表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

庇を貸して恋人を寝取られた私の話

作者: 深山恐竜

 「庇を貸して母屋を取られる」ということわざがある。いまの私がまさにそれだろう。下宿人と恋人が深い仲になり、自分名義の家を飛び出す羽目になったのだから――。



 文京区にある5LDKの一戸建ては祖父が建て、父が亡くなったときに私が相続したものだ。

 その家は薄抹茶色の外壁をもち、小豆のような色の木枠に年代を感じさせる厚いガラスの窓があって、大正ロマンの残り香を感じさせる。


 相続したとき、私は大学を出て2年目の24歳だった。私には母もなく、兄弟も、頼れる親類もいない。

 そんな私に、実家をどうするかという難題がのしかかって来たのだ。


 私が相続した家から職場は通える範囲ではあるが、固定資産税のことや手入れ、必要になるもろもろの手続きのことを考えると、なかなかそこに住む決心がつかなかった。


 とはいえ、祖父のこだわりが詰まり、父の息遣いが聞こえてくるようなこの家を売り払う気にもなれない。

 家は築60年になろうとしているが、立地は悪くないし、日曜大工が趣味だった父が手入れをしていたこともあり、水回りのリフォームだけで快適に暮らすことができそうだった。

 家を見れば見るほど、手放すことはできそうになかった。

 ――完全に、私はその家をもてあましてしまっていた。


 その話を恋人である勝にすると、彼は「俺等がそこで暮せばいいじゃん」と言った。

 このとき、私と勝は同棲して2年目で、私が借りた新宿の2DKのアパートに勝が転がり込んでくる形で同棲していた。

「ふたりで暮らすには広すぎないか? 5LDKだぞ?」と私が言うと、勝は快活に笑った。

「大は小を兼ねるって。それに、泰の大事な家なんだ。人に貸すより自分で管理したほうが安心だろ?」

 その言葉で私は引っ越しを決めた。


 こうして私達の新しい住まいとなった文京区は夏目漱石の小説『こころ』の舞台になった場所でもある。

 ――小説『こころ』では、「先生」と呼ばれる人物とその友人Kが文京区の母娘の家に下宿をして、「先生」とKが下宿先の娘さんに恋をする。3人は三角関係の末、「先生」と娘さんが結婚する――。

