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第18話『水……』

 駐在所の執務室は、夕方の光に沈んでいた。西日が窓から斜めに差し込み、机の上の書類やペンに長い影を作る。蛍光灯はまだつけられておらず、薄橙色の陽射しと外の風の音だけが空間を満たしていた。風が電線をかすかに揺らす低い唸りが聞こえ、壁の時計がコチコチと規則正しく響く。村瀬圭吾は椅子にもたれ、天井を見上げながら、胸の奥に重い石が沈むような息苦しさを感じていた。


 頭に浮かぶのは、息子・碧のことだけだった。あの子が見せた狂気――。盗聴や盗撮。思春期特有の興味だと、身内として無理にでも言い訳しようとしてみる。だが、すぐに胸の奥で鋭い否定が響く。いや、やはりあれは常軌を逸している。あの時のぞいたブログの文面が、頭の中で鮮明によみがえり、背筋に冷たいものが走った。


 さらに思い出すのは、学校のウサギ小屋での惨殺事件。そして、その後も続いた小動物を弄ぶような殺害の記録。脳裏に浮かぶのは、夕陽に浮かぶ白い毛並みと、地面に広がる暗い影だ。碧の稚拙な言葉の中に滲んでいた無邪気さは、同時に底なしの残酷さを抱えていた。胃の奥がきりきりと痛み、指先がじっとりと汗ばむ。


 このまま放置すれば、必ず何か取り返しのつかないことを起こす――圭吾は直感した。碧には、生まれつきの異常があるのではないかという恐怖が、静かに胸の奥で膨らんでいく。未来の光景が一瞬よぎる。あの小さな手が、いつか人間の命を奪う瞬間が。


 「……医者に診てもらわないと……」


 かすれた声は、夕暮れの執務室に溶けた。専門家に頼るしかない。このままでは、家族ごと深い影に飲み込まれてしまう。その思いが圭吾の胸を鋭く締め付け、吐く息が苦しくなる。


 まずは、麻里に相談しなければならない。妻と共に、息子の未来を守るため、そして家族の命を守るためにどうするか決めなければ。圭吾は机の端に置いたスマホを手に取り、深く息を吐いた。夕暮れの静寂の中、決意だけが重く沈み、駐在所の薄暗い空気に溶けていった。


 夕暮れの駐在所は、静まり返っていた。西日が窓から斜めに差し込み、机や書類に長い影を落としている。外からはかすかな風の音と、遠くの子どもの笑い声が聞こえるだけだった。村瀬圭吾は執務椅子に腰かけ、重く沈む胸を抱えたまま天井を見上げていた。


 「……麻里に話さないと」


 心の奥でつぶやき、決意を押し出すように椅子から立ち上がる。台所では、きっと麻里が夕食の準備をしているだろう。包丁がまな板を叩く音や、味噌汁の湯気の匂いを思い浮かべるだけで、少しだけ心が和らいだ。


 だがその瞬間、けたたましい電話のベルが静寂を裂いた。


 「っ……!」


 圭吾は一瞬、肩をびくりと震わせた。胸の奥で心臓が重く跳ねる。慌てて受話器を取ると、息の荒い女性の声が飛び込んできた。


 「こちら、SUMIKA総合病院です! 犬の散歩をしていた女の子が、何者かに襲われました! 頭部に怪我をしていますので、救急外来まで至急お願いします!」


 「……え……」


 言葉が詰まり、圭吾は一拍置いてから声を絞り出す。


 「わかりました。すぐに向かいます!」


 受話器を置くと同時に、手のひらには冷たい汗がにじんでいた。夕方の光が薄く差し込む執務室の中で、胸の奥に黒い影のような不安が広がる。


 「まさか……まさか……」


 小さくつぶやき、圭吾は警棒と上着をつかんだ。駐在所のドアを押し開けると、橙色の光に沈んだ街が広がっていた。遠くでカラスが鳴き、夕風が頬を冷たく撫でる。アスファルトを叩く自分の足音だけが乾いた音を響かせ、圭吾はSUMIKA総合病院へと駆け出した。


