾は、手にした拳銃の重みを感じながら、固唾を呑んで仲上医師を睨みつけていた。額から汗が流れ落ち、制服の襟に染みを作る。心臓は胸の奥で激しく打ち、呼吸は浅く速い。
仲上は両手を机の上に置き、恐る恐る口を開いた。
「……わかりました。全部を知っているわけではありませんが、私の知る範囲でお話しします。ですから……どうか、銃をおろして落ち着いてください」
圭吾はしばらく沈黙し、重く息を吐いた。銃口をわずかに下げると、低く押し殺した声で告げた。
「……話せ」
仲上は深く息を吸い込み、声を絞り出すように語り始めた。
「村瀬さん、あなたは……我々精神科医がかつて行っていた“ロボトミー手術”をご存じでしょうか?」
「ロボトミー……?」圭吾は眉をひそめ、目だけで仲上を見つめる。その声には疑念と嫌悪が入り混じっていた。
仲上は天井に視線をさまよわせ、遠い記憶を呼び起こすように語る。
「ロボトミー手術とは、20世紀前半に精神疾患の治療として行われていた脳外科手術です。額の奥や眼窩の奥から前頭葉の一部を切除、あるいは切断することで、患者の衝動や攻撃性を抑える……そういう方法でした」
説明を聞くにつれ、圭吾の背筋に冷たいものが走る。仲上の声は淡々としているが、どこか罪の匂いが漂っていた。
「当時は、統合失調症や重いうつ症状、暴力衝動を持つ患者に対して、最後の手段として行われていました。しかし……その代償は大きすぎました。人格の崩壊、感情の消失、廃人のようになる患者が後を絶たなかったのです」
圭吾は無意識に拳銃を握る手に力を込めた。机の上のペン立てがわずかに揺れる。
「……やがて、この行為は世界的に非人道的な治療として批判されました。1950年代以降は、ほぼ全面的に禁止されています。脳にメスを入れて人格を変える……それは、医学の名を借りた暴力に他ならないのです」
診察室の空気はさらに重くなる。圭吾は心の奥でざわめく不安を押さえきれず、声を潜めてつぶやく。
「……なぜ今、そんな話をする……? それが……碧や、このSUMIKAの“水”とどう関係するんだ……?」
仲上は視線を伏せ、答えを飲み込むように沈黙した。その沈黙が、かえって圭吾の胸を締めつけた。