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第12話『温泉旅行』

 穏やかな陽射しが差し込む午後、リビングには洗いたてのカーテンの匂いが微かに漂っていた。


 圭吾はソファに身を沈め、湯気の立つ緑茶を両手で包みながら、静かに家の空気を味わっていた。身体は落ち着いている。頭も軽い。


 ふと視線をやると、麻里が窓際で洗濯物を畳んでいた。日差しに照らされたその横顔は、どこか淡く、輪郭がにじんで見えた。いつものように丁寧で、無理のない動き。けれどその指先には、なにか思考を抑え込んでいるような張り詰めた静けさがあった。


 ダイニングでは、碧が教科書とノートを広げて、黙々と数式を書き写していた。中学一年生の数学、一次方程式の練習。鉛筆の芯が紙を擦る音が、規則的に響く。


 小さな背中。真面目すぎるほどの集中。


 その姿が、どこか遠く感じられた。


 (……あのとき、俺は手を上げてしまった)


 胸の奥がざらりと波打つ。

 あの夜、幻聴に追い詰められて、碧に向かって衝動的に振るった掌。目を見開いたまま声も出なかった碧。止めに入った麻里の声が震えていた。


 後悔は何度繰り返しても、過去を消してはくれない。

 だからこそ、せめて今からでも……。


 圭吾は茶碗を置き、麻里の背に声をかけた。


「……なあ、麻里」


 麻里がそっと手を止め、こちらを振り返った。光が頬を撫で、目元にやさしい影をつくっていた。


「うん?」


「今度の連休、どこか行かないか? 近場でいいんだけど……温泉とか」


 畳んでいたタオルがふわりと膝に落ちる。

 麻里は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。


「温泉?」


「ああ。最近……いろいろ迷惑かけたからさ。謝りたいってのもあるし、碧にも……ちゃんと向き合いたいと思ってる」


 素直な言葉だった。照れも飾りもなく、心の底から出た声。


 麻里は少し俯いて考え込むようにしたあと、小さく笑った。


「うれしい。圭吾の口から、そういうこと言われるの……ほんと、久しぶり」


 その横で、碧が鉛筆を止めた。教科書を閉じて、椅子をぎし、と少し引く。


「温泉って、あの駅の裏の“丘の湯”? この前、ポスター貼ってあった」


「いや、あそこじゃなくて。もう少し奥の“千倉の湯”ってとこ。自然がきれいで、静かな宿らしい。少し高いけど……たまには、な」


 圭吾はもう、有給申請を出していた。駐在の当番は本部に申請すれば交代の職員が来てくれる。事務的な処理も終えてある。


 心療内科の仲上医師にも、この話はすでにしてある。旅行の話をした際、彼は少し眉をひそめたものの、「あなたの判断に任せます。ストレスにならない程度に」と言ってくれた。そして最後にひと言。


「薬はしっかり忘れないように飲んでくださいね。旅行に行くと、つい飲み忘れる方が多いので」


 その言葉が、なにより強く胸に残っていた。

 圭吾は頷きながら、改めてポケットの中に常備薬のスリムケースを確かめた。

 どんなに景色が変わっても、これは欠かせない。


「許可はもう取ってあるんだ。二泊三日。……たまには、ちゃんと家族らしいこと、しようと思って」


 麻里がゆっくりと頷いた。肩の力がふっと抜けたように見えた。


「行こう。楽しみにしてる」


 碧も、照れたように口元をゆるめた。


「……じゃあ、俺も宿のホームページ見てみる」


 圭吾は二人の反応を見ながら、胸の奥にほんのわずか、あたたかいものが広がるのを感じていた。


「おいしいもの食べてさ、近くの観光地も少し回って、温泉にゆっくり浸かって……。のんびり、楽しもう」


 そんなささやかな未来の予定が、これほどまでに心をほぐすとは思わなかった。


 償いのためだけじゃない。

 取り戻したいと思った。あの日々の柔らかい空気を、笑い声を、いつの間にか自分が遠ざけてしまったものを。


 それがたとえ、取り戻せない何かだとしても──もう一度、触れてみたいと思った。


 秋の空気が肌に心地よく、風は乾いて澄んでいた。朝の光が白く家々を照らし、旅立ちの一日が始まろうとしていた。


 玄関先で、圭吾は大きめのトートバッグを肩に提げ、靴ひもを締め直していた。麻里は碧のリュックを開けて、文庫本やスマートフォンの充電器、筆記用具などを確認している。その横顔は柔らかく微笑んでいるようで、どこか静かな緊張感を帯びていた。