  SUMIKA総合病院の救急外来に着くと、夕方の光を浴びた白い廊下は人の気配もまばらで、消毒液のにおいが鼻をついた。村瀬圭吾は、息を整えながら自動ドアをくぐった。


 待合のベンチに、真新しい白い包帯を頭に巻いた少女がうなだれて座っていた。歳は、碧と同じくらいだろうか。小さな肩が小刻みに震えている。隣には母親が寄り添い、圭吾の姿を見つけるなり、目を血走らせて立ち上がった。


 「なんで、うちの子が襲われないといけないのよ!」


 母親の声は、待合に鋭く響いた。圭吾は一歩踏み出し、両手を前に差し出すようにして頭を下げる。


 「犯人を捕まえるためです。状況を教えてください。そのために来ました」


 母親は肩で息をしながらも、ようやく言葉をつなぎ始めた。どうやら少女は第三区の住人で、犬の散歩に公園まで行った時、草むらからパーカーを目深にかぶった男が突然飛び出し、金属バットで襲いかかってきたらしい。


 「犬が助けようと腕に噛みついたのよ……でも、あの人、犬をそのまま……」


 母親はそこで言葉を詰まらせた。犬はそのまま撲殺されてしまったという。少女は「太郎ちゃん、太郎ちゃん」と犬の名前を呼んで泣き叫び、その声を聞きつけた近くの主婦が駆けつけたときには、犯人は逃げて姿をくらましていた。


 犯行時刻は、16時過ぎ。まだ陽の残る時間帯だった。


 少女は今も震える声で、犬の名前を呼ぶように口を動かしている。その光景に、圭吾の胸に重苦しいものが沈んだ。


 「ふだんは、SUMIKA内には行かないように言ってたのよ……あそこの住人はみんな、狂ってる。特に、断水してる今は……」


 母親はそう吐き捨てるように言ったが、そこで口をつぐんだ。圭吾は一歩近づき、落ち着いた声で問いかける。


 「断水が、関係あるんですか?」


 母親は俯き、乾いた唇を震わせながら答えた。


 「……水、水……」


 それ以上の言葉は出てこなかった。待合の空気は重く、消毒液のにおいが妙に濃く感じられた。遠くで救急車のサイレンがかすかに鳴り、圭吾は胸の奥に広がる不安の重みを噛みしめていた。


 病院で一通りの聞き取りを終えた村瀬圭吾は、母親の吐き捨てるような言葉が耳に残ったまま、駐在所への帰路についた。


 ――「水……水……」

 ――「SUMIKAの人間は犯罪者だらけよ……」


 車窓の外に広がる夕闇の街は、不気味なほど静かだった。舗道に延びる街灯の光の下を通るたび、圭吾の心の中の不安はより濃くなっていく。少女の母親の言葉が、まるで冷たい針のように思考に刺さったまま抜けない。


 駐在所に戻ると、薄暗い執務室は昼間の熱をすでに失い、ひんやりとした空気が漂っていた。圭吾はため息をつきながら椅子に腰を下ろし、報告用のタブレット端末を手に取る。


 画面を開くと、ポータルにはちょうど新着のお知らせが展開されていた。


 ――『断水終了のお知らせ』


 文章を目で追う圭吾の眉が、自然と寄る。


 『来週の月曜日から断水は解除されます。最初は少し濁った水が出ますが、その水は使用せず、濁りが取れてから生活用水としてお使いください。なお、誤って飲まれた場合も健康には問題ありません。』


 冷たい光を放つタブレットの画面が、駐在所の暗がりにぼんやりと浮かんでいる。無意識に舌打ちしそうになる自分を圭吾は抑えた。さきほど耳にした母親の「水、水……」というつぶやきと、このお知らせが、胸の奥で奇妙に重なったからだ。


