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第2話『問診室の医師』

 SUMIKAに越してきて、そろそろ一か月が経とうとしていた。


 その夜、村瀬圭吾は、いつものように駐在勤務を終え、自宅のリビングでくつろいでいた。

 壁面に埋め込まれた間接照明が、天井をぼんやりと照らしている。昼間は無機質に感じられる白壁も、夜の静けさの中ではどこか温もりを帯びて見えた。


 グラスの中には地元産の米焼酎。その琥珀色の液体が、氷とぶつかるたびに控えめな音を立てる。その音だけが部屋に響く、穏やかな時間。

 テレビはつけていない。街の静けさに身を委ねるように、圭吾はただ、黙々とグラスを傾けていた。


 そんなとき、台所から麻里の声が飛んできた。


「あなた、健康診断とメンタルヘルスの通知、来てたわよ」


 その声には、どこか事務的な響きがあった。夫婦の間に会話が少ないわけではない。ただ、この街に来てからというもの、互いに言葉を選ぶことが増えた気がしていた。


 圭吾はグラスをテーブルに戻し、体をひねって麻里を見やった。彼女はタブレット端末を片手に、画面を覗きながらその内容を確認している。


「今週の土曜日も午前中ならやってるって。ちょうど非番の日じゃなかったかしら?」


 麻里の問いかけは、確認というより、軽い誘導のようだった。


「……ああ、たしかに非番だったな」


 圭吾は頷きながら答えたが、声にはどこか曇りがあった。

 グラスを手に取るものの、すぐには口をつけずにしばらく氷が解けていく様子を見つめていた。


 この街に移住してくる際、山のようにある書類の中に、確かに「定期的な健康診断および心理評価の受診義務」の文字があった。それは単なる健康管理というより、実験都市における“参加条件”のようなものだった。


 SUMIKAに暮らす者たちは、未来の社会モデルとしての「検体」であり、生活そのものがモニタリングされる対象となっている。それを理解した上で、ここで暮らすことを選んだ……はずだった。


 もちろん、健康診断の費用は自治体負担。最先端の設備を誇る総合医療センターで、効率的かつ正確な診察が受けられる。

 だが、それでも圭吾の胸の奥には、妙な抵抗感が残っていた。


(健康診断か……まあ、大事なことだし、文句は言えないけど……正直、邪魔くさいな)


 そんな独り言を呑み込むように、焼酎をひと口、喉に流し込む。だが、いつものように体に染み渡る感覚はなかった。舌先に広がる風味すら、どこか薄っぺらく感じられた。


 気分の問題かもしれない。あるいは、先日見た“あの夢”のせいか。


 夜中に響いた蛇口の音。

 濡れた足音。

 そして、夢に現れた血まみれの少女。


 身体に異常はない。睡眠もそこそこ取れている。だが、あの夢は、ただの疲れとは思えなかった。


「ねえ、予約だけでも入れとくわよ?」


 麻里の声が再び聞こえた。今度は少しだけ柔らかい口調だった。


 圭吾はゆっくりと目を細め、彼女の顔を見つめる。そして、小さく頷いた。


「ああ、頼む」


 その一言に、麻里は微笑んだようにも見えたが、すぐに背を向けて台所へ戻っていった。


 圭吾は再びグラスを手に取り、口元に運んだ。


 だが――やはり、味がしなかった。



 その夜、SUMIKAの空は雲に覆われ、風ひとつ吹かず、まるで都市全体が呼吸を止めたようだった。

 高層住宅のひとつ、村瀬家の寝室にも静寂が満ちていた。窓の外にはうっすらと照明がにじみ、真っ白なカーテンが微かに揺れる。そのかすかな動きにすら、圭吾は神経を研ぎ澄ませていた。


