第17話『秘密のエッセイ』
駐在所の窓から見える道路は、冬の陽射しに照らされて白く光っていた。午後の静かな時間、通り過ぎるのは自転車に乗った学生や、買い物袋を提げた主婦がぽつぽつといるだけだ。だが、村瀬圭吾の意識は、そののどかな景色には向かっていなかった。
机に広げた報告書の文字はまったく頭に入らず、ペンを握る指先はじっとりと汗ばむ。頭の中で繰り返しよみがえるのは、あの防犯ドローンの映像だ。夜の公園に浮かび上がった小柄な人影。懐中電灯の光が揺れ、パーカーの輪郭がちらつく。あの形、あの色――息子・碧のものとしか思えない。
さらに胸を締めつけるのは、あの引き出しの中身だ。サバイバルナイフの冷たい光。あれだけで、小さな動物を虐殺することなど容易だ。考えれば考えるほど、胸の奥に黒い渦が広がり、胃の底がじくじくと痛んだ。
そして、あのノートの切れ端に記されたログインIDとパスワード。小さな紙片が頭の中で重くのしかかる。
「あれはいったい何を意味している……?」
圭吾は低く呟き、無意識に唇を噛みしめた。直感が告げている。あの紙には、事件を解く手がかりが隠されていると。
碧本人に問いただせばいいことは分かっている。しかし、疑いだけで問い詰める勇気はなかった。親子の信頼が壊れてしまうのが怖かったのだ。まずは確証――決定的な証拠を掴むまでは、本人に聞くのはやめておこう。そう自分に言い訳をしながら、圭吾はまたスマホの画面に目を落とした。
彼は机の上にスマホとパソコンを並べ、ためらいながら指を動かした。まず試したのは、中学生が興味を持ちそうなソーシャルゲーム。次々とログインIDとパスワードを入力してみるが、画面には無情なエラーが返るばかりだった。
次に、コミックサイトや年齢制限のあるアダルトサイトにも手を伸ばす。しかし結果は同じ。ディスプレイに浮かぶ「IDまたはパスワードが違います」の文字が、冷たい現実を突きつけるたびに胸が重く沈んでいく。
「……銀行アプリなんて、ありえないよな」
小さく吐き出した独り言は、静かな駐在所の中に吸い込まれて消えた。息子がそんなものを使うはずもない。だが他に、何があるのか。
圭吾はスマホの音声アシスタントを呼び出した。乾いた声で「中学生がよく使うログインサービス」と尋ねる。数秒後、画面にはいくつかの候補が浮かぶ。動画配信サイト、SNS、そして小説閲覧・投稿サイトの名前が並んでいた。
圭吾は息を詰めたまま、候補の一つ「カクカク云々読もう」という小説投稿サイトに、例のIDとパスワードを打ち込む。カチリと心の中で音がした気がした。画面に現れたのは、待ち望んだ「ログイン成功」の文字。
「……ここ、か」
肩の力がわずかに抜けた。良心的な小説投稿サイトであることに気づき、胸の奥にほんの少しだけ安堵が広がる。だが、心の奥底に沈む黒い影は消えない。安堵の下で、不安は形を変え、じわりと大きく膨らんでいくのだった。
駐在所の蛍光灯は昼間でもわずかに唸りをあげ、窓の外の冬空は鈍く曇っていた。村瀬圭吾は、息子・碧のログイン情報で入った小説閲覧・投稿サイトの画面を、息を殺すように見つめていた。指先は微かに冷えて震え、背中を伝う汗はじわりと湿っている。
意外だった。碧にこんな趣味があったとは思いもしなかった。普段は寡黙で、勉強以外の関心をあまり表に出さない少年。そんな彼が、この広大なネットの世界で何をしているのか。父親としての好奇心と、警察官としての不安が胸の中でせめぎ合う。
サイトは、作品を読むだけならログイン不要のシステムだった。つまり、碧は「読むだけの人間」ではない可能性が高い。何かしらの作品を投稿しているかもしれない――その想像が圭吾の胸にざわりと重くのしかかる。
TOPページはランキング形式で作品が並び、画面の最上部には「総作品数10万以上」の巨大な文字。思わず圭吾は息を呑んだ。目の前に広がるのは、まるで無限の書架だ。恋愛、ファンタジー、文芸、SF、ホラー、歴史、童話、詩、エッセイ……ジャンルは実に多彩で、ページをスクロールするたびに新たな扉が開くような感覚さえある。
蛍光灯の白い光とモニターの青白い輝きが駐在所の静けさに反射する。時計の針が刻む音がやけに大きく、心臓の鼓動と重なる。胸の奥で、得体の知れない不安がふくらんでいった。
ページの片隅に、小さく「ユーザーページ」のリンクがあった。圭吾は無意識に喉を鳴らし、クリックする。次の瞬間、碧と思われるユーザープロフィールが表示された。