 そんな話の舞台になるくらいだからだろうか、文京区には学生が多く、下宿として部屋を貸し出している家もたくさんあった。


 私達はすっかりその街の雰囲気に呑まれ、引っ越してから一年後、余っている部屋を下宿として貸し出すことにした。





 仲介会社から紹介されたのは高校3年生の男の子だった。三崎純一と名乗った彼は大学進学のために部屋を探しているという。

 よく陽に焼けた頬に、どこかやぼったい前髪。眉と口をぎゅっと寄せている。

 仲介会社の社員に付き添われて家にやってきたその子はひどく緊張しているようだった。


 私は彼に声をかけた。

「地元はどこ?」

「奈良県です」

「へぇ、奈良から。東大寺とか、昔修学旅行で行ったことあるよ」

 私がそう言うと、純一はくしゃっと笑った。まだ高校生、といった雰囲気の、若い笑顔だ。

「いいところです。……いまは離れるのがちょっと寂しいです」

 彼のこの素朴な言葉を聞いて、私達は彼を下宿人として受け入れることを決めた。

 彼は私と勝が恋人同士であるということにも理解を示してくれた。


 基本的な家事は私と勝が交代で行い、純一は貸し出した六畳の部屋の掃除をするという簡略的なルールだけで始まった暮らしだったが、思いのほか、その生活は快適だった。

 純一は働いている私達の手が回らない家事を手伝ってくれた。また、純一が熱心に勉強する姿を見て、私と勝も負けてはいられないと挫折していた資格勉強を再開させた。

 何もかも順調だった。

 私はすっかり浮かれていた。


 1年後の冬、私はそれがまやかしであったことを知る。

「あれ」

 体調を崩して会社を早退した日のことである。平日の昼間だというのに、玄関に勝と純一の靴が並んでいた。

 急に心臓が跳ねた。

 第六感というのか、私は私ではない何かに恐ろしいことを告げられた気になった。

 そんな訳はない、と首をふって、しかし声は出さないまま、静かに廊下を歩きだした。


 見てはだめだ、やめておけ、と警告する自分もいた。脳内では今までの生活の幸せだった瞬間が浮かんでは消えた。


 ふたりがいたのは私と勝の寝室だった。

 私は馬鹿みたいにドアの前に突っ立って、ふたりの睦みあう声と軋むベッドの音を聞いた。


 ――私はそのまま家を飛び出した。


 駆け込んだカプセルホテルのテーブルに夏目漱石の史跡巡り案内が置いてあった。

 私は笑った。

 何もかもあの小説通りだ。――下宿人が、三角関係を経て結婚する。

 まさか自分が捨てられる側になるとは思いもよらなかったが。


 私は泣いた。

 人生でこれ以上ないほど泣いた。

 私は勝のことをちゃんと愛していたし、純一のことも家族だと思っていた。

 私達の関係は決して世間一般で言うところの「夫婦」や「兄弟」などという言葉で形容されるような関係ではない。

 しかし、積み重ねた内容は家族だった。

 それが崩れ去った。


 私は世界でひとりぼっちになったのだ。





 そこからの戦いは昼間に放送しているドラマのような色香のあるものではなかった。

 私と勝が男女であったのならもっと別の戦いがあったのかもしれないが、私達は男同士で、さらに言えば純一も男である。

 私がふたりに請求できたのは家の明け渡しだけだった。


 その家の明け渡しも、実現するのに3年かかった。

 日本の法律では居住権を保護していることもあり、立ち退きは一筋縄ではいかない。結局、彼らは彼らにあの家が必要なくなるまで、つまり純一が大学を卒業するまでそこに住み続けた。


 3年ぶりに帰ることができた我が家はすっかり様変わりしていた。

 追い出された腹いせだろうか、廊下にペンキの缶が転がり、壁にそれが塗りたくられていたのだ。

 それだけではない。祖父のこだわりの漆喰の壁は穴があき、父が日曜大工で作った天井まである本棚は持ち去られていた。


 私はその場にへたり込んだ。

 私の大事な家。それまでも壊れてしまった。

 その日はもう何もする気がおきず、漆喰の壁の穴の前に猫のように丸まって寝た。

 もうすっかり疲れ果てて、涙も出なかった。





 私が家に戻った翌朝、スマホが鳴った。

 画面には「不動産屋」と登録名が表示されている。私は社会人として染み付いた習性でその電話をとった。


「はい」

「あ! お世話になります~。木曾不動産です」

「木曾不動産……」


 名前を聞いて、ようやくこの番号が下宿人を探すときに登録した仲介会社のものであると思い出した。

 ――純一を紹介した会社だ。

 私は胸を抑えた。


 そんなこちらの苦い感情など知る由もなく、電話の向こうで男が軽快に話し出す。

「以前ご紹介させていただきました男子学生さん、そろそろ卒業ですよね? 次の下宿人のご紹介が必要かと思いましてお電話しました」

「……あの、申し訳ないですが……」

 結構です、と言おうとする私を遮って、男は続ける。

「本当にぴったりの学生さんがいらっしゃいまして。建築専攻の学生さんで、そちらのお家の写真を見せましたら、ぜひ、と」

「いや、でも」

 私が何かを答える前に、向こうからごとごとと音がして、それから威勢のいい声が聞こえた。


「はじめまして! 羽場尚樹といいます! お願いします! すごくいい家で! 僕! どうしても生で見たいです! 見学だけでもお願いできませんか!!」


 不動産屋から受話器を奪ったらしい青年は私の家の素晴らしさを語りだす。

 その若くて眩しい熱にあてられて、私は見せるだけ、と言い含めて見学を了承してしまったのだった。





 羽場尚樹という学生がやって来るまでに家を片付けるつもりだったが、やはりどうしてもその気になれなかった。

 同行してくるであろう不動産屋に家の売却を相談するのもいいかもしれないと思った。

 思い入れのある家だが、今となっては嫌な記憶まで染み付いてしまった。いまとなっては、すべて忘れ、新しいまっさらな住まいを見つけるべきかもしれない。


 そうして荒れたままの家に羽場尚樹と不動産屋を招いた。

 家を見て、不動産屋はさっと顔を曇らせた。それもそうだろう。明らかに家を壊そうという悪意のある傷だらけなのだ。

 昼間だというのに、室内は暗い。照明は壊れ、いくつかは持ち去られた。空気までも淀んでしまって、それ家全体を包んでいるようだった。


 そのような惨状を見ても、羽場尚樹は怯まなかった。

 彼は居間にある太い柱を撫で、それから天井の梁を眺めて、自信たっぷりにこう言った。

「僕、直しますよ」

「え?」

「僕の父は大工なんです。子どもの頃から手伝っていますし、たぶん、できます」

「いや、でも」

 彼はまっすぐ私を見据えた。

「下宿させてください」

 若者の目に、私はたじろぐ。

「こんな汚いところじゃあ勉強もできないだろう」

「僕、お金ありません」

「え?」

「家を直すので格安で下宿させてください!」

 彼は勢いよく頭を下げた。


 あまりのストレートな物言いに、私はぽかんと口を開ける。

 不動産屋が言い添える。

「予算が月に1万円だそうで……」

「東京でその予算⁉」

 思わず私は素っ頓狂な声をあげる。

 羽場尚樹は頭を下げたまま、私に向かって叫ぶ。

「その分働きます!」

 私はひるむ。

 新手の詐欺なんじゃないかとも思えた。

 そうでなかったとしても、いまは人を家に入れるのが怖い。

 しかし、そのとき、目の端に羽場尚樹のボロボロの靴が映った。

それで、気がついたら頷いていた。

「あ、う、そう、か。……わかった」

「やったあああ!」

 こうして私は再び下宿人と暮らし始めた。





 尚樹は宣言通りよく働いた。

 家事に、家の修繕に、庭の手入れ。彼はなんでもこなした。

 彼の手で、家は少しずつ元の姿を取り戻していく。家が修繕されるにつれて、荒んでいた私の生活もまともな人間らしさを取り戻していった。

 尚樹がやって来るまで、私は壁の穴を眺めながら酒を浴びるように飲み、そのまま床で寝る生活を送っていた。純一と勝が営んでいた寝室のベッドを使う気になれなかった。気ままな一人暮らしは私を孤独にし、堕落させた。