 村瀬圭吾は、ベッドに腰を下ろし、無骨な指でタブレット端末を操作していた。部屋の明かりは最小限に落とされ、画面の白い光が彼の顔の輪郭を鋭く照らし出す。


 隣の部屋からは、妻・麻里の柔らかな声がかすかに聞こえてきた。碧に「もうゲームは終わりよ」と穏やかに声をかけるやりとりが続いている。反抗期の入り口に立つ中学一年の息子との対話は、時に気を遣う。

 そのやりとりに耳を傾けながら、圭吾の胸には淡い安堵と、言いようのない不安が同居していた。


 しかし、目の前の端末はそんな静穏を許さない内容だった。


 表示されていたのは「事前健康診断同意書」と「メンタルヘルス自己評価アンケート」。


 圭吾は深く息を吐いて、まずは同意書の署名欄に指を滑らせた。電子インクで描かれた署名が完了する。


 次いで、アンケートの回答へと移る。

 問われるのは、最近の生活リズム、体調、情緒、対人関係……ありとあらゆる心の隙間を覗き込むような設問の数々だった。


 ──最近、仕事に対して意欲が持てないと感じることがありますか?

 ──些細なことでイライラすることがありますか?

 ──食欲の変化を感じますか?


 問いは淡々としていながら、どこかじわじわと心に染み込んでくる。

 普段なら気にもしない感情の起伏を、文字として突きつけられると、やはり胸の奥にざらつきが残った。


 (こいつら……どこまで見てるつもりだ?)


 疑念と警戒を抱きながらも、圭吾は一問一問、律儀にチェックをつけていった。

 やがて、画面に次の設問が現れた。


 ──最近、寝つきは良いと感じますか?

 ──睡眠中、悪夢を見たり、不快な夢で目が覚めたりすることはありますか?


 その瞬間だった。

 圭吾の手が、止まった。


 ──血まみれの少女。

 ──冷たく濡れた床を這うような足音。

 ──そして、夜中に一人でに滴り続ける蛇口の音。


 不意に、全身の肌が粟立つのを感じた。脳裏をよぎるのは、あの夜の記憶か、幻か。

 あれは夢だったはずだ。現実じゃない。

 だが、その“はず”がいつしか不確かなものになっていく。


 喉が渇いた。焼酎の残りを思い出したが、いま立ち上がる気にはなれなかった。

 圭吾は唇をかみしめ、じっと画面を見つめる。


 「……見たさ」


 かすかに呟いたその言葉と同時に、震える指が「はい」に印をつけた。


 その一瞬だけ、部屋の空気が冷たくなったような気がした。


 深夜零時を過ぎたタブレットの画面には、静かに「回答を送信しました」の文字が浮かび上がっていた。

 その光が、圭吾の頬を、わずかに蒼ざめさせていた。



 土曜の朝、村瀬圭吾はSUMIKA中央医療センターの待合室にいた。

 外は鈍色の曇天。大型のガラス窓越しに差し込む光は、まるで濾過されたように色を失っていた。明るいはずの朝なのに、どこか夕暮れのような、乾いた空気がロビー全体を包んでいる。


 受付に進み、圭吾はビニールのチャック袋に入れた検尿と、二日分の検便容器を提出した。中年の女性職員が無表情に受け取り、冷たい指先でそれを処理用トレイへ滑り込ませる。その手つきには一切の感情がなかった。


 「ありがとうございます」

 抑揚のない声。それは言葉というより、反射的に発された機械音のように聞こえた。


 (……本来なら、こんなのは四十代以上が対象のはずなんだがな)


 圭吾は心の中で小さく吐息をもらす。だが、ここはSUMIKAだ。試験都市。すべてが“データ”として蓄積される場所。年齢や体調の枠など最初から意味を持たない。


 「村瀬さま、こちらへどうぞ」


 案内に従いながら、圭吾は自分が今どんな顔をしているのかふと気になった。おそらく、今しがた受付にいた女性と同じように、表情を持たない顔。眉も口角も動かさず、ただ“流れ”に身を任せるような──そんな顔。