「歯ブラシは……あ、ちゃんと入ってた。着替えもOK」


「もう俺、自分で用意したのに」


 碧が小さく文句を言いながらも、どこか楽しげに笑った。


 SUMIKA本部から派遣された代行駐在員が、制服姿で門扉の前に立っていた。四十代後半と思しき穏やかな面持ちの男性で、にこやかに帽子のつばを指で押さえた。


「三日間、こちらで対応します。安心してご旅行を」


「助かります。本当に……ありがとうございます」


 圭吾は深く頭を下げた。ついでに、軽く冗談のように笑う。


「お土産、買ってきますから。甘いのか辛いのか、お好みは?」


 代行員が笑い返した。


「旅先でゆっくり決めてください。それが一番のお土産ですよ」


 その何気ない言葉が、圭吾の胸にすっと染み込んだ。


 家族三人は、自家用車に乗り込んだ。トランクに荷物を積み、圭吾がハンドルを握る。助手席の麻里がナビを操作し、後部座席の碧は早速窓を開けて秋の風を感じている。


 車内に流れる静かな音楽と、エンジンの振動。圭吾はふと、今の心の落ち着きを確かめるように深く息を吐いた。


 ――そして数時間後。


 山あいの温泉地にある旅館に到着した。渓流のせせらぎがすぐ傍を流れ、木造の建物が風にきしむ音すらも心地よく感じられる場所だった。


「わぁ……すごい。空気が違う」


 麻里が深く息を吸い込み、目を細めた。


「ほんとに、空が広いな」


 圭吾も感嘆の声を漏らした。リュックを背負った碧は、興味深そうに旅館の玄関にある風鈴や飾りの彫刻に目を向けていた。


 部屋に案内され、荷物を置くと、碧が畳に寝転んだ。


「ふわふわだ……」


「転がるな、浴衣がしわになる」


 笑いながら言いながら、圭吾は浴衣に着替え、座卓に置かれたお茶をすすった。渋みの中に、どこか懐かしい味がした。


 夕食は地元の食材をふんだんに使った懐石料理だった。圭吾は目の前に並んだ料理を見つめて、箸を止めた。


「……こういうの、久しぶりだな」


 ぽつりと漏らすと、麻里が静かに笑った。


「圭吾がちゃんと味わって食べてるの、私も久しぶりに見るよ」


「うまいな、これ。碧、食べてみ」


「うん……この天ぷら、塩だけなのに美味しい」


 家族の笑い声が重なった瞬間、圭吾はふとある記憶の断片に触れた。


 ――かつて、温泉旅行に行ったことがあったような気がする。碧がもっと幼くて、手を引いて歩いた記憶。麻里がその横で笑っていた。だが……その記憶が、どこで、いつだったのか、はっきりしない。


(あのときの宿……どこだっけ?)


 写真は? 思い出の土産物は?


 頭の奥に霧がかかったように、詳細がまるで掴めなかった。まるで、それが“実際には存在しなかった”出来事だったかのように。


 圭吾は少し眉をひそめ、茶碗を口に運んだ。


「……まあいいか。今を楽しもう」


 湯上がりにロビーで買った瓶のコーヒー牛乳を手に取りながら、彼は旅館の中庭に出た。


 川の音、虫の声、湯気とともに立ち昇る秋の夜の香り。


 この穏やかな時間を、今はただ、静かに味わいたいと思った。


 ただし出発前、心療内科でこの旅行のことを仲上医師に伝えたときの言葉が脳裏をよぎった。


「旅行中は、薬を忘れないようにしてくださいね。環境が変わると、つい飲み忘れる方が多いので」


 柔らかな笑顔の裏で、医師の目はわずかに鋭さを帯びていた。


 圭吾は胸ポケットを軽く叩き、常備薬が入ったケースの感触を確認した。


(大丈夫。忘れてない)


 この安らぎの時間を守るために、何を忘れても薬だけは忘れない。


 そう心に誓いながら、夜空を見上げた。


 旅館二泊目の夜。静まり返った山あいの空気は澄みわたり、外の露天風呂からはゆるやかに白い湯気が昇っていた。照らす月光が湯面をゆらゆらと揺らし、あたりの木々の影を揺らしている。


 縁に腰を下ろした圭吾は、両足を湯に浸しながら、手すりに肘をついて空を仰いでいた。頬をかすめる秋の風は、どこか懐かしく、肌の奥まで染み渡ってくるようだった。虫の音、木々のざわめき、遠くで響く川のせせらぎが、静かな調べを奏でていた。


(……来てよかった)


 心の底からそう思った。

 温泉の湯に体を預けていると、数年ぶりに“人間らしく息をしている”という感覚が戻ってきたようだった。心療内科に通いはじめてから、薬の効果もあって気分は落ち着き、幻聴や悪夢も今は…ない。けれど、それ以上にこの二日間──麻里と碧と過ごした家族旅行は、なにより心に染みた。


 夕食後、館内の廊下の突き当たりにある窓辺で、麻里と並んで腰を下ろした。窓越しには、中庭の灯りがほのかにゆれている。


「……ありがとうな、麻里」


 唐突に漏らした圭吾の言葉に、麻里は一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「どうしたの? 急に」