 しかし、その穴は尚樹の手でふさがれた。

 さらに尚樹は木材から新しいベッドを作ってくれた。彼は私が居間で寝るのが好きだと勘違いしたらしく、新しいベッドは居間に置かれた。


 私は毎晩そこで寝た。

 寝る前に日に日にきれいになる家を見るのが日課になった。

 私と尚樹の間に会話はそれほど多くうまれなかった。しかし、整えられた家は私に多くを語ってくれた。





 ある日、尚樹は居間の真ん中にある大きな柱を叩いてこう言った。

「この柱はいい木です。そう簡単に折れない。この家を荒らしていった奴は、この柱に負けたんだ」

 柱に負けた。その表現に思わず私は吹き出した。

「そんなに強い柱なんだ」

「ええ。強いです。こんな柱に支えられたこの家はもっと強いですよ」

「……なるほど」

 祖父が建て、父が守った家。そして私が愛した家。


 ――ああ、そうか。


 あんなくだらないふたりに負けるわけがない。

「あと百年でも保ちますよ、この家は」

「……ありがとう」

 この家にふりかかった災難について、尚樹に説明をしたわけではなかった。しかし、尚樹は私がこの家を破壊した当人ではないこと、むしろ愛していることをよく理解してくれた。

 私はそれがうれしかった。





 日々に彩りが戻った。空は青く、庭木は深い緑だ。家の中には清廉な風が吹き込んだ。

 私は胸いっぱいにその空気を吸い込んだ。

 ふたり暮らしのはじまりは春だったが、季節は暑い夏を経て、秋になっていた。

 空に広がる薄い雲を見て、私はいつになく元気になった。

 そろそろ家の外壁塗装を直す時期だ。いまの薄抹茶色の壁色もいいが、いっそ真っ白にしてみてもいいかもしれない。

 もう一度そこからやり直すのだ。


「あれ、泰さん、今日仕事は?」

 居間でパジャマのままうろうろしている私に、支度を済ませた尚樹が尋ねてきた。

 私はノートパソコンを開きながら「休み」と答える。

 今日、私はインターネットで業者に外壁塗装の見積もりを依頼するつもりだった。


 尚樹は私の手元を覗き込むと「え!」と声をあげた。

「なに?」

「外壁も僕が塗りますよ」

 こともなげに言う若者に、私はあきれた。

「さすがに、足場を組むのは大変だろう。大学もあるのに」

「ええ、でも」

「いいから、いいから。私にもこの家のために何かさせてくれよ」

 そう言うと彼はしぶしぶ頷き、そして塗るときは絶対に立ち会うと主張した。


 私は彼の愛に苦笑した。――笑うことができた。

「尚樹が業者さんにひどいクレームをつけないように私も立ち会わないと」と私は言った。

尚樹は「クレームをつける前に道具をうばって僕が塗ります」と答えた。


この家の居間でまた冗談を言い合えていることが奇跡のようだった。私は尚樹の頭をなでた。

「なんですか?」

「いやあ、かわいいな、と思って」

「なんですか、それ」

 ごまかして笑う私に、尚樹は尋ねた。

「何色に塗るんですか?」

「そうだな、――白、がいいかな」

「白なら、こまめな手入れが必要です。僕に任せてくれたら、一年おきにやりますよ。いまなら永年無料です」

「そうやって家賃を浮かせようとして」

 私はまた笑った。ここのところ、尚輝は卒業後もこの家に残りたいという気持ちをこぼしはじめていた。


 心が回復してきた今、私はようやくまわりの人間の心の機微が見えるようになってきていた。

 尚輝が時折出す熱のこもった視線の意味をわからないほど私は子供ではない。

 だが、それに向き合えるほど回復しているわけではないらしい。

 私は若者の言葉を冗談として流した。


 その日の昼過ぎ、ふいに家のチャイムが鳴った。

 古いこの家には玄関カメラがない。それで、引き戸を開けるまで戸の向こうに立っているのが人物が誰であるか気が付かなかった。


「あ……」

 その人物の姿を見て、私は言葉を失い、全身石のように硬直した。

「久しぶり」

 勝は恋人時代と何ら変わらない笑顔を浮かべて「ただいま……」と言った。


 その聞き馴染んだ声と、言葉に、私は急に三年前に引き戻された。それは私がまだ幸せだった頃だ。あの頃も勝の方が帰りが遅く、平日は毎晩彼のこの言葉を聞いていた。

 彼が帰って来ると私は玄関まで迎えに出て「おかえり」と声をかけるのだ。


 ――しかし、今その言葉は喉につかえて出てこない。


 私達は時間がとまったかのように玄関で見つめ合った。

 先に口を開いたのは勝だった。

「元気だったか?」

「……うん」

 思えば勝と面と向かって会うのは、あの不貞の発覚以来初めてである。

 私はすぐに家を飛び出したし、彼らも私と会おうとはしなかった。

 何かを言ってやろうと、言わねばならぬと思ったが、どう頑張ってもそれらが声になることはなかった。


