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第15話『悪夢再び……』

 震災から一週間が経過した。

 晩秋の風が肌を刺すようになり、落ち葉が歩道に積もる中、街は外見上、徐々に平常を取り戻しつつあるように見えた。道路は応急処置が施され、主要交差点では信号も再び点灯していた。商業施設も時短ながら再開し、制服姿の子供たちが学校に向かう姿もちらほら見かけるようになった。


 だが、生活の根幹にある“水”が戻っていないことが、日常のあらゆる場面に影を落としていた。


 蛇口をひねっても、水は出ない。タンクの底を覗き込みながらため息をつく主婦、給水車が来る音に玄関から飛び出す子供たち。飲み水は一日に三回、自衛隊の車両が各地区を巡回して届けてくれるが、そのたびに住民たちはタンクやペットボトルを抱え列を作る。給水所の光景はまるで別世界のようで、学校では午前中だけの短縮授業の後、そのまま水汲みに駆り出される児童の姿も見られた。


 トイレや洗濯は特に困難だった。流すための水をバケツで運ぶという手間に加え、風も冷たくなり始めた晩秋の空気の中で、濡れた衣類や身体を乾かすのにも一苦労だった。簡易トイレや汲み取り式トイレの利用が増え、清潔を保てない不快感と、張り詰めた神経に限界を訴える声も増えていた。


 そんな中、第三地区の外縁部に建てられた仮設の浴場と洗濯施設は、SUMIKA住民のわずかな救いの場となっていた。施設はトラック改装型の簡易構造ながら、湯気が立ち込めるその空間に、住民たちは安らぎを求めて足を運んだ。順番を守り静かに並ぶ人々の姿に、少しだけ秩序が戻ってきたかのような錯覚を覚える。


 だが、その施設の入口に貼られた掲示物が、圭吾の足を止めさせた。


 「本施設は、第三地区の善意により提供されています。利用者は常に感謝の心を持ち、節度ある行動を心がけてください」

 「第三地区内は関係者以外立入禁止。SUMIKA住民は部外者に該当します」


 文字は丁寧だったが、その文面にはどこか棘のある響きがあった。


 「……“善意”って、こうも押しつけがましくなるもんかね」


 圭吾は眉をひそめ、低く呟いた。隣にいたSUMIKAの住人も掲示に目を通し、首を傾げる。


 「排他的ですよね。あの人たち、震災後ますます距離置いてきた感じがします」


 第三地区は、SUMIKAの中でも特別な存在だった。

 近隣の限界集落から招かれた住人たちが住まうその区域は、国の未来を見据えた再生計画の核となる場所であり、移住に際して住居の提供や協力金が支払われていた。最新技術による農業に従事する彼らは、表向きには計画の協力者でありながら、SUMIKA全体から一線を画した存在でもあった。


 「自分たちの領域には入ってくるなっていう意思表示なんだろうな……」


 圭吾の口からこぼれた言葉には、微かな諦めが滲んでいた。


 SUMIKAは、本来多様な人々が共に暮らす“新たな共生社会”の象徴のはずだった。

 だが、その理想は震災という出来事を機に、ゆっくりと軋み始めていた。


 「水ひとつで、人の心の距離が露わになるなんてな……」


 圭吾はふと晩秋の冷たい風に首をすくめた。

 掲示板の紙がカサリと音を立てて揺れた。

 それは、見えない境界線を静かに、しかし確実に刻んでいた。


 その夜、圭吾は久しぶりに、あの夢を見た。


 視界は真っ赤だった。

 どこかの廃墟のような場所。壁は崩れ落ち、天井は黒ずみ、床には瓦礫が散らばっている。窓枠にガラスの面影はなく、吹き込む風がカーテンのように揺れるビニールをかすかに鳴らしていた。湿った空気に埃と鉄錆の匂いが混じり、喉奥にざらりとまとわりつく。


