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第10話『心療内科』

 心療内科の予約時間より少し早く、圭吾はSUMIKA総合病院の敷地内に足を踏み入れた。


 案内板に従って建物を進むと、心療内科のフロアはまるで洒落たカフェのような雰囲気を醸し出していた。白を基調とした壁に、木目調のインテリアが柔らかく調和している。天井から吊るされた間接照明が淡く空間を照らし、小さな音でクラシックのBGMが流れていた。おそらく、患者の気分を落ち着かせるための演出なのだろう。


 受付カウンターには白衣を着た女性スタッフが立っていた。彼女は圭吾の姿を確認すると、柔らかな笑みを浮かべて声をかけてきた。


「村瀬圭吾様ですね。本日はご予約ありがとうございます。少々お待ちいただけますか?」


「はい、よろしくお願いします」


 案内されたソファに腰を下ろす。クッションは想像以上に柔らかく、背中を包み込むようだった。無機質な病院のイメージとは程遠く、穏やかな空気が圭吾の肩から力を抜かせた。


 彼は鞄からタブレットを取り出し、SUMIKAのポータルサイトを開いた。地域のニュースや生活情報が並ぶ中で、「来週の断水予定」という見出しが目に留まった。


《来週火曜午前10時より、環境センターにおけるポンプ設備の定期点検に伴い、一部地域で最大2時間の断水が予定されています。対象区域:第二区および隣接エリア。》


「……断水か」


 声には出さず、圭吾は心の中でつぶやく。生活に大きな支障をきたすものではないが、こうした小さな情報からも、この街がいかに細かく管理されているかを思い知らされる。


 さらに記事を読み進めると、環境センターの管轄はSUMIKAの主な上水道系統に限られ、以前交通事故が起きた第三地区の住人が暮らす区画については、異なる供給系統から水が供給されていることが記載されていた。


「……あの区画だけ別系統?」


 圭吾は思わず眉をひそめた。初めて知る事実だった。ごく自然に同じ水源を使っているものと思っていたが、わざわざ分けられているというのは、やはり何らかの背景があるのだろうか。


 タブレットの画面を閉じてふと目を閉じると、昨日の夜の悪夢が脳裏に浮かんできた。あの血まみれの少女。責めるような声。見開かれた目。圭吾は小さく息を吸い込んだ。


 そういえば、と彼は思い出した。数か月前、健康診断でこの病院を訪れたとき、問診を担当した医師がこんなことを言っていた。


「もし悪夢が続いたり、強いストレスを感じるようでしたら、心療内科の受診も検討してみてくださいね。身体だけじゃなく、心の健康も大切ですから」


 その時は、そこまで深く受け止めてはいなかった。けれど今、この場所に自分がいる。それはたぶん、あの言葉が心のどこかに引っかかっていたからなのだろう。


 今日の目的は、あの悪夢の意味を探ること。そして、自分自身の中に渦巻く歪みと向き合うことだ。


 圭吾は軽く目を開け、名前が呼ばれるのを静かに待った。


 診察時間ちょうどになると、受付カウンターの女性がやわらかい声で呼びかけた。


「村瀬圭吾さま、お時間になりました。こちらへどうぞ」


 圭吾が立ち上がると、女性スタッフは受付の奥にある細い廊下を先導して歩き出した。廊下には明るすぎず落ち着いた照明が灯り、足元のカーペットが靴音を吸い取っていた。まるで騒がしい現実から切り離されたような静謐な空間だった。


 廊下の突き当たりには《カウンセリングルーム1》と記されたドアがあり、女性スタッフがノックをするとすぐに中から返事があり、ドアを開けた。


 室内にはすでに二人のカウンセラーが待っていた。


 一人は、以前の健康診断でフラッシュテストを担当した若い男性、佐藤。穏やかな表情に親しみのこもった目元が印象的だった。

 もう一人は初対面の女性カウンセラーで、整った顔立ちと知的な雰囲気を漂わせた凛とした印象の人物だった。だが、彼女の笑顔には温もりがあり、圭吾の緊張を和らげる力があった。


「こんにちは、村瀬さん。本日はお越しいただきありがとうございます」


 女性カウンセラーが柔らかく挨拶すると、佐藤も微笑みながら続けた。


「前回の健診のときにフラッシュテストを担当しましたね。佐藤です。今日はカウンセリングで、問診表のお手伝いさせていただきますね。気楽に、リラックスしてお話しください」