「その、泰のこと、心配になってさ」

 黙ったままの私に向かって、勝は続ける。

「帰ってきたよ」

 最初、私は彼が何を言っているのかわからなかった。

 しかし、彼のうしろに大きなスーツケースがあるのを見て、彼の言葉の意味をようやく理解した。


 瞬間、全身の毛が逆立つのを感じた。感じたことのない感情が頭に渦巻く。

 目の前が赤くぼやけて、体は熱くて、頭だけ妙に冴えていた。

「帰れ!」

 音を立てて戸を閉めて、鍵をかけた。

 すりガラス一枚を隔てて、勝の影が玄関の土間に落ちる。

「ごめん」

 勝の謝罪の言葉は短く、簡素だった。


 私は息をするのも苦しかった。嫌な汗がつっと背中を流れ落ちた。

 どれほどの時間、私達はすりガラス越しに立ちすくんでいたのだろうか。

 長くもあり、短くも感じた。

「また来るよ」

 そう言い残して、勝は去っていった。

 人影が消えたあと、私はずるずるとその場に座り込み、大きく息を吐いた。





 勝との出会いは大学の時だった。

 私は都内の大学にすべて落ち、滑り止めとして受けた地方の大学に進学した。そこで友だち欲しさにテニスサークルに入った。そして勝と出逢ったのだ。

 勝は大学の近くに実家があり、右も左もわからない私に街を案内してくれた。

 私達はすぐに意気投合し、あっという間に秘密の恋人になった。

「大学卒業したら東京に行こう」

 私達は何度もそう約束した。東京なら、私達のことを何も知らない人混みの中なら、堂々と手を繋いで歩ける。

 ふたりとも、閉鎖的な地方にうんざりしていた。


 そうして大学卒業時、ふたりとも約束通り東京に就職を決めた。

 次は私が東京を案内した。私達はそうしてずっと支え合って生きてきたのだ。

 この築いてきた日々の記憶が、彼に対して、愛情というか、情というか、怒りというか、憎しみというか、とにかく形容しがたい感情を抱かせていた。





 私はそのままベッドに潜り込んだ。どっと疲れが込み上げて、もう立っているのも億劫だった。


 夕方になると尚輝が帰ってきた。

「あれ? もう寝ています?」

 消灯した居間のベッドに横たわる私を見たのだろう尚輝の動きが慎重になるのがわかった。

 彼は抜き足差し足で冷蔵庫を開け、コップ一杯の水を飲むとそのまま彼の部屋へと入っていった。

 その気遣った静かな足音が、ようやく私の張りつめていた緊張の糸を切った。


 私はひとりぼっちではない。尚樹の部屋から聞こえるかすかな物音は私を絶望の淵から救い出した。

 私はようやく眠りにつくことができた。


 翌朝、私が朝食を作っていると尚輝が起きてきて私の顔を覗き込んだ。

「泰さん、疲れてます?」

「そう見える?」

「はい」

 私は首を傾げた。いつもより長く寝られたので疲れているという感覚はなかったからだ。

 もし疲れて見えるとしたら、それは間違いなく心の方の問題だ。しかし。

「寝すぎたかな」

 私はそう言って適当に会話を切り上げた。


 昨日の来訪者について尚輝に話すつもりはなかった。私は彼が訊いてこないのをいいことに、この家が荒れるに至った経緯を説明していなかったのだ。

 私達は手早く朝食を済ませて各々の1日をスタートさせた。





 翌日、私がいつも通りの時間に帰宅すると、玄関に靴が2組並んでいた。

 1組は見慣れた、例のボロボロの尚輝の靴だ。そしてもう1組は知らない革靴だった。


 心臓が跳ねた。この状況を、この場所で見たことがあった。

 私は知らず、そろりと中に入る。

 居間の扉に手をかけたとき、会話が聞こえてきた。


「へぇ、尚輝くんは建築を勉強しているんだね。大学は楽しい?」

「楽しいっすよ。」

 その声に聞き覚えがあって、私は大きな音を立てて扉を開けた。

「勝⁉」

 そこには尚輝と、その向かいに座る勝がいた。

「ここで何を⁉」

 私の剣幕に、尚輝が慌てて立ち上がった。

「泰さん、あの、この人、泰さんの知り合いだって聞いて……僕が帰ってきたらもう中にいて」

「今すぐ出てけ。不法侵入だ。警察を呼ぶぞ」

「不法侵入じゃない。ちゃんとお前に貰った鍵で入ったんだ」

 勝の手には鍵があった。それに昔ふたりでお揃いで買ったキーホルダーがつけられているのを見て、私はかっと頭に血がのぼるのを感じた。

「ふざけるな!」

 叫んだ瞬間、くらりと立ちくらみ、テーブルに手をついた。

「あの、泰さん」

「大丈夫か?」

 尚輝と勝が同時に私に向かって手を伸ばす。私は尚輝の手を取り、顔を覆った。

 尚輝は私の背に手を当て、勝に向き直った。

「帰ってください」

 凄まれて、勝は引き下がった。

「……わかったよ。」


 彼は立ち上がって数歩歩いた後、振り向いた。