 体重、身長、血圧、視力、聴力。どれもこれも、流れ作業のように淡々と進む。看護師たちも無言か、最低限の指示だけを与え、どこか遠くに意識を置いているようだった。


 土曜の午前、健診を受ける人々でそこそこ混み合っている。にもかかわらず、不思議なほど静かだった。ベンチに並ぶ人々は誰ひとり会話を交わさず、笑いも怒りも、焦りさえも見せない。


 (まるで全員、壊れたマネキンみたいだ)


 圭吾は喉の奥で乾いた笑いを飲み込む。だが──それは他人だけの話ではない。


 (自分も……きっと、同じように見えてる)


 心に浮かぶその考えに、思わず目を伏せた。足元の白いタイルがやけに遠く見える。何かが、自分の中から少しずつ蒸発しているような──そんな感覚だけが残った。


 胸部レントゲン。心電図。呼吸のリズムを読み取る機械の音が、静けさにひときわ響いた。


 そして最後に、SUMIKA特有の検査──「フラッシュ測定」が待っていた。


 暗く仕切られた小部屋に通され、圭吾は椅子に腰を下ろす。照明が落ち、モニターが点灯した。


 次の瞬間、激しいスピードで画像が連続表示され始めた。

 山、川、歩道橋、老夫婦の笑顔、廃墟、ぬいぐるみ、病院の廊下、何かの断面図──次から次へと目まぐるしく、まるで夢の断片が無秩序に並べられているようだった。


 「印象に残った画像を、一つ選んでください」


 無機質なアナウンスの声が流れる。

 圭吾は瞬きもせず、ぼんやりと余韻をたどった。


 ──歩道橋。


 誰もいない高架の橋。曇天の空を背に、どこにも繋がっていないように見えたその構造物。妙に記憶に引っかかった。


 「……歩道橋」


 答えると、担当者は何も言わず記録を取り、扉を開けた。圭吾は立ち上がり、最後の問診へと向かった。


 廊下は、ひどく長く感じられた。

 足音が吸い込まれるように消えていき、背後で閉まった扉の音だけがやけに大きく響いた。


 なお、健診の結果は後日、自宅へ郵送されるらしい。詳細な説明もなければ、質問を挟む空気もない。すべては“処理”され、“記録”され、“蓄積”されていく──


 SUMIKAという街に流れる透明な支配。それは、水よりも静かで、空気よりも濃密だった。


 SUMIKA総合医療センターの問診室には、冷えた白い空気が静かに漂っていた。

 村瀬圭吾は無機質な金属製の椅子に腰を下ろし、微かに響く空調の音に耳を澄ませながら、目の前の医師を無意識に観察していた。


 白髪交じりの痩せた初老の男。六十代に差しかかるかというその顔は、額に深い皺を刻み、眉間には慢性的な疲労がこびりついているようだった。白衣はよく手入れされていたが、彼の目にはどこか光がなかった。


 (この人も、きっとSUMIKAの外から通って来てるんだろうな……)


 圭吾はそう思った。

 この街の医師や看護師は、SUMIKAの住人ではなく、外部の契約スタッフだと聞いていた。

 ここは“理想の街”を謳ってはいるが、街の最奥にあるこの病院だけは、その内部に住む者の手によって運営されてはいない。


 「村瀬圭吾さん。平成三年十月九日生まれで、間違いないですね?」


 医師は無表情にカルテを見上げ、淡々と確認する。


 「はい」


 圭吾は少し遅れて頷いた。

 診察というより、まるで何かの審査を受けているような感覚が、じわじわと背中に染み込んでくる。


 「では、瞳孔の反応を診ます。正面を向いて……はい、まばたきせずに」


 ペンライトの細い光が、彼の視界を横切る。左目、右目と順に光を浴びるたびに、無性に目を背けたくなる衝動が走った。


 「はい、口を大きく開けて、舌を出してください」


 口の中を覗き込まれながら、圭吾は小さな違和感を覚えていた。

 まるでこの診察そのものが、自分の身体の“記録”を採取するためだけにあるような、不思議な隔たり。


 「ではシャツを上げて、胸と背中を出してください」


 冷たい金属の聴診器が胸に触れた瞬間、圭吾は反射的に肩をすくめそうになった。

 (心音って、こんなに響いてるものだったか……)


