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第16話『知らなければ良かったキメラの影』

 SUMIKA第二区駐在所の薄明かりの中、圭吾は報告書作成のためパソコンの前に座っていた。画面にはさきほど撮影した、公園に遺棄された猫の惨殺写真が表示されている。


 (……この画像を、文書に添付する。状況説明は明瞭に。遺体の状態、紙片の文面、縫合痕……)


 キーボードを打つ指先が震える。冷え切った室内の空気より、心の底から這い上がってくる不快感が勝っていた。


 (あんなこと……絶対に許してはならない)


 報告書に記録するという、職務的な行為に徹していながらも、圭吾の内心では怒りと恐怖が交錯していた。この街に住む子供たちが、いつか同じような被害に遭うかもしれない。そんな不安が、喉の奥をひりつかせる。


 ふと、ディスプレイに映る公園の遠景を眺めていて、圭吾の脳裏にある可能性が浮かんだ。


 (そうだ……ドローンだ)


 SUMIKAの街では、防犯の一環として市が複数の小型ドローンを定期巡回させていた。上空からの監視で、交通状況や不審者の動きなどを記録する目的のものだ。


 (あの猫の遺体が遺棄された場所には防犯カメラは設置されていなかった。犯人もそれを知って選んだに違いない。でも、ドローンの存在までは気づいていなかったかもしれない……)


 画面を見つめながら、圭吾の胸の内にわずかな希望の光が差し込んだ。


 (記録ログをたどれば、犯行時刻前後の映像が残っている可能性がある。上空の映像なら、犯人が遺体を持ち込んだ瞬間を捉えているかもしれない)


 希望というには頼りないが、何か手掛かりを得る術があるだけでも違う。


 椅子から立ち上がり、備え付けの資料棚からドローン管轄部署の連絡ファイルを引っ張り出す。


 「……できることは、やらないとな」


 声にならないつぶやきを漏らしながら、圭吾は再びパソコンに向かう。


 (もう二度と、あんな光景を見たくはない。あんなものが“日常”になる前に……)


 そう決意すると、すぐにドローン記録担当部署への照会メールを作成し始めた。画面に映る惨劇の画像が、何かを訴えるように圭吾の背中を押していた。


 晩秋の昼前、静まり返った駐在所の一角で、圭吾はパソコンに向かっていた。蛍光灯の白い光が机上を均等に照らし、窓の外には雲間から差す弱い陽射しが落ち葉を淡く照らしている。遠くで鳥が鳴き、風に舞う葉が窓ガラスにかすかに触れて音を立てた。庁舎は静かで、その静けさが逆に圭吾の胸を締めつけた。


 ディスプレイに映し出されたのは、SUMIKAのドローン映像閲覧システムのログイン画面。市内を飛ぶ百機近い防犯ドローンの映像は、通常なら警察関係者だけが閲覧できる特権情報だ。


 『閲覧にはSUMIKA警察IDが必要です』

 『利用目的を明確に入力してください』

 『得た情報は目的以外に使用せず、プライバシーを厳守してください』


 冷たい文言が整然と並ぶ。圭吾はマウスを握る手に力を込め、一つずつ確認しながらチェックボックスをクリックしていった。カチリ、カチリと小さな音が静寂に響くたび、胸の奥に覚悟の重みが積み上がっていくようだった。


 理由欄に「動物虐待・遺体遺棄事件の捜査のため、公園周辺の防犯映像確認希望」と入力する。送信ボタンを押すと、処理中の文字がしばらく画面に踊り、その間、圭吾は無意識に足を揺らしていた。


 (許可が下りなければ……次の手はない)


 数分後、端末が小さく電子音を鳴らした。


 『申請が承認されました。映像を閲覧できます』


 胸の奥で張り詰めていた糸が、ほんのわずかに緩む。


 圭吾はすぐに地図表示を呼び出した。市内の俯瞰図に、小さな青いアイコンが点滅し、ひとつひとつが巡回中のドローンを示している。無言の監視者たちが、灰色の街を淡々と見下ろしているのだ。


 (……該当するのは、この一機か)