 その中央に、白いワンピース姿の少女がぽつんと立っていた。

 膝までの長さの裾が、風もないのにかすかに揺れている。少女の髪は濡れたようにぺたりと頬に張りつき、うつむいた顔は長い前髪で隠れて見えなかった。


 腕に抱かれていたぬいぐるみは、片目が取れ、縫い目から綿が飛び出していた。その胴体部分には、赤黒く乾いた血が滲んでいる。


 どこからともなく、水の滴る音が聞こえてきた。


 ポタ……ポタ……ポタ……。


 圭吾はゆっくり視線を落とす。

 足元に広がる水たまり。その中心に、まるで地面から生えたように、一本の蛇口が突き出ていた。錆びた金属の表面をつたい、透明なはずの水が、どこか赤みを帯びてぽたぽたと落ちていた。


 ポタ……ポタ……。


 その音が脳の奥に食い込み、やがて耳の奥で反響しはじめる。

 少女は動かない。ただ、静かにぬいぐるみを抱いたまま、顔をゆっくりと上げた。


 そこに――顔はなかった。


 ぽっかりと空いた空洞。まるで仮面の裏側のようなその闇が、ぐにゃりと歪み、微かに呻くような音を立てる。


 圭吾の心臓が一拍、打つのを忘れた。


 少女の存在は不自然だった。白いワンピース、血まみれのぬいぐるみ、そして顔のない輪郭。

 どこかで見た気がする。遠い過去の、記憶の隅に沈めた何か――。


 次の瞬間、世界が傾いだ。

 視界がぐらりと揺れ、崩れ落ちる廃墟の風景の中で、蛇口の水音だけがやけに鮮明に耳に残った。


 圭吾は、布団の中で跳ね起きた。


 「……っ、はぁ、はぁ……」


 息が荒く、胸の奥が痛む。額を冷や汗が流れ、喉の奥がひどく乾いていた。


 静まり返った寝室の中、窓の外からは晩秋の風が木の枝を揺らす音が聞こえてくる。

 時計の針は、午前二時を差していた。


 圭吾は手を伸ばし、枕元のペットボトルを取り上げる。

 水を一口飲む。冷たいはずの水が、どこかぬるく、泥臭く感じられた。


 「……また、あの夢か」


 久しく見ていなかったはずなのに、震災から日が経つにつれて再び現れるようになった少女の影。

 あの白い服の少女は――いったい誰なのか。

 そして、なぜ自分は彼女の夢を何度も見るのか。


 圭吾は額を押さえた。

 記憶の底に沈めていた、触れてはならない過去の断片が、ゆっくりと浮かび上がろうとしているようだった。


 本能が、それを拒んでいた。

 だが、心のどこかで分かっていた。

 ――あの夢の少女は、かつて自分が関わった“何か”の象徴なのだと。


 その“何か”を思い出すときが来るのだろう。

 圭吾は、しばらく布団の中で眠ることができなかった。


 震災からの日々が過ぎ、街は表面上の落ち着きを取り戻したかのように見えていた。だが、晩秋の冷たい風が吹く夜、圭吾にとっては眠りが安らぎを与えることはなかった。連日連夜、あの悪夢が再び訪れていた。


 赤い廃墟、白い服の少女、血に濡れたぬいぐるみ、蛇口から落ちる水の音。夢の中で耳に残るその音は、目を覚ました後も胸の奥にこびりつく。額には冷や汗が滲み、枕元の水を飲んでも喉の渇きは癒えない。


 「……薬、効いてないな」


 暗い寝室で、圭吾は小さく呟いた。心療内科で処方された安定剤や睡眠薬も、震災後の張り詰めた生活の中では力を失ったかのようだった。仲上先生に相談しようと何度も思ったが、駐在所は震災対応で雑務が山積みだ。給水所の見回り、避難所への連絡、報告書作成……。非番の日と心療内科の予約日が噛み合わず、結局行けずじまいが続いていた。


 「有給で……行くか……」


 そう呟いた自分に、苦笑いが浮かぶ。先日の温泉旅行で休暇を取ったばかりだ。震災後の緊張感の中で、また休むことは気が引けた。遠慮と責任感が絡み合い、心身を締めつける。


 晩秋の夕暮れ、家に帰るとリビングには薄暗い明かりが灯っていた。キッチンでは麻里が洗い物をしている音が響き、碧の部屋からはかすかに鉛筆の走る音が聞こえてくる。いつもと変わらぬ光景のはずなのに、どこか刺々しい空気が漂っていた。


