第1話『スミカに住む』
抜けるような青空の下、小型ドローンがゆるやかに旋回していた。真っ白な機体が空の青を反射し、静かに風を切るプロペラはまるで呼吸をするようなリズムで回っている。
その機体に取り付けられたカメラレンズが、無機質に街を見下ろしていた。
視界に広がるのは、完璧に整備された街並み。道路は一直線にのび、住宅街は均整のとれたグリッド構造。芝生はミリ単位で刈り揃えられ、道端に落ち葉ひとつない。人の気配が薄く、生活音すら感じられないのに、どこか“管理された安心感”が漂っていた。
その整然とした街を、一台のパトカーが音もなく走っていた。車体には“S.C.P.D.”と刻まれたロゴ。新設されたスミカ警察局のシンボルだった。
「……あまりにも綺麗すぎて、不自然だな」
運転席に座る男、村瀬圭吾がフロントガラス越しに遠くの景色を眺めながら、吐息混じりに呟く。
「でも、すごくない? ゴミひとつ落ちてないなんて、東京じゃ考えられなかった」
助手席の妻、麻里が笑顔を向けた。だが、その口元にはわずかに緊張が走っていた。作られた笑顔。期待と不安がない交ぜになった、新生活への戸惑い。
後部座席では、中学一年生の息子・碧が窓の外をぼんやりと眺めていた。肘を窓枠に乗せ、頬杖をつきながら、うっすら開けた口元で小さく何かを呟くように動かしている。
「碧、車酔いしてないか?」
心配して声をかけると、碧は少しだけこちらに視線を移して、無表情のまま首を横に振った。
「大丈夫。……でも、水、変な味がした」
手にしていたこの街オリジナルの紙パックジュースを見つめる碧の目に、ふと不思議な光が宿った。その瞳は静かで、深く、まるで底知れない湖底を覗き込んだような、冷たくも淡い鈍色の光を帯びていた。
圭吾はバックミラー越しにじっと碧を見つめた。
一瞬、何かが“揺らいだ”気がしたが、それもすぐに消えた。
前方に巨大なアーチゲートが見えてきた。青と白の人工花で彩られ、「ようこそSUMIKAへ」と鮮やかに書かれた文字が、歓迎の意を示している。
その両脇に並ぶイラストには、歯を見せて笑う人物の顔。全員が同じ角度、同じ表情、同じ笑みを浮かべていた。
「気持ち悪いほど笑ってるな……」
誰にともなく圭吾が漏らすと、麻里が気まずそうに「そう?」とだけ返した。
車を停めた先にあるのは、新居兼職場となるスミカ第一駐在所。コンビニを思わせるガラス張りの外観で、外から内部が一望できた。無人のロビーに端末がずらりと並び、人の気配は皆無だった。
「これが……交番?」
麻里が戸惑い混じりに呟く。圭吾は黙って頷き、先に足を踏み入れた。
中はひんやりと冷たく、空調の音さえ聞こえない。鼻をくすぐる無臭の空気に、圭吾は居心地の悪さを覚える。
正面に設置された受付用の端末に手をかざすと、機械音声が優しく語りかけてきた。
「警察官 村瀬圭吾様。ようこそスミカへ。あなたの脳波と心拍数は正常です。水分補給はこまめに行いましょう。スミカの水は、あなたの健康を守ります。」
「……水が健康を守る、ね」
圭吾は呟くように繰り返し、近くのウォーターサーバーに視線を移した。そこには“スミカ純水”と書かれたラベルが丁寧に貼られていた。
そのとき、入口から顔を覗かせた碧が言った。
「お父さん、この建物、音がない」
その言葉に圭吾は思わず息を飲む。確かに、まったくの無音だった。生活のにおいがしない。誰かが作り上げた理想の風景に、彼らは今、足を踏み入れたのだった。
(本当に、ここでやっていけるのか……)
圭吾の胸に、小さな不安の波紋が、じんわりと広がり始めていた。
■
SUMIKAに越してきた初夜の出来事。
深夜二時過ぎ。SUMIKAの街は、昼間と変わらぬ整然さを保ちながらも、すべての照明が自動的に光度を下げ、まるで眠る都市のように静まり返っていた。
村瀬圭吾は、寝室のベッドの上で静かに目を開いた。寝返りを打ったわけでもなく、悪夢にうなされたわけでもない。ただ、確かに“音”が聞こえたのだ。