 圭吾は軽く会釈し、促されるままカウンセリングチェアに腰を下ろした。深く沈み込むその座り心地は、まるで心の重みまでも吸い込んでくれるようだった。


「まずは最近の睡眠の状態や気になることについて、少し教えていただけますか?」


 女性カウンセラーの優しい声に、圭吾は少しだけ視線を泳がせた後、息を吐いてから口を開いた。


「……最近、悪夢を見ることが多くて。あと……何というか、現実が曖昧になる瞬間があるんです。家庭でも……微妙な空気が続いていて、自分が壊れかけてるような気がして……」


 話しながら、圭吾は自分でも驚くほど言葉が重く口をついて出てくることに気づいた。心の奥に押し込めていた不安や苛立ち、後悔と焦燥。それらが止めどなく溢れ出し、圭吾の表情は徐々に沈みこんでいった。


 カウンセラーたちは決して口を挟まず、否定もせず、小さく頷きながらペンを走らせた。その静かな対応が、圭吾にはむしろ救いだった。


 一通りの問診が終わると、佐藤が「次に視覚刺激を使った簡単なテストを行いますね。前回と同じフラッシュテストです」と説明した。


 圭吾はモニターの前に案内され、椅子に深く座り直す。部屋の照明が少しだけ落とされ、静かにスライドショーが始まった。


 映し出されるのは、ごく普通の日常の光景。芝生の広がる公園、猫が丸くなるベンチ、夜の街角、老婦人が笑うカフェの窓際。どこか安心感のある風景ばかりだ。


 だが、スライドが切り替わる刹那。


 画面に一瞬、違和感のある影が挟まれた。


 白いワンピースを着た少女──。


 圭吾は瞬間、呼吸を止めた。


 ──夢に出てきた、あの少女だ。


 画面の中の少女は、確かに圭吾を見つめていた。笑っていた。けれど、その笑顔は冷たい。底知れぬ闇を孕んだ、無垢さと狂気が同居する表情だった。


 少女の腕には血のような赤い染みがあった。垂れた手が小刻みに揺れている。


「──お前がやったんだ」


 圭吾の意識に、その声が突き刺さる。


 声ではない。音ではなく、もっと深い意識の層に響く囁きだった。空気が凍りついたように冷たく感じ、全身に汗が噴き出した。


 気づけば次のスライドが流れていた。再び穏やかな日常の風景が戻ってきたのに、圭吾は動けなかった。


 背筋にじっとりと冷たい汗が流れ、手のひらは湿って滑っていた。震える指先を見下ろしながら、圭吾は自問する。


 ──今のは、現実か? それとも、幻覚か?


 深く息を吸い込み、圭吾はそっと目を閉じた。


 胸の奥で鳴り続ける、不穏な鼓動が静まることはなかった。


 フラッシュテストが終わり、照明が少し戻った薄暗い部屋の中。

 佐藤がモニターの脇で控えていたまま、柔らかな声で訊ねてきた。


「最後に一つだけ、質問してもいいですか?」


 圭吾はまだ背筋に冷たい汗が流れているのを感じながら、うなずいた。


「フラッシュの中で、何色が一番印象に残りましたか?」


 圭吾の脳裏には、さっき見えた“彼女”──白いワンピースに、血のように濃い真紅がこびりついた少女の姿が、今もなお焼き付いていた。


(……赤だ。あの、血の色だ)


 喉元まで出かけた言葉を、ぐっと飲み込む。

 そんな色を答えたら、余計な疑いを招くかもしれない──。


「……青、でした」


 言葉は自然に口をついて出た。

 嘘ではない。夢に出る夜空も、彼女の瞳も、どこか青みを帯びていた気がする。

 だが、本当に印象に残った色は、あの──赤だった。


「青ですね、分かりました」

 佐藤は特に表情を変えることもなく、メモを取った。

「では、次に先生の診察になりますので、ご案内しますね」


 佐藤に続いて廊下を進み、別室へと通される。

 診察室のドアには、金属製のプレートに《帝都大学医学部 精神科主任教授 仲上》と刻まれていた。


 ノックの後、案内された診察室には、温厚そうな中年の医師が待っていた。

 グレーのジャケットに淡い青のネクタイ。温和な笑顔の奥に、観察者の鋭さが潜む。


「村瀬さんですね。本日はお越しいただきありがとうございます」


 仲上と名乗ったその医師は、深くうなずくと問診表の紙を静かにめくった。


「カウンセラーからの記録には目を通しましたが、念のためお伺いします。先ほどのカウンセリングでは話しにくかったこと、あるいは、まだお話されていないことはありませんか?」