「また、下宿人を迎えたんだな。まぁ、お前のことを信じているけど、間違いは起さないようにな」

 言い残して、勝は居間から出た。

 私は怒りに任せて、持っていた仕事用の鞄を投げつけた。それはちょうど閉められた居間の扉に当たり、年季の入った扉の採光窓が音を立てて割れてしまった。


 私は居間にあるベッドに座った。黙ったままでいると、尚輝がおずおずと動きだして、散らばったガラスを片付けはじめた。私はそんな彼をただ眺めた。

 尚輝は勝のことについて無関係だ。しかし、ここまで家の世話をしてくれる彼には、もう話さなくてはいけないと思った。


 私はぽつりぽつりとこの家で起きた出来事を打ち明けた。

 恋人の不貞、下宿人の裏切り、家の占領、そして――破壊。

 話すことは私にとっても辛かった。独り言のように始まったその話を、尚輝はじっと聞いていた。


「許せない!」

 すべての話が終わったあと、尚輝は憤慨した。

「すぐに鍵を変えましょう! あと警察にも連絡しないと!」

 尚輝は食卓の上の塩の小瓶をとると、玄関に駆け出した。

「お清めだ! 二度とくるな!」

 玄関からそんな声と、塩を撒く音が居間まで響いてきた。


 私は思わず笑ってしまった。怒りを怒りとして、人のために表現できる彼が眩しかった。

 戻ってきた彼はそんな私を見咎めて責めた。

「何笑ってるんですか! 一大事ですよ!」

 私はどうどう、と両手を挙げて彼を落ち着かせる。これではどっちが被害者なのかわかったものではない。しかし。


「いや、ありがたいな、と思って」

 私のために腹を立ててくれる存在があることが、どれほどの救いになるか。

 私は鼻の頭を掻いた。

 どん底にいた三年間と、今。尚輝の存在は私に光を与えたのは間違いない。

「次に来たら、漆喰に埋めます!」

 胸を張って宣言する彼に、私は破顔した。





 その夜、ひとまず侵入者を拒むべく玄関につっかえ棒をして、さらに万が一に備えてふたりは居間で寝ることになった。

 ベットに私、ソファに尚輝が横になって、中学生の修学旅行の夜のようにとりとめもない話をした。


 昼間に私が個人的な話を打ち明けたからだろうか、尚輝も自分のことをたくさん話してくれた。

 代々続く大工の家系であること、子供の頃に釘を飲み込んでしまって救急車で運ばれたこと、父を真似て屋根に登って降りられなくなったこと。


 私はその話を聞きながら、ずっと疑問だったことを尋ねた。

「失礼かもしれないけど、気を悪くしないでくれよ。お父さんは腕のいい大工さんみたいなのに、どうしてそんなにお金がないんだ?」

 尚輝の下宿代の予算は1万円で、それは東京の相場を知らないから、というわけではなかった。

 彼には本当にお金がないのだ。彼が稼いだアルバイト代はほとんど学費に消えている。ボロボロの靴に、使い古した鞄。

 彼は実家からの仕送りなどなく、まさに苦学生である。


 尚輝は笑う。

「泰さん、大工の掘っ建てって言葉を知っています?」

「大工の掘っ建て?」

「ええ、人のためにいい家を作るのに夢中で、自分は粗末な家に住むって意味です」

「ああ、なるほど」

 私は会ったこともない彼の父をよく理解した。つまるところ、サービス精神旺盛で、お金のことは二の次にしてしまう昔ながらの職人なのだろう。


「尚輝はお父さんに似たわけだね」

「そうかもしれないですけど、そうじゃないかもしれませんよ。僕はこの立派な家に住めているので」

 立派な家、という言葉が脳に響いた。春には廃屋寸前だったこの家が、その言葉に遜色ない風格を取り戻している。


「立派な家になったのは尚輝のおかげだ」

 私が言うと、尚輝はおもむろに起き上がった。そして私と目をあわせた。彼の真剣な目に、私は言葉が出なくなる。

「……僕、ここにずっと住みたいです。いや、ここじゃなくてもいいんですけど……」

「ええ?」

「泰さんといっしょに住みたいです。どこでも、どんな家だっていいです」

 私はつばを飲んだ。若い尚輝の目が熱を孕んでいる。こんな目を向けられるのが久しぶりすぎて、どう反応をしたらいいのかわからない。


 はじめてその体験をしたときのようにシーツをぎゅっとにぎりしめた。

 修繕された家は静かに私達ふたりを見守っている。

 私が何も答えないことにしびれを切らして、尚輝が口を開く。

「……僕、今から弱っている泰さんにつけこみますね……嫌だったら蹴落としてください」

 彼が私のベッドに手をつく。

 ベッドがぎし、と音を立てた。






 翌日は大忙しだった。尚輝は大学を休んで家の鍵を取り替えようとしたが、古い引き戸はドアごと切り替える必要があり大掛かりな作業になりそうでひとまず断念することになった。

