第7話 負けたので、もういいです
柔らかい笑顔の青年は、店内を見回して、ドアを開けたところで立ち止まる
「あれ、なんか取り込み中だったかな。」
「大丈夫っすよ。誠司さん。ちょっと待っててください。」
壮太は立ち上がって、二階へ上がる翔子に
「エプロン、そこ置いといていいから。」
と声をかけた。
翔子が用意をする間、誠司はコーヒーを頼む。カウンター席に座った後、軽くマスターと会話して。
不意に奈々子を見た。
「君、坂井さんだよね?インターンで一緒だった。」
「あ、はい、え?えーと。」
急に声をかけられて、奈々子は椅子の上で軽く飛び上がる。
急いで去年の夏のインターンの記憶を掘り起こす。
そう言えば、お世話になった企業の一つに、こんな感じのイケメンがいた。人当たりが良くて、手際もよくて、同じインターンで来ていた同級生から圧倒的な人気があった。自分の事を覚えているなんて意外だ。
でもちょっと待て、その人はその企業の御曹司という噂だった。社会勉強のために、普通の学生と同じようにインターンをしていると聞いた。
「ええと、藤沢さん・・?」
「そうそう。奇遇だね、こんなところで会うなんて。どうしてこの店に?近所?」
誠司はにこにこと笑顔でおしぼりで手を拭いて、コーヒーカップを口に運ぶ。
イケメンだ。人当たりが良い笑顔。
奈々子は軽く焦りながら、状況を説明しようとする。
「ええと、真鍋君、うちの大学の後輩で、前に空手部で一緒だったので・・・」
「そうなんだ、わざわざ大学の後輩の家に? コーヒー飲みに?遠くない?」
それから誠司は壮太に向き直ると
「そうたくーん。うちの翔子ちゃん泣かせたら、ただじゃ置かないよ。」
「泣かせてません。」
壮太は仏頂面で応える。
「一応その言葉、信じてるよ。」
すこし店内に沈黙が落ちる。
うちの翔子ちゃんて、何。
「あの、藤沢さんは、あの・・翔子さんとどんな関係なんですか?」
奈々子が恐る恐る聞くと、誠司はニコッと笑って応じた。
「翔子ちゃん?従兄妹だよ。今日はうちの祖父の古希の祝いでね。孫たちでお祝いの計画してるんだ。」
「お待たせしました。」
階段から声がした。
振り向くと、大きな花柄のワンピースドレスを着た翔子が立っている。恐ろしく着映える。
すっぴんでも結構な美少女だが、軽くリップを引いたら三割増しに美少女だ。
奈々子は絶句するし、前田クンは目も口も丸く開けたまま、青いんだか赤いんだかよく分からない顔色になっている。
「いいね。」
誠司は立って行って、パンプスを履く翔子の手を支えた。
「早希子さんのおさがりのドルガバだっていうから、新しいのにすればいいのにと思ったけど、これも悪くない。」
「ドルガバってなんすか?」
ひそひそ声で、空手部の連中が奈々子に聞いてくる。奈々子は、いろんな意味で打ちのめされながら、かろうじて答えた。
「ドルチェ&ガッバーナでしょ。高級ブランドじゃん。」
「え、あの『香水』って曲の。」
香水は小遣いでも買えなくはない値段だが、ドレスは庶民にはちょっと手を出しにくい。
さらりと着こなして、翔子は壮太に微笑みかけた。
「また明後日来るね。」
「ああ。靴はここに置いとくから。」
「ありがと。マスター、お先に失礼します。」
「お疲れ様。」
二人が出て行き、誠司が運転するレクサスが見えなくなると、一つハァとため息をついて壮太は後輩たちに向き直った。
「あのさ、貧乏母子家庭だったら、何言っても反撃されないとでも思ってたかもしれないけどな。この先、口は慎めよ。お前ら、どんな会社に就職するか知らねぇが、あいつのじいさん、なんか俺でも聞いたことあるような会社の肩書、いっぱい持ってるぞ。社会に出ていじめられるのはお前らの方かもしれねぇ。」
ーその後。
空手部の後輩小林クンは、自分が噂を広めた友人全員に、「あれはデマだから。」と念押しして回ったらしい。皆、高校の時の友達だったらしいが、彼らは翔子とも壮太とも接点がなかったので「そんなの覚えてるの、お前ぐらい。」と逆にあきれられたらしい。
そして肝心の前田クンは、中学の友人に連絡を取って、「佐藤翔子は、金持ちのじいさんの養女になったので、以前の噂を口にしたら社会的に抹殺される。」と吹いて回ったらしい。
どこをどうやったら、そんなアレンジの効いた話になるのか分からないが、なるほど、こんなふうに刺激的な内容なら噂も広まるというものだ。ネットニュースの見出しと一緒だ。
それを聞いた同じ大学で中学でも同級生だった者たちが数人、壮太の店まで翔子に謝りに行ったと聞いた。
どんな顛末になったから知りたかったが、やめておく。壮太の事は深追いしないでおこう、と奈々子は固く心に誓った。
一応教育学部で、これから教員採用試験だけど、藤沢商事に内定がもらえたらそっちにしようと思っていたのだ。
壮太を巡ってその藤沢商事のお嬢さんと争うなんて、とんでもない。まあ、争う前にもう決着ついているような感じだったけど。
もう本当に、いろんな意味で負けた。
何より、翔子を前にしてあんなにデレデレな壮太を見ることになるとは思わなかった。
男前だったのにな、とちょっと残念に思う。目立つイケメンではなかったが、壮太は男前で、なにしろ中身がかっこよかった。
この先、あれぐらいいい男が現れることを願う。
あの藤沢誠司みたいな。
内定もらえたら、もしかしたら可能性があるかも。
翔子ちゃんと仲良くなって、その伝手で・・・ていうのは無理っぽいけど。
ちょっとぐらいは夢見てもいいよね?
最初はもうちょっと恋のライバルっぽいのを考えていましたが、結局こんな感じになりました。