 柔らかい声ながら、逃げ場のない問いだった。


「ここではすべて、守秘義務の下で話されます。どんなことでも構いません。遠慮なく、あなたの心の中を救い出すようなつもりで、お話しくださいね」


 圭吾は思わず、診察室の静けさと向き合った。

 心の奥に沈んでいたものが、ゆっくりと浮かび上がってくるような感覚だった。


 村瀬圭吾は、カウンセリングルームの椅子に座ったまま、深く息を吐いた。壁際の観葉植物の葉が微かに揺れているのが目に入った。


 意を決して、彼は口を開いた。


「三か月前の、あのウサギ小屋の事件からです……」


 言葉が漏れるたび、胸の奥から何かが剥がれ落ちていくようだった。


 ウサギが惨殺された現場。その生々しい光景は、未だに脳裏から離れない。事件は解決せず、町では動物の変死が続いている。平穏な日常に、どこか異物のような不穏さが混じるようになった。


「普通に勤務してるだけのはずなのに……気が付けば、ずっとピリピリしてて。境界が、わからなくなってきてるんです」


 次に口を突いたのは、つい先日起きた交通事故のことだった。


 第三区の住人から向けられた罵声。警部補からの一方的な叱責。自分の意見も届かず、ただ命令に従うだけの存在であることに、圭吾は無力さと孤独を感じていた。


 家に帰っても、救いはなかった。


「麻里とは……もう長い間、夫婦の関係がないんです」


 言葉にするのも、どこか恥ずかしかった。

 だが、これは現実だった。求めていないわけではない。だが、いつからか自然とそういう関係は途切れた。自分は拒まれているのではないか、という感覚だけが残った。


「欲求不満というより、もう……自分が必要とされてないんじゃないかって」


 それは警察官としての不安よりも、もっと深く、圭吾を蝕んでいた。


 そして、幻聴、幻覚、自傷行為。


 白い服の少女が、夢に現れる。夜中に声が聞こえる。無意識のうちに、ボールペンで自分の太ももを突き刺していた夜もあった。


 さらに彼は、小さな声で告白した。


「……先日、碧を平手打ちしてしまったんです。幻聴で、彼が自分を笑ったように聞こえて。気づいたら……手を挙げていました」


 その瞬間の後悔と恐怖は、今でも彼の中に深く残っている。


「麻里にも止められました。……碧は、何も言ってなかったって」


 頭が混乱していた。自分の目と耳を信じられなかった。


 すべてを話し終えたあと、圭吾は俯いた。


 仲上医師は静かに頷き、柔らかくも芯のある声で語りかけた。


「……村瀬さん、だいぶ心が弱っておられますね。よくここまで正直にお話しくださいました」


 その言葉だけで、少しだけ肩の力が抜けた気がした。


「今、あなたの心と体はずいぶん乖離しています。精神的な負荷が限界を越えた結果として、幻覚や自傷といった形で表れているのです。まずは、しっかり眠ること。そして、心を休めることが何より重要です」


 仲上は処方箋を書きながら続けた。


「今後は月に二回、定期的に通院してください。今回は少し強めの精神安定剤を処方します。睡眠導入成分も含まれています」


「……わかりました」


「服用は、必ず水道水でお願いします」


 圭吾は思わず顔を上げた。


「水道水、ですか?」


「ええ。市販のミネラルウォーターだと、一部の成分が体内でうまく作用しない場合があるのです。これは薬の吸収率に関する相性の問題で、服薬指導上の注意点でもあります。水道水ならその点で問題ありません」


 淡々とした口調だったが、どこか圧のある言葉だった。


「……気をつけます」


 処方箋を手に取り、立ち上がろうとした圭吾に、仲上はもう一言付け加えた。


「最後にひとつだけ、アドバイスをさせてください」


 彼は少し笑みを浮かべながらも、目だけは真剣だった。


「“あなたは正しい”と思えるものを、ひとつだけ見つけてください。それが職務でも、家庭でも、趣味でもいい。“これは譲れない”という軸を持つこと。そうすれば、人は壊れずに済むこともあります」


 圭吾は小さく頷いた。

 そして、軽く頭を下げて部屋を出ていった。




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