第19話『碧の本性』
リビングは、夜の冷たい光に満たされていた。蛍光灯の白が床に鋭い影を落とし、窓の外からは街灯の淡い光がにじむ。時計の秒針の音だけが響き、部屋の静けさをいっそう際立たせていた。
ソファには碧が座っていた。小さな肩をすぼめ、腕には真新しい包帯が巻かれている。麻里が片付けを終え、無言で部屋の端に控えていた。薬品のにおいがかすかに漂う中、圭吾の胸には黒く重い疑念が渦巻いていた。病院で聞いた被害者の母親の言葉、ドローン映像に映った夜の碧の姿、机の中に隠されていたサバイバルナイフ、そして投稿サイトの稚拙で狂気を帯びた文章……すべてが胸の奥で一つに重なる。
圭吾の唇から、鋭い声が漏れた。
「……嘘つくな!」
その一言で、リビングの空気は凍りついた。碧はびくりと肩を震わせ、うつむいたまま固まる。包帯で巻かれた腕を抱きしめるようにし、床の一点を見つめて動かない。
「あなた、一体どうしたのよ!」
台所から駆け寄った麻里が、鋭い声で詰め寄った。エプロンの裾を握りしめ、瞳は怒りと動揺に揺れている。
「怪我をしてる碧に、なんてことを言うの! 父親でしょう? そんな言葉しか出てこないの?」
圭吾は荒い息を吐き、震える手でこめかみを押さえた。だが、胸に溜め込んだものは止められなかった。
「……麻里、もう隠せない。俺は全部見てきたんだ。ドローン映像で、夜の公園を歩く碧を見た。懐中電灯を持って、パーカーを目深にかぶって……間違いようがない」
麻里の目が大きく見開かれ、言葉を失った。
圭吾は息を整えぬまま、畳みかけるように言葉を吐き出した。
「それだけじゃない。家の中に盗聴器とカメラを仕掛けてた。両親を監視してたんだ。思春期のいたずらなんかじゃない……あれは狂気だ」
視界の端で碧の肩がわずかに震える。沈黙がリビングを支配していたが、圭吾の声だけが低く響く。
「ウサギ小屋の惨殺も……もう分かってる。碧の机の引き出しから、未成年じゃ手に入らない本物のサバイバルナイフが出てきた。何をしたのか、言わせなくても分かる」
麻里は一歩後ずさり、唇を震わせた。
「……そんな……」
圭吾の声はさらに低く、重く沈んだ。
「碧は小説投稿サイトに、自分のやったことを日記みたいに書いていた。ウサギを殺した夜、犬を見た夜……読んだよ。子どもの文章のはずなのに、血の匂いと狂気が滲んでいた」
圭吾は一呼吸置き、碧を見据える。
「今日、少女が襲われた。母親は言った、犯人は犬に噛まれてるはずだと……。麻里、碧の腕を見ろ。これで偶然だと言えるのか?」
部屋を満たす沈黙。秒針の音が耳を刺す。蛍光灯の白い光の中で、碧の包帯ににじむ赤が、圭吾の視界に焼きついた。
麻里は震える手で口を押さえ、碧はうつむいたまま小さく肩を揺らした。涙は一粒も落ちない。そこにあるのは、冷たい影のような沈黙と、父の胸に燃えさかる確信だけだった――こいつが犯人だ、と。
リビングには、夜の静けさが深く沈みこんでいた。蛍光灯の冷たい光が床に長い影を落とし、窓の外の街灯がにじむように見える。時計の秒針がコチ、コチと小さな音を刻み、薬品の匂いが漂う室内に緊張感をまとわせていた。
ソファに座る碧は、包帯を巻いた腕を抱くようにして小さくうずくまっていた。白い包帯にわずかに赤がにじみ、肩はかすかに震えている。視線は床に落ち、まぶたの端に溜まった涙が光を受けてきらりと光った。圭吾と麻里を交互に見やった碧は、唇を噛んだまま、かすれた声をしぼり出す。
「……全部、見たんだ。僕の了解も得ずに……勝手に、部屋の中を……」
その声には、怒り、悔しさ、そして悲しみが絡み合っていた。村瀬圭吾は言葉を失い、喉がひりつくのを感じながらも、ただ碧を見つめた。麻里もまた、エプロンの裾を強く握りしめ、眉をひそめて動けない。
しばしの沈黙の後、碧は小さく嗤うような、泣き声のような声をもらした。肩がわずかに揺れる。
「……そうだよ、父さん。僕が……全部やったんだ。でも……やったのはもう一人の僕。夜の僕だ。自分のようで、自分じゃない……夜になると、そいつが僕を乗っ取るんだ……」
顔を上げた碧の瞳は、涙で濡れ、光を帯びていた。その視線は切実に、必死に助けを求めていた。
「……たすけて、父さん……」
その一言は、圭吾の胸を鋭く締め付けた。耳の奥で心臓の鼓動が重く響き、手のひらにじっとりと汗がにじむ。麻里は思わず口元に手をあて、目を潤ませて震える息をのみ込んだ。リビングには時計の秒針の音だけが、規則正しく刺すように響く。
圭吾はゆっくりと一歩を踏み出し、碧の前でしゃがみこんだ。低く、穏やかだが力のこもった声で言う。
「……事情はどうであれ、碧。大丈夫だ。ちゃんと病院に行こう。診てもらえば、いまならまだ間に合う」
碧の目からぽたりと涙が落ち、頬を伝った。唇が小さく震え、かすかな笑みが浮かぶ。
「……ごめんなさい……ありがとう……」