 そのまま警察へ相談に行くと、実害が出ていないから話し合ってなんとかしろとあしらわれた。

 男同士だから取り合ってもらえないのかとも思ったが、昨今のニュースを見ていると警察とはそういうものなのかもしれない。


 どうしようもなくなった私は共通の友人に連絡をして勝のことを尋ねた。

 友人たちによると、勝と純一はすでに破局していて、勝は正社員を辞めてフリーターをしているのだという。

「生活がかなりキツイみたいだな。5万円貸してくれってうちに来たことあったよ。純一くんってけっこう激情型らしいじゃん? なんか、東京来てすぐのころは純朴だったのに、いまではどこ行っても問題を起こすトラブルメーカーで有名だよ。勝が純一くんのトラブルの謝罪に回って、壊したものの賠償であっちこっちから借金もしたらしいぞ」

 電話の向こうで、友人はそう言った。


 勝の窮状を聞いて、私は胸の内が暗くなった。純一のその後についてはわからなかった。

 ひと通り情報を整理すると、私は居間のベッドに倒れ込んだ。久々の行為によって腰がだるかった。

 反対に、いつもより元気な尚輝は午後から大学に行くと言って自室で準備をしている。

 目まぐるしい二日間を振り返る。勝が現れて、尚輝と結ばれて、警察に行って、勝との破局以来疎遠になっていた友人に連絡をして……。


 知らず、まぶたが落ちる。しかし、視界の隅に見知らぬものを捉えて意識が覚醒した。

「あれ?」

 四角柱状のそれは、黒くて、表面がツヤツヤしていて、そして車輪がついている。――スーツケースだ。

 私は起き上がると、尚輝の部屋へ向かった。

 ドアをノックすると、すぐに尚輝が出てきた。

「どうしました?」

「尚輝、ちょっといい? スーツケース、居間に出したままにしている?」

「ええ? スーツケース? 僕持っていません」

「え? じゃあ、一体誰の……」

 ここまで言って持ち主の心当たりがあることを思い出した。

「勝……」

 私と尚輝は顔を見合わせた。





 そのスーツケースはおそらく昨日、勝が持ってきて、故意なのかうっかりなのか、とにかく忘れていったものだろうと結論付けられた。

 この遺物をどうするか、私達の意見は割れた。

 尚輝は「ガソリンで燃やしましょうか?」と物騒なことを言って、それから「警察に落とし物として届けましょう」と現実的な意見を言った。


 私は少し悩んでから、その意見に反対した。

「その、私、勝に連絡してみようかと思っているんだよね……」

「はあ⁉」

「いや、ほら、鍵を返して貰わないと! 玄関の扉を変えるのは嫌なんだ。それに、勝はいまフリーターだって聞いて、スーツケースをなくして困っているかもそれないし……」

 慌ててそれらしいことを付け足すが、尚輝は誤魔化されない。

「同情したんですか?」

「同情というか……」


 ――ああ、若者の目はなぜこうも真っ直ぐなのだろう。


 私は腹をくくって正直な気持ちを吐露した。

「すっきりしたいんだ。以前は怖くて訊けなかったことを彼に訊きたい。――私のために」

この行為が、尚輝にとって不快なものであることは理解している。それでも、私のために必要なことだった。

 私は眉尻を下げた。

「ごめん。あと、勝に訊いたあと、もしかしたら、ものすごいダメージをくらって情けない姿を見せることになるかも……それも、ごめん……あらかじめ、あやまっておくよ……」

 予想よりもずっとずっと情けない声が出た。私は肩を落とす。このところ、情けない姿を見せっぱなしだ。


 尚樹はしばらく考え込んだあと、両手をがばりと開いて私を抱きしめた。

 そして耳元で「こんなことを言うのもなんですけど」と前置きしてから尚輝は話し出した。

「僕と住み始めたときの泰さんはお風呂にも入らないしご飯も食べないし、放っといたら壁見つめて死にそうな顔していましたよ? ……その姿見ても、僕は情けないとか、嫌だとか思いませんでした。見くびらないでください」