 「吸って、吐いて。もう一度、吸って……はい、吐いて」


 医師の指示に従いながらも、圭吾の心は静まらなかった。

 部屋の白い壁、電子機器の規則的な音、窓のない空間。全てが、まるで実験室のようだ。


 「問題ないようですね」


 淡々としたその言葉は、むしろ不自然な静けさを強調するようだった。


 「最近、体調や生活で変わったことはありませんか?」


 唐突な問いに、圭吾は一瞬だけ言葉に詰まった。

 (変わったこと……夢だよ、あの血まみれの少女……)


 だがそれは、体調の話ではない。そう自分に言い聞かせるようにして、口を開いた。


 「特に……ありません」


 声が微かに掠れていた。自分でも気づくほどだった。

 それを聞いた医師は頷くと、再びカルテに目を落とした。


 その視線が、何か特定の箇所にじっと留まっていることに、圭吾は気づいた。

 わずかな沈黙。

 ページの端に小さく書かれた文字を、医師は目でなぞっている。


 (なにか……変なこと、書かれてるのか?)


 圭吾の胸に、ささやかな疑念と、得体の知れない緊張がゆっくりと広がっていった。


  問診も終盤に差し掛かった頃だった。

 白髪まじりの医師が再びカルテに目を落としながら、ふと柔らかな声を漏らした。


 「この前、回答していただいたメンタルヘルスの項目で……最近、寝つきが悪いようですね。途中で目が覚められる、とも書かれていましたが……」


 それまで淡々と業務をこなす機械のようだった彼の目が、ふと優しさを宿す。

 眼差しは柔らかく、こちらの内面に静かに寄り添ってくるようだった。


 (ああ、この人も感情があるんだ……いや、最初からそうだったのかもしれない)


 圭吾はそう思い、自分が勝手に“無機質”と決めつけていたことを恥ずかしく感じた。


 「ええ……同じ夢で目が覚めるんです。いや、夢かどうかもわからないんですが……起きたという感覚だけが、はっきりと残っている感じです」


 医師はうなずき、ペンをカルテに走らせながらも、目線を絶やさない。


 「具体的には、どんな夢ですか?」


 圭吾は、言葉を選びながら口を開いた。


 「……見たこともない、血まみれの少女が出てきます。それと……ぽたぽたと蛇口から落ちる水の音がずっと聞こえてくるんです」


 医師は少し考えるようにしてから、ゆっくりと頷いた。


 「職業は警察官で……SUMIKA内の駐在勤務でしたね。なるほど、環境の変化もあったでしょうし、少しストレスが溜まっているのかもしれません」


 それは“ストレスですね”と決めつけるでもなく、ただ事実として淡々と述べる口調だった。


 「夢というのは、まだまだ医学でも未知な部分が多いのですが……水を連想されるというのは、おそらく身体が水分を欲しているサインかもしれません。寝る前に、そうですね──水道水で構いませんので、しっかり水分を摂ってください。案外、それだけでも改善することがありますから」


 「……水道水、ですか」


 圭吾は自然とその言葉を復唱していた。

 どこか胸の奥に、薄く冷たい波紋が広がっていく感覚があった。


 「ええ。今後も続くようでしたら、一度この病院の心療内科でご相談いただくのもいいかもしれません」


 優しげな笑みをたたえた医師は、カルテを閉じると軽く頭を下げた。


 「お疲れさまでした。これで健診は終わりです」


 圭吾は深く息をついて立ち上がった。診察室を出る瞬間、背中に医師の視線がしばし残っていたような気がして、ふと振り返りそうになる自分を制した。


 (あの夢……あれは、いったい……)


 胸の奥に残る、答えのない水音だけが、静かに鳴り続けていた。










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水を飲ませたいのか。夢のなかの少女。気になるな。
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