そこに書かれた短い自己紹介文を読んだ途端、圭吾の背筋を冷たいものが駆け上がる。
> 「僕は僕じゃない。世界は歪んでいて、壊れていて、だけどその中にしか本当の居場所はない。血の色は綺麗で、夜の公園は僕にささやく。大人は嘘つき。笑ってるのは仮面だけ。」
画面の文字は静止しているはずなのに、圭吾にはそれが、じわじわとにじみ出るような狂気に見えた。中学生の書く言葉とは思えない、冷たく、歪んだ感情。胸の奥に突き刺さる痛みと、警察官としての本能が放つ危険信号が、同時に圭吾を締め付ける。
駐在所の空気は変わらぬはずなのに、急に息苦しく感じた。窓の外を流れる曇天の光でさえ、何か異質な影を帯びているように思えた。
駐在所の静かな空気の中、蛍光灯がかすかに唸りをあげていた。村瀬圭吾は、碧のユーザーページをさらにスクロールし、震える指先で投稿作品のリンクをクリックする。心臓の鼓動が耳の奥でどくどくと響き、モニターの青白い光が彼の頬を冷たく照らしていた。
画面に表示されたジャンルはすぐに「エッセイ」と分かった。タイトルの下には、読む者を拒むかのような不吉なペンネームが記されている。その文字列からは、目に見えない狂気の匂いが立ち上るようだった。圭吾は思わず喉を鳴らし、呼吸を整えてからクリックを続けた。
開いた瞬間、胃の底に冷たいものが落ちる感覚が走る。文字を追うたび、想像を絶する吐き気が込み上げてくる。R15のタグは付いているが、圭吾にはその枠を明らかに超えているように思えた。文章の端々には、残酷さと歪んだ感情がにじみ、冷たい刃のように胸の奥をえぐってくる。
文章の形はエッセイと分類されているが、実態は独白に近かった。淡々とした筆致で綴られるのは、誰にも話せないはずの自分の行動や思考。まるで部屋の片隅に録音機を置き、心の奥をそのまま吐き出しているかのようだった。
さらに、各投稿には日付が記されていた。それは文章に生々しい現実感を与え、もはやエッセイというより日記に等しいものとなっていた。スクロールするたびに、圭吾の心臓は小さく跳ね、手のひらにはじっとりと冷たい汗がにじむ。
駐在所は相変わらず静かなはずなのに、空気は重く、息苦しささえ覚えた。背筋に粟が立ち、指先は冷たく震える。読めば読むほど、胸の奥に重い鉛が沈み込むようだった。モニターの光だけが現実の中で鋭く際立ち、圭吾をこの逃れられない恐怖に縛りつけていた。
4月6日。SUMIKAでの新しい生活が始まった――そうだけ記された冒頭の一文を目にした瞬間、村瀬圭吾の喉はひゅっと鳴った。駐在所の蛍光灯が白く光り、薄暗い室内でモニターの青白い光だけが浮かび上がる。息子・碧のエッセイが、そこにあった。
画面に映る文章は、稚拙で幼さを残しながらも、胸の奥をざわつかせる不穏さを放っている。無邪気さとは程遠く、言葉の行間には黒く濁った悪意が滲んでいた。
■「新しい生活。ぼくはこの家のことをもっと知りたいと思った。だから、盗聴器とカメラをつけた。リビングと寝室。理由はひとつ。両親がセックスしてるか知りたかったから。夜は静かで、家の息遣いがよく聞こえる。笑い声も、いびきも、全部録った。ぜんぶ、ぼくのものになった。」
句読点が不規則に打たれた短文の連なりが、圭吾の胸に冷たい針を何本も突き立てるようだった。幼い筆致のはずなのに、読めば読むほど、吐き気を伴う倒錯がのしかかる。
圭吾は背筋に粟が立ち、指先が冷たくなっていくのを感じた。駐在所の空気は重く、息をするたびに胸の奥が軋む。耳に届くのは、蛍光灯のかすかな唸りと、自分の心臓のどくどくという音だけ。画面に並ぶ息子の文字が、現実の家庭の静寂を汚し、覆いかぶさるように迫ってくる。
彼はマウスを握る手を震わせながら、視線を逸らすことができなかった。自分の家、自分の息子が、別の暗い世界に足を踏み入れている――その実感が、胸を冷たい鉛で満たしていった。
4月14日 夜
今日はとても静かだった。学校の公園は誰もいなくて、街灯の光だけが砂の地面を照らしていた。僕の足音がコツコツと響くと、すごく大きく感じた。風はなくて、木の葉も動かない。遠くで犬が一度だけ吠えて、そのあと静かになった。
ウサギ小屋の前まで来たら、暗くて、月は雲に隠れていた。僕は心臓がドキドキして、でもワクワクもした。ポケットに入れた小さな鍵と、もう片方のポケットにあるサバイバルナイフの重さを感じた。手のひらは汗でしっとりしていた。