「な、なっ! 風呂は入っていたぞ!」

「えー? そうでしたっけ?」

 いつになく意地悪だ。でも、理解をしてくれたらしい。彼は「頑張って」と小さく私を励ましてくれた。





 私は何度かためらったあと、ついにスマホの画面をタップした。

 無機質な呼び出し音が鳴り始める。

 繋がらなかったらいい、と頭の何処かで思う。しかし、すぐに電話の向こうから懐かしい声がした。

「泰?」

 呼吸が止まる。

 ふたりが出会った頃、こうして毎晩電話をしていたものだ。

 その記憶が一気に脳内を駆け巡る。幸せだったふたり。しかし、その記憶の最後には純一の顔が浮かび上がるのだ。


 私は大きく息を吐く。感慨にふけるために電話をしたのではない。

「鍵を返してほしいんだ」

「……ああ、そのこと。直接なら返してもいいぞ。会えるだろ?」

「いいよ。お前、スーツケースを忘れていたぞ。それと鍵を交換だ。今日来てくれるか?」

「今日は無理だ。治験のバイト中なんだ」

「はあ?」

「この病院、スーツケースの持ち込みができなくてな。しばらく預かってくれ」

「え?しばらく? しばらくって? というか、いつからそのバイトをしているんだ?」

「今日から、3日後までだ」

「今日? お前、わざと……」

「悪いな、駅前のロッカー使ったら高くつくからさ」

「……ふざけているのか?」

「そうケチケチすんなよ。3日後、必ず取りに行くからさ」

「家には来るな」

 そう言って私は家の近くの喫茶店を指定した。

「わかった。連絡もらえて安心したよ。じゃあな」

 勝は楽しげな声で電話を切る。


 なぜか負けた気持ちになって、私はその場にしゃがみ込んだ。




 奇妙な同居が始まった。

 同居、と呼ぶのは少し違うかもしれないが、私と尚輝と、そしてもう一人別の存在を感じながらの生活だ。

 ただのスーツケースなのは頭ではわかっているが、そこからは靄が立ち込めて、勝の姿が見えるような気がしていた。

 出会ってからずっと、勝の存在はずっと私の中心にあった。

 恋人であったときも、離れてからも。


 愛しいとか、憎いとか、情などという気持ちではない。しかし、そんな陳腐な言葉でしか私の勝への気持ちを表す言葉がない。

 私の複雑な心境をよそに、尚輝は速攻でスーツケースを居間の端へ追いやった。

 淋しげなスーツケースがうらめしげに私を睨んだ。



 翌朝には手配していた外壁塗装が始まった。明日の夕方に終わるという。

 家の外に出て、遠巻きに色が変わっていく家を眺めていると、いろいろな変化に気がついた。

 周りの家も新しく建ったり、リフォームをしたり、家主が変わったり……。

 こうしてゆるやかに変わっていく。家も、街も、人も。

 変わるのは悪いことではない。


 その夜、私はアルバイトから戻ってきた尚輝に声をかけた。

「頼みがあるんだけど」

「なんです?」

「本棚の作り方を教えてくれる?」

「本棚、ですか?」

「そう。天井に届くくらいの、大きいやつ」


 父が作った、自慢の本棚だ。いまは壊されてなくなってしまったが、やはりこの家にはそれがないといけない。

 父が作った、そのままの本棚でなくていい。この家も私が主として変えていくのだ。

 尚輝は頷いた。

「それは骨が折れますね。いいですよ、いっしょに作りましょう」


 それから私と尚輝は本棚作りに夢中になった。

 私は人生ではじめて自分用のトンカチとノコギリを買った。

 図面を引き、材料を揃え、作業をはじめる。

 父のマネをして、タオルなんかを頭に巻いて、トントントントン。

 自分で選んだ工具で理想のものを作るのは楽しかった。


 3日というときはあっという間にすぎた。


 家の外壁は白く塗られ、本棚は樫の木の味を生かしたものを組み上げた。

 ものを作るという作業は私に充実感を与えた。

 そして、私の心に家への愛着を取り戻させた。

 これで、尚輝がはじめた家の蘇生は終了した。

 ――そして、私の蘇生も。

 3日目の夜、私はトンカチを持ちだして、いつの間にか玄関の隅にまで追いやられていたスーツケースと対面した。

「これで勘弁していてやるよ」

 そしてトンカチでスーツケースをぶん殴った。





「というわけだから、別れ話をしに来たよ」

「開口一番それかよ……」

 私は近所の喫茶店で勝と対面した。

 私は明るい表情で、勝は暗い表情だ。

「勝もわかるだろ? 私達は終わったんだよ」

 返事はない。しかし、伏せた彼のまつげが揺れた気がした。


 私は続ける。

「でも、なぜ? なんでこうなったんだ? 純一とのことも、家のことも」

 ずっとこの答えが知りたかった。なぜ私を裏切った? どうして私の大切なものを奪った?