――ぽた、ぽた……
ゆっくりと水が落ちるような、間延びした一定の音。台所の蛇口だ。
閉め忘れただけかもしれない。
そう思いながらも、圭吾の背筋にはじんわりと汗が浮いていた。空調は適温、室内に誰かが動いた気配もない。ただ、水音だけが不自然なほどにくっきりと響いている。
静かに体を起こし、足音を殺して廊下を進む。台所のドアの隙間から、冷たい空気がわずかに漏れていた。
――ぽた、ぽた……
ゆっくりとドアを開ける。
蛇口は、ごく僅かに開いていた。圭吾は眉をひそめ、手を伸ばしてひねりを締める。水は止まった。
その瞬間だった。
背後に、濡れた足音。
ぞくり、と背筋を冷たいものが走る。
振り返る。
誰もいない。
――でも、床には、濡れた足跡が、ぽつり、ぽつりと廊下に向かって続いていた。
その夜、再び床についた圭吾の脳裏に、夢が侵入してきた。
白いタイルの部屋。床は水浸しになり、赤い液体が薄く混ざって波紋を描いている。
その中央に、少女が立っていた。
中学生ほどの年齢。乱れた制服、濡れた長髪、そして――胸元に大きく広がる血。
顔は見えない。
ただ、少女の唇だけが、ゆっくりと動いていた。
「……あなたが、やったんだよ」
その言葉と同時に、足元から赤黒い水が噴き出し、圭吾の全身を包み込んでいく。
圭吾は息をのむ間もなく、全身が冷たい泥水に沈んでいく感覚に襲われ――
目を覚ました。
胸元には冷たい汗。
部屋の中は、静寂。
しかし――また、あの音が。
ぽた、ぽた……。
蛇口は、確かに閉めたはずだった。
■
スマートシティ《SUMIKA》は、日本政府が主導する都市機能分散プロジェクトの一環として誕生した。東京一極集中による人口過密、交通混雑、災害リスクの高まりといった都市問題を解決するため、都心の機能を地方に移転させることを目的として設計されたのだ。
この実験都市には、日本を代表する複数の大手企業が参画しており、建設・通信・医療・物流・AI・エネルギーといったあらゆる分野の最先端技術が投入されている。
SUMIKAは全国に3か所が建設されており、いずれも過疎地域に位置している。だがその姿は「過疎」とは程遠い。人工的に整えられた街並み、無機質なまでに整備されたインフラ、そして徹底された自動化と管理体制によって、未来都市の雛形とも呼ばれるべき存在となっている。
住民の大半は、国家および企業によって選抜された特定の人々であり、エッセンシャルワーカー(医療、保育、警察、消防など)以外の大多数は完全在宅ワークに従事している。通勤地獄もなければ、職場内の煩わしい人間関係も存在しない。この理想的な環境に、多くの人々が羨望のまなざしを向けている。
だが、そんなSUMIKAの住人に“どうすればなれるのか”という問いに対する明確な答えはない。選抜方法は一般には公開されておらず、選ばれた者たちはあたかも自然に、ある日突然“移住の通知”を受け取るという。
街にはスーパーやコンビニといった有人の商業施設は存在せず、すべてが無人店舗として運営されている。交通インフラにおいても、人の手は排除されている。バスやタクシーはすべて自動運転化され、AIによる管理と最適ルート調整が行われている。
また、SUMIKAの住民の一部、特に40代以上の層の中には、かつて限界集落に暮らしていた高齢移転者たちも含まれている。彼らは地域活性化および農業再生支援の名目で特別枠として招かれ、SUMIKA内に用意された専用の農地エリアに居住している。
これらの移住者たちは、最新鋭の農機具や環境制御システムを付与され、少人数でも効率的に作業ができるよう配慮されている。都市部とは異なる「半自給型居住モデル」の実験対象として、食料生産と技術革新の融合を象徴する存在となっているのだ。
この街の理想は、「誰にも負担をかけず、誰にも感情を波立たせない、完全制御された安心」。
しかし、その整いすぎた“理想”の裏側には、誰も知らない別の目的が存在している――