 「ねぇ、碧の宿題、見てあげてよ」


 振り向いた麻里の声は、抑えてはいるが苛立ちが混じる。


 「今帰ったばかりだぞ……少しだけ休ませてくれ」


 「少しって言って、また寝ちゃうんじゃない?」


 その一言が、胸に重くのしかかる。言い返したい気持ちを圭吾は飲み込み、ただ小さくうなずいてリビングの椅子に座った。


 碧はというと、最近はリビングに姿を見せることも減っていた。時折、部屋の扉がかすかに軋み、ゲームの効果音や紙の擦れる音が聞こえる。夕食時も無言で、視線を合わせないまま席を立つこともある。


 圭吾はその背中を見送りながら、胸の奥に冷たい重石が沈んでいくのを感じた。


 ――また、戻ってしまうのか。


 温泉旅行で一時は手に入れた、かすかな安らぎ。あのぬくもりは、晩秋の冷たい風にさらわれるように、静かに指の隙間からこぼれ落ちていった。


 秋雨の残滓が舗道を斑に濡らす午後、圭吾は駐在所の一角で報告書の整理に追われていた。そこへ、一本の通報が入った。


 「……はい、こちらSUMIKA第二区駐在所。……ええ、公園で……猫が? ……わかりました、すぐに向かいます」


 受話器を置いた瞬間、圭吾の手にじわりと冷や汗がにじんだ。指先が震えていることに気づき、思わず拳を握る。


 (まさか……また、あれが……?)


 胸の奥に広がる不穏な記憶を押し込めながら、重い足取りでパトカーに乗り込む。目的地は中央公園。震災後は人気がまばらになった、かつて子どもたちで賑わっていた場所だ。


 雨上がりの空は鉛のように鈍く、遊具の色彩も湿気で曇っていた。公園の隅、古びた植え込みのあたりに、人影がひとつ。通報者と思しき高齢の男性が、帽子を胸に当て、陰鬱な表情で立ち尽くしていた。


 「ここです……あんなもの、見たことない……」


 圭吾がうなずき、視線を地面に落とす。


 そこには、一体の猫の死骸が横たわっていた。……いや、もはや“死骸”と呼ぶにはあまりに異様で、禍々しい。


 猫の顔は縦に二つへ引き裂かれていた。左右に裂けた頭蓋の隙間から、泥にまみれた赤黒い肉と、乾きかけた血が溶け合い、ぬめりのある瘡蓋のようになっている。


 「なんだ……これ……」


 圭吾が思わず吐き捨てるように呟く。


 猫の口元には、小さく折り畳まれた紙切れが押し込まれていた。震える手でピンセットを取り出し、慎重に取り上げると、そこには赤黒く滲む文字が――。


 『キメラ誕生』


 インクか、あるいは血か。文字はぶよぶよとにじんでおり、紙の繊維に深く染み込んでいた。


 さらに、猫の引き裂かれた顔面の中には、明らかに別の動物の皮膚が縫い込まれていた。それはイタチか、それに似た野生動物の一部。毛並みが異なり、模様の違う皮膚が乱雑に縫合されている。


 縫い目は粗く、針で無理やり刺したような跡。場所によっては糸がちぎれ、血膿のような液がにじんでいた。腐敗の初期段階なのか、鼻をつく生臭さと薬品のような刺激臭が入り混じり、圭吾は思わず口元を覆った。


 「っ……」


 喉の奥が攣れ、えずくような吐き気が込み上げる。


 (誰が、こんな……人間のやることか?)


 公園の静けさが、かえってこの異常さを際立たせていた。風が枝を揺らし、カラカラと落ち葉が回る音だけが空気を裂く。


 圭吾は周囲を見渡しながら、警戒心を強めていた。足音、気配、カメラ。――誰かが、意図的に“見せて”いる。


 まるで何かの儀式のように。


 キメラ。


 常識ではあり得ない、自然に存在してはならないもの。


 だが、それを“創る”者が、ここにいる。


 (また……始まるのか?)


 嫌な汗が背中を伝い、制服の中に貼りついた。


 圭吾は携帯端末を取り出し、震える手で現場の写真を撮りながら、ひとつ、深く息を吐いた。胸の奥で、なにか古い扉が、きい、と軋み始めている気がした。





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