「……すまなかったよ」

 勝はひねりだすようにして、その言葉をぽつりと落とした。

 長い付き合いであるため、わかった。

 これが、得られる答えの限界だ。

 理由などないのだ。

 彼は、彼らはそれをしたかったからしたのだ。その後どうなるかとか、私がどう思うかとか、そんなものは考えていなかったのだ。

 目眩にも似たものが私を包む。


 レトロな喫茶店に食器の当たる音がよく響く。

 ふと質問が口をついて出た。

「純一は元気にしているのか?」

 勝はため息をつく。そして哀れっぽく言う。

「別れたよ。今度はホストに入れあげてる。上京して、気が大きくなったのかもな……お前も、悪いことは言わないから、大学生に手を出すのはやめとけ」

「ご忠告、どうも」

 私は顔を引きつらせて、嫌味っぽく答えた。


 沈黙が落ちた。

 私たちのテーブルにコーヒーが二つ届けられた。ひとつはアイス、ひとつはホット。懐かしい。かつての私たちはよくこうして並んでコーヒーを飲んだ。


 また口を開いたのは私からだった。

「気づいていたか? 私達は、夏目漱石のこころの通りだよ」

「……俺はどうかしてた。この土地の、夏目漱石のそれにあてられて、調子に乗ってしまったんだ」

 勝は同情を引くように、わざとらしく、大げさに顔を覆う。

 私は目を閉じた。恋は盲目ということわざが脳裏に浮かんだ。

 恋が冷めたいま、両目を開けてじっくり勝を見ることができた。

 そして、なにもかも人のせい、土地のせいだと主張するこの男に最後に残った情のかけらが霧散したことを自覚した。


 こうして私のひとつの恋が終わった。私たちはそれ以上何も話さずに別れた。

 家に戻ると、私は磨かれた本棚を撫でた。そして元通りになった家と、回復した心を抱いて泣いた。これで、勝のせいで流す涙は最後だ。私は存分に、一滴も残さずに泣いた。





 翌日、本棚に夏目漱石の『こころ』を入れた。何となく、この本が必要だと思った。本棚を眺めて満足げな私を見て、尚輝が尋ねた。

「夏目漱石? 好きなんですか?」

「んー。そういう訳ではないけど……読んだことあるかい?」

「まあ、教科書で読んだ程度ですけど」

「似てないか?」

 私は噛みしめるように説明した。

「私と純一と勝の関係って、こころの私とKと娘さんに似ているんだ」

 尚輝は「え?」と首を傾けた。そして「それは変ですよ」と言った。


「変って?」

「似ているのは、僕と泰さんと勝さんの関係ですよ。だって家主は泰さんですよね? 家主に、居候のふたりが片思いするんですよね?」

「ああ、そうか」

 なるほど、そういう読み方もできる。私は何度も頷いた。

 それから、私はあの日彼に返せなかった言葉を、ようやく伝えることができた。

「尚輝、ずっとここにいていいよ。いてほしい」

 尚輝は破顔した。





*尚輝視点*


 僕は夏目漱石の『こころ』を手に取った。読んだのは高校生の時以来だった。なんだか小難しくてつまらない話だと思った記憶がある。

 ページをぱらぱらとめくると、記憶の通り、難しい漢字が並んでいて、とてもではないが読む気になれなかった。

 しかし、どうしてもその小説の結末が思い出せなかったので、ページをめくった。


「あれ?これ」

 悲しい三角関係の末、家の娘と結ばれなかった方の下宿人Kは、自ら命を断つ。

 「先生」はKの死に苦しみ、しかしそのことを妻に告げられず、結婚生活は幸せではなかった。

 僕は慌てて立ち上がった。


 あてがあったわけではなかった。ただ、見えない力に導かれるようにして、その男を見つけた。 

 男は家の側の橋の上に立っていた。側にはへこんだスーツケースがある。

 車が行き交うそこで、彼はじっと黙って流れる川を見つめていた。

「なにしてんの」

 僕が声をかけてもその男は振り向かない。


 彼はぐっと身を乗り出し、橋の下に手を伸ばして、ぽつりとつぶやいた。

「俺が死んだら、泰はきっと泣いてくれる。そして、一生覚えていてくれる」

 頭にかっと血がのぼった。

「ふざけるな!」僕は叫んだ。

「このゴミムシ野郎! シロアリ以下のくせに、まだ泰さんを傷つけたいのか!」

 僕は男の襟首をつかまえるとそのまま欄干から剥がし、アスファルトの上に引き倒した。

「生きろ! 泰さんを傷つけるのは許さない!」

 俺は男のやり方に憤慨していた。


 男は空虚な目で俺を見上げた。

「帰る場所がないんだ……」

 男はそう言う。急に怒りが萎むのを感じた。

 男は以前会ったときと同じ服を着て、髪は汚れて伸びている。

 覇気がなく、その場に倒れ込む姿は同情に値するだろう。しかし彼に情をかけるのは僕のすべきことではない。もちろん泰さんの役割でもない。


 人には家が必要だ。狭くても、大きくても。それは間違いない。

 僕が彼にかける言葉はひとつだ。

「家はつくることができるんだ。またつくればいいさ……泰さんとは、別の人と」

 僕の言葉に勝さんは地面に伏しておいおいと泣き、やがてスーツケースを引いて去っていった。


 僕は家に戻った。

 そこでは泰さんがいつものように夕飯を作ってくれていた。

 僕は「やっぱり、僕らの話は夏目漱石のこころとは似てないですよ」と言った。

 泰さんは首を傾げた。

「どういう意味?」

「もっとずっとハッピーエンドということです」


 僕は愛しい人を抱きしめた。

 耳元でささやく。

「泰さん、今晩、いいですか?」



 僕の言葉に、耳まで赤く染まる彼を、僕は愛している。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