 ――偶然なのか。それとも……。


 夜の静けさが、いっそう圭吾の背筋を冷たくした。


 SUMIKA総合病院を出た村瀬圭吾は、車のエンジンをかけながら深く息を吐いた。夜の街は薄暗く、街灯に照らされたアスファルトが湿ったように光っている。車内には救急外来で耳にした母親の言葉が、まだ重くこびりついていた。


 ――「水……水……」「SUMIKAの人間は犯罪者だらけ」


 その響きは、冷たい霧のように頭の中を漂っている。ハンドルを握る手にじんわりと汗がにじんだ。


 病院から駐在所へ戻る途中、圭吾の思考は途切れず続いていた。思い返せば、以前の事故処理のときもそうだ。肩を負傷した第三区の住人は、あからさまにSUMIKAの人間を軽蔑していた。あの視線には、ただの嫌悪だけでなく、何かを知っている者だけが持つ冷たい確信が潜んでいた。


 水と断水……。第三区とSUMIKAは水の供給系統が別だ。あの母親の言葉、そして第三区住人たちの態度。彼らは口を割らないだろうが、間違いなく第三区の人間だけが知るSUMIKAにまつわる情報がある。頭の中で、いくつかの点が繋がりそうで繋がらない。もやもやとした霧が脳にこびりつくようだった。


 そして、圭吾の胸を最も重くしているのは、別の現実だった。動物虐待から人を襲う――この街に巣食う化け物が、ついに恐れていた次の段階へ進んでしまったのだ。


 ハンドルを握る指先が冷たく震えた。今日、犬を散歩していた少女を襲った犯人が、どうか碧ではありませんように。そう心の底から祈るように願いながら、圭吾は夜道を駐在所に向けて走り続けた。車内に響くのはエンジン音と、自分の心臓の重い鼓動だけだった。


 駐在所に戻った村瀬圭吾は、玄関を開けた瞬間にひやりとした空気に包まれた。外はすでに夜の帳が下り、窓から差し込むのは街灯の淡い光だけ。蛍光灯の白い光がリビングの床に長い影を落とし、静けさが張りつめていた。


 ドアをそっと開くと、目に飛び込んできたのはソファに座る碧の姿だった。腕には真新しい包帯が巻かれ、百合が落ち着いた手つきでガーゼを押さえている。テーブルには消毒液や脱脂綿が並び、薬品の匂いが漂っていた。息子の小さな肩が、白い照明に照らされてやけに頼りなく見えた。


 ――腕に怪我。


 病院で聞いた母親の言葉が脳裏をかすめる。「犯人は腕を犬に噛まれているはずです」……。圭吾の心臓が一拍、重く脈打った。


 「……その怪我、どうしたんだ?」


 低い声が自分の口からこぼれる。部屋の空気がさらに重くなった気がした。碧はうつむき、包帯を巻かれる腕をじっと見つめたまま沈黙する。沈黙が長く続き、時計の針の音がやけに大きく響く。


 やがて、台所から麻里が顔を出した。湯気をまとったエプロンの胸元に手を置き、穏やかな声で言った。


 「給水車で水を運んで帰る途中にね、公園の近くで、散歩中のリードをつけてない犬が急に飛びかかってきたらしいの」


 優しい説明の声だったが、圭吾の胸には冷たい重しが落ちる。――嘘だ。そう思った。さっき少女の母親から聞いた話、そして投稿サイトに並んでいた狂気の文章が、頭の中でぴたりと重なる。


 碧の包帯に滲むわずかな赤が、視界に焼き付く。心臓が重く打ち、背中を汗がつうっと伝った。息子の横顔を見つめながら、圭吾の胸に重い言葉が浮かぶ。


 ――こいつが、犯人だ。


 その確信は胸の奥で黒く燃え、夜の静寂とともに疑念はさらに濃くなっていった。






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