 公園上空を定期的に旋回していたのは一機だけ。だが、その小さな目が、あの惨劇の瞬間を捉えているかもしれない。


 圭吾は無意識に拳を握りしめた。冷たい指先に、じんわりと血が巡る感覚が戻ってくる。


 (頼む……何か、手がかりを残していてくれ)


 窓の外、昼前の光が落ち葉を照らし、淡い影を舗道に描いていた。胸の奥の不安と期待が入り混じったまま、圭吾は次の操作に手を伸ばした。


 駐在所の空気は、夜明け前のように静まり返っていた。蛍光灯の白い光が机上を冷たく照らし、外では晩秋の風が窓を揺らしてカタリと鳴る。圭吾は、端末に映るドローン映像のログに目を凝らしていた。


 通報があった日の映像を指定し、保存期間ぎりぎりのデータを呼び出す。三日間しか保持されない録画データ。もう少し遅れていたら、何も残らなかっただろう。


 (危なかった……これが最後の手掛かりかもしれない)


 圭吾は映像範囲を夕方から翌朝に設定した。人目が多い時間帯は外し、犯人が動くとしたら夜だろうと見当をつける。公園の俯瞰映像が映し出され、上空からの冷たい視線が、無人の遊具と落ち葉を静かに見下ろしている。


 初めのうちは平凡な光景ばかりだった。犬を連れた老夫婦、ランニングする若者、足早に横切るサラリーマン。日常の断片が淡々と流れ、圭吾は早送りしながら、胸の奥にじわりと焦燥が広がっていくのを感じた。


 夜十時を過ぎると、公園は完全な無人となった。街灯の下にブランコとベンチだけが残り、風が落ち葉を散らす音が画面越しに伝わってくるようだった。息が詰まるほどの静寂。


 (……やはり、手がかりはないのか)


 そう諦めかけた午前二時過ぎ、暗闇の中にふっと一筋の光が揺れた。モニターに映ったのは、懐中電灯を手にした小柄な人影。背には小さなリュックを背負っている。


 圭吾の心臓が跳ねた。無意識に身を乗り出し、ズームを最大にする。上空からの俯瞰映像では顔の輪郭は曖昧で、マスクをした人物はぼやけていた。それでも、その背丈、ラフなパーカー姿に見覚えがありすぎた。


 (……嘘だろ)


 少年は、公園の草むらの陰にゆっくりと消えていった。犯行そのものは映っていない。しかし、圭吾には理解できてしまった。あのシルエット、歩き方、着こなし……。


 息子――碧だ。


 血の気が引く感覚に、圭吾はモニターの前で固まった。冷たい汗が背筋を伝い、指先がかすかに震える。否定したいのに、心の奥ではすでに確信が芽生えていた。


 (なんで……碧、お前が……?)


 胸の奥に、恐怖と混乱と、説明のつかない寂しさが渦を巻く。駐在所の静寂は、圭吾の心臓の鼓動だけを強調していた。


 圭吾の胸はざわめきに満ちていた。あのドローン映像に映っていた少年の服装──ラフなパーカー姿が頭から離れない。


 (……確認しなきゃ……)


 理性は「やめろ」と叫んでいたが、衝動はそれを押し切った。午前中、碧は中学校に行っている。震災後の短縮授業で、午後には帰宅する。この機を逃せば、二度と確認できないかもしれない。


 階段を上がる足取りは重く、心臓の鼓動は一段上がるごとに耳の奥で大きく響く。二階の廊下に差し込む昼の光はどこか寒々しく、薄暗い影が壁に伸びていた。圭吾は碧の部屋の前に立ち、ノブにそっと手をかける。その瞬間、胸の奥で鼓動が暴れた。


 扉を開くと、整然とした少年の部屋が現れた。カーテンの隙間から差す光が、床に小さな四角の模様を作る。壁際の本棚には教科書や参考書がきちんと並び、窓際には小さな観葉植物が置かれ、静かに葉を揺らしている。机の上には鉛筆とノートが整然と置かれ、生活感はあるが、どこか無機質な印象すら漂っていた。