その言葉を残し、碧はゆっくりと立ち上がった。包帯を巻いた腕を胸に抱き、足音を忍ばせるように廊下を歩いていく。軽いはずの足取りは、なぜか遠くに消えていくように響いた。やがて自室のドアが静かに閉まり、リビングには再び重く冷たい静寂だけが降りた。圭吾と麻里は、言葉を失ったまま、その沈黙の中に取り残されていた。
碧が自室に戻り、ドアの閉まる音が静かに響いた。廊下に足音が消えていくと、リビングには重く張りつめた沈黙だけが残った。蛍光灯の冷たい光が床に反射し、壁に家具の影を長く落とす。外の街灯のにじむ明かりが窓に映り、時計の秒針がコチ、コチと規則正しく響いていた。
麻里は力が抜けたようにソファへ腰を下ろし、両手でエプロンの裾をぎゅっと握りしめた。まぶたは赤く腫れ、こらえきれない涙がきらりと光る。声を出すと同時に、肩が小さく震えた。
「……圭吾、私たち……これから、どうすればいいの……?」
圭吾は深く息を吐き、テーブルに置かれた手をじっと見つめた。心の奥に渦巻く現実を、そのまま伝えれば麻里の心をさらに傷つけるとわかっている。言葉を選びながら、低い声で答えた。
「碧は……しばらく学校を休ませよう。体も心も落ち着かせて、治療に専念させる。まずは……病院だ」
麻里はこくりとうなずき、膝の上で指を絡めながら視線を落とした。沈黙が数秒続き、圭吾は迷いを含んだ声で口を開く。
「さっき碧が言ったこと……夜になると、もう一人の自分に乗っ取られるって。……でも、少女が襲われたのは夕方だ。夜じゃない時間にも、あの“もう一人”が出てきているのか……それとも、その話さえも嘘なのか……」
言葉を口にするたび、圭吾の胸には鈍く重い不安が広がった。もし碧の言葉が本当なら、次に何が起こるか予測できない。もし嘘なら、そこにはさらに深い闇が待っている。
「……とにかく、診てもらおう」
圭吾は決意を込めて言い切った。
「俺が通院してる仲上先生に診てもらう。精神科の専門だし、信用できる」
麻里は静かにうなずき、潤んだ瞳をそっと閉じた。言葉はなかったが、互いの胸に冷たく重い決意が共有された。リビングには時計の針の音だけが響き、夜の静寂はさらに濃く沈んでいった。
長く、重く、心をえぐるような一日がようやく終わろうとしていた。村瀬圭吾は、肩に鉛を背負ったような足取りでベッドルームに入った。寝室は蛍光灯を消し、ベッドサイドの小さなスタンドライトだけが淡い光を落としている。外の街灯の光がカーテンの隙間から差し込み、床に細長い影を描いていた。
麻里はすでにパジャマ姿でベッドの端に腰掛け、手を組んでじっと膝を見つめていた。彼女の横顔は疲れ切って蒼白で、唇は小さくかすかに震えている。圭吾はベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。その吐息に自分でも気づくほどの重さがあった。
「……明日、仲上先生に碧を診てもらおう。予約はしていないが、事情を話せばきっと見てもらえるはずだ」
圭吾の声は低く、しかし決意を含んでいた。麻里は小さくうなずき、かすれた声で答える。
「……ええ……そうね……」
二人の会話はそれで終わり、後には静寂だけが残った。布団に身を沈めると、まぶたの裏に今日一日の光景が次々とよみがえる。リビングの重い空気、碧の涙、そしてあの告白。圭吾は目を閉じながら、心臓の鼓動を数えるように呼吸を整えた。時計の秒針の音が、遠くから水滴のようにチチチ……と響く。
やがて意識が闇に沈み、夢の中へと落ちていった。
――夢の中は異様なまでに鮮明だった。夕闇に沈んだ公園の片隅、血にまみれた少女が立っている。髪は乱れ、白いはずの顔は赤黒い血に覆われていた。瞳はぎらつき、冷たい光でまっすぐ圭吾を射抜く。
「お前も……碧と一緒だ……ざまぁみろ……報いを受けろ……」
その声は耳の奥で何重にも反響し、骨にまで響くようだった。少女はゆっくり口角を吊り上げ、低くささやく。
「……まもなく……お前も……抑えが……きかなくなる……」
ゾクリ、と背筋に氷の刃が走る。視界の端で、ぽた……ぽた……と水が落ちる音がした。暗闇の中で銀色に光る蛇口から、水滴が落ちている。床に落ちた水は静かに広がり、やがて血の赤をにじませていく。気づけば足元は水に沈み、濁った水面に自分の青ざめた顔がゆらめいていた。
次の瞬間、耳をつんざく絶叫が現実を引き裂いた。
「きゃああああっ!」
圭吾は弾かれるように目を開けた。暗い寝室の中、麻里が上体を起こして震え、必死に何かを払いのけるように腕を振っている。顔は恐怖に引きつり、涙が頬を伝っていた。
「麻里! どうした!」
圭吾は慌てて体を起こし、肩に手を置いた。麻里は荒い息を吐きながら、しばらくの間言葉にならず、ただ首を振る。圭吾の胸は恐怖と混乱で締め付けられ、全身の血の気が引いていく。心臓の鼓動が耳の奥で重く響き、夜の闇はなおも濃く、息苦しいほどに迫っていた。