鍵を回すと、カチリと音がした。ウサギたちがゴソゴソ動く音。かわいかったけど、僕の手はもう迷わなかった。ふわふわであたたかくて、震えてた。耳がぴくぴく動いて、びっくりしてるみたいだった。
ぎゅっと抱えたあと、僕はそっとポケットの中の冷たい柄を握った。月明かりのない闇の中、銀色の刃は心の中で光った気がした。すっと空気が裂ける音がして、ウサギは小さく震えた。何も言わない夜に、僕の心臓だけがドクドクしていた。
手の中はぬるぬるして、指先まで熱くなった。草の上には暗い色がじわりと広がって、夜のにおいに鉄の味が混じった気がした。小屋の奥では、ほかのウサギが影に隠れて震えていた。光った目が僕を見てた。
僕はしばらくしゃがんで、その白い毛の塊を見ていた。動かない。月が雲の間から少しだけ顔を出して、白い毛を冷たく照らした。僕は手のぬるぬるを見て、胸の奥が熱くなる。何かを抱えたみたいで、思わず笑った。
誰も見てない。夜は全部ぼくのもの。ひみつの夜。僕の夜。
4月24日 夜
きょうも家と駐在所の間はしずかだった。夜の道はひんやりしていて、足音がカツカツ響く。外灯がぽつんと光って、影が長くのびてる。夜は僕の時間。
自宅の廊下を抜けて駐在所につながる小さな通路の途中で、ふと気配を感じてのぞいた。ドアは半分開いていて、光がこぼれてた。中ではお父さんが、机の横で脚にボールペンを何度も突き立ててた。ぶす、ぶすって音がして、赤いのがピュッて飛んだ。床や紙に赤い点々が増えて、においがした。胸がドキドキして、でも笑いそうになった。警察官なのに、自分の脚を何回も刺すなんて、ほんとばかだ。心の中で「受ける」って思った。
次の瞬間、お父さんと目が合った。目は真っ赤で、穴みたいでこわかった。バチンって音がして、ほっぺが熱くなった。平手打ち。顔がじんじんした。でも僕はすぐに泣いた。泣き声は大きかったけど、涙は出なかった。お母さんが駆けつけて、僕をかばいながら叫んでた。「何してるの!やめて!」って。お母さんの声は高くて、通路に響いた。
心の中ではずっと笑ってた。黒い火が胸の奥でチリチリして熱い。あの赤い血が飛ぶのを見たら、もっと見たくなった。あの血が通路いっぱいに広がるところを想像した。いつかぜったいに殺してやる。そう思ったら、泣きながら笑えてきた。胸の中は真っ黒で熱くて、夜の空気まで僕のものみたいだった。
この夜も、僕のひみつの夜。
村瀬圭吾は、静まり返った駐在所の机に座っていた。外の夜風は冷たく、窓ガラスをかすかに震わせている。壁の時計がコチコチと単調な音を刻むほか、建物の中は自分の呼吸音だけが響いていた。指先はじっとりと汗ばんで、心臓は不自然に重く脈打つ。
画面に映るのは、碧の裏の顔が浮かび上がる「エッセイ」と呼ばれた日記ブログ。最初に見た数時間前の時、圭吾は無意識に息を止めていた。 幼く稚拙な文章のはずなのに、文の端々ににじむ悪意と狂気が、父親としての愛情を突き刺し、警察官としての本能を冷たく震わせた。背筋にじわりと冷たい汗が伝う感覚は、何度思い出しても消えない。
碧に平手打ちをした夜を境に、ブログの更新は途絶えた。圭吾が心療内科に通いはじめ、薬の効果で悪夢を見なくなった時期と、ぴたりと重なっていた。偶然なのか、それともあの子は、父の心の変化をどこかで感じ取っていたのか。答えは闇の中だった。
だが震災後、再び悪夢が圭吾の夜を侵しはじめた頃、止まっていたブログは沈黙を破った。深夜の駐在所で、圭吾は震える指でログインし、最新記事を開いた。タイトルはなく、画面上には無機質な日付だけが浮かんでいる。その瞬間、背中に冷気が流れたように感じた。
文章は、公園で猫を惨殺した夜のことを淡々と綴っていた。語彙は稚拙で、行間に無邪気さが混じるはずなのに、血の色や指先に残った感触の描写は妙に生々しい。圭吾の胃の奥に重く沈む鉛のような感覚が広がり、口の中が乾いた。
そして、最後の一行が画面に浮かび上がる。
> 「こんどは人をころしたい」
圭吾の視界が一瞬だけ狭まり、耳鳴りがした。静かな駐在所の中で、モニターの光が彼の顔を青白く染める。背中を冷たい汗がつうっと伝い落ち、指先がかすかに震えた。夜の静寂は、耳元で何かが囁くように重くのしかかる。息子の影は、確実に取り返しのつかない領域へ踏み込もうとしていた――その確信が、圭吾の胸を締めつけ、深い闇だけが室内を満たしていた。