「いや……こうして、家族で旅行するなんて、いつぶりだろうなって思ってさ。ちゃんと“ありがとう”って言いたくなった」


 麻里はその言葉を噛みしめるように、静かに頷いた。


「私も嬉しかったよ。圭吾が、ちゃんと今を見てくれてるのが分かる」


「まだ完治したわけじゃないけど、少しずつ前向きになれてる気がする。……次の休みも、また来たいな」


「そうね。碧も楽しそうだったし、きっと喜ぶ」


 部屋の障子越しに、碧がテレビ番組を見て笑っている声が聞こえた。


「おいしいもの食べて、観光して、温泉入って……。こんな当たり前のことが、こんなにありがたいなんてな」


「それ、きっと“元気になってきてる証拠”だよ」


 微笑み合うふたりの間に、静かな安堵と温もりが流れた。


 ふと、圭吾は浴衣の胸元を探った。


(あ……)


 ポケットにあるはずの薬のケースが、ない。


 夕食後の服薬──忘れていた。朝はしっかり飲んだが、夜の分を持ち歩いておらず、洗面台に置いたままだ。


(大丈夫。明日の朝、すぐ飲もう)


 そう自分に言い聞かせたが、仲上医師の穏やかな声が脳裏に蘇る。


『旅行中は、薬を忘れがちになります。環境が変わると、つい……。でも、そこが一番大事なんです。忘れずに飲んでくださいね』


 優しい口調の奥に、あのときほんのわずかに覗いた鋭い目の光。


(すまん、先生……明日はちゃんと飲む)


 胸元を軽く押さえ、圭吾は小さく息を吐いた。


 その夜は、温泉の湯気に包まれながら、満ち足りた安らぎとともに過ぎていった。


 ──だが、この幸せが永遠に続くことはなかった。


 翌朝、チェックアウトを済ませた家族三人は、穏やかな笑顔を浮かべながら自家用車に乗り込んだ。トランクにはお土産が詰められ、車内には旅行先で買った民芸品の香りと、優しい音楽が流れていた。


 風は穏やかで、雲も高く、絶好の帰路だった。


 けれど──。


 この帰り道で“ある出来事”が起こる。

 それがすべての引き金だった。


 家族の絆は静かにほころび、圭吾の心は、そしてSUMIKAという街の正体までもが、音もなく崩れはじめることになる。


 その未来を、このときの圭吾はまだ、何ひとつ知る由もなかった。



◆ 登場人物紹介


■ 村瀬 圭吾むらせ・けいご

本作の主人公。40代前半。

かつて地方都市の警察署に勤務していたが、自らの意志で先進スマートシティ「SUMIKA」へ転属し、現在は地域の駐在警察官として勤務している。

出世や上司との付き合いには関心がなく、現場主義で住民の安全を守ることにやりがいを見出している。

穏やかな性格だが、最近は精神的に不安定な状態が続いており、医師の指導のもとで通院と薬物治療を開始。

家族と過ごす時間に癒やしを感じつつも、どこか説明しづらい“違和感”に敏感になりつつある。


■ 村瀬 麻里むらせ・まり

圭吾の妻。30代後半の専業主婦。

穏やかで落ち着いた物腰を持つ理知的な女性。

夫・圭吾の体調や精神面の変化にも真摯に向き合い、必要なときには医療機関の受診を勧めるなど、家庭の安定を守ろうとする姿が印象的。

日々の生活の中にさりげない優しさと芯の強さを滲ませ、家族の中心として振る舞う存在。


■ 村瀬 むらせ・あおい

圭吾と麻里の一人息子。中学1年生。

落ち着いた性格で、勉強にも熱心。普段は口数が少ないが、ふとした言動に知的さや大人びた雰囲気を漂わせる。

父との関係性においては、思春期特有の距離感を保ちつつも、時折見せる素直な一面が家族の温もりを思い出させる。

家族での会話にはやや冷静な目線を持つ一方、旅行などのイベントには年相応の楽しみを見せる少年。


■ 仲上 医師なかがみ・いし

SUMIKA総合病院・心療内科の主治医。

柔和な表情と穏やかな語り口で、患者に安心感を与えるベテラン医師。

圭吾の不安や症状に寄り添いながら、的確な指導と処方を行う。

特に薬の服用には慎重な姿勢を示しており、生活環境の変化に伴う服薬忘れなどには注意を促している。

その一方で、柔らかい言葉の裏にどこか硬質な芯を感じさせる人物でもある。


■ 代行駐在員(名前未登場)

SUMIKA本部から派遣された、圭吾の不在時に駐在業務を担う代行警察官。

40代後半ほどの落ち着いた男性で、親しみやすい雰囲気と礼儀正しい態度を併せ持つ。

旅立つ圭吾に向けて、あたたかい言葉をかけるなど人柄の良さがにじむ人物。


■ SUMIKAの人々(その他)

本作の舞台であるスマートシティ《SUMIKA》には、最先端の技術が導入された清潔で秩序だった環境が整えられている。

しかし一部の住人は感情の表出が希薄で、どこか“規律に沿いすぎたような”言動を見せることも。

圭吾はそうした日常の中で、言葉にできない違和感を少しずつ感じ取り始めている──。



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