 圭吾は吸い寄せられるようにクローゼットに向かう。扉に手をかけ、深く息を吸い込んでから開いた。吊るされた服の奥に視線を走らせ、あのパーカーを探す。見つけた瞬間、時間が止まったように感じた。


 ハンガーにかかっていたのは、ドローン映像の中で見たのと同じ色、同じプリント模様のパーカーだった。布の皺や色合いまでも、記憶の中の映像と重なった。


 (……間違いない……)


 圭吾の膝が震え、視界がぐらりと揺れる。頭の中に、否定したい気持ちと現実がぶつかり合う鈍い衝撃音が響くようだった。


 (頼む……色だけでも違っていてくれって、思ったのに……)


 胸の奥が冷え、眩暈に襲われながらも、圭吾は壁に手をついて立っていた。希望は儚く砕け散り、部屋の静けさが逆に恐ろしかった。


 何か他に手掛かりはないか──ふらつく足取りで室内を見回す。視線の先に、壁際の勉強机が目に入った。整然と並ぶ鉛筆とノート。昼の光に照らされたその机は、無言のまま圭吾を誘うように見えた。


 クローゼットで見つけたパーカーの衝撃は、村瀬圭吾の胸の奥でじりじりと燻り続けていた。布地に残る微かな匂いと、夜の公園で見た防犯映像が頭から離れない。手にじっとりと汗がにじむのを感じながら、彼は机に視線を向けた。そこに、何か決定的な手がかりが潜んでいるのではないかという予感が拭えなかった。


 部屋は午後の光に包まれていた。カーテンの隙間から差し込む淡い光が、机の表面に斜めの影を落とす。机の上は驚くほど整然としており、教科書と参考書は高さを揃えて並び、筆立ての中のシャープペンシルやボールペンは、まるで展示品のように整列している。静まり返った空気の中で、圭吾の呼吸だけがやけに大きく耳に響いた。


 彼はゆっくりと引き出しに手をかけ、一つずつ開けていく。中も同じように整理整頓され、ノートや筆記具がきっちりと収まっている。几帳面さが、無言で碧の性格を物語っていた。


 一冊のノートを取り出してページをめくると、懐かしい数式や、びっしりと書き込まれた英単語、社会科の年号が目に入った。そこには、平凡で健全な中学生の日常があるだけだった。胸の奥に沈んでいた黒い不安が、ほんの一瞬だけ溶ける。


 だが、最後の引き出しには鍵がかかっていた。取っ手を引くと、金属のかすかな軋みとともにびくともしない。


 喉がからからに乾き、圭吾は鍵穴を覗き込み、低く息を吐いた。警察勤務の中で受けたピッキング体験講習の記憶が脳裏によみがえる。これくらいの簡単な机の錠前なら、針金一本で開くはずだった。


 手の中で針金がわずかに震えた。カチリ、と乾いた音が響き、引き出しは驚くほどあっさりと開く。


 次の瞬間、圭吾の胸の奥に冷たい鉛の塊が落ちる感覚が走った。


 中には、一振りのサバイバルナイフが横たわっていた。銀色の刃は淡い光を跳ね返し、黒いグリップは手に吸い付くような質感をしている。明らかに殺傷能力を持った代物で、未成年には販売すら禁じられている。ここにあること自体が異常だった。


 その隣には、ノートの切れ端が一枚。乱雑な筆致で「ログインナンバー」と「暗証番号」が書かれている。用途は分からない。ただ、胸の奥でざわめく警鐘が「調べろ」と告げていた。


 圭吾は手を震わせながらスマホを取り出し、そっと画面に記録を残した。父としての愛情と、警察官としての本能がせめぎ合い、胸の奥で鈍い痛みが広がる。


 引き出しを元通りに閉め、針金をしまい込む。机の上も引き出しも、何事もなかったかのように整えた。足音を殺して部屋を出ると、廊下の冷たい空気が肌に刺さる。


 扉を閉めた瞬間、膝がわずかに震えていることに気づく。静まり返った家の中で、彼の心だけが大きな音を立てて崩れていくのを感じた。



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