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なぜ「未熟さ」を望むのか?

作者: のぶ

今はどうなのか知らないけれど、僕が中学生のときは先生が生徒に対して「君たちには個性や可能性がある」とうるさかった。おそらく時代のムードがそういう当時はそういう感じだったのだろう。なかには聴き心地いいからか信じる生徒もいたようだけれど、僕はそのころソレを聴いて「ウソだ」と思っていた。そういう先生自体が個性や可能性があるような人ではなかったし、だいたい三田則房さんも本で指摘していた通り「本当に個性的な人ばかりいる職場だけだったら1人インフルエンザで欠勤しただけで会社は動かなくなる。言う間でもなく退職なんてもってのほか。だからだれでもできる、という仕事内容を課す」とあった。実際にコンビニ店員にそういう個性をセブンやローソンの上は求めていないだろう。レジや品出しをうまくこなし、客からのクレームをうまく処理し、バイトテロ等の不祥事を一切起こさず、客が納付した各種税金をきちんと上へ納める(昔こっそり客が納めた国民年金保険料を横領するコンビニ店員もいたらしい。どうやって不正がバレたかまではネットで聞いてない)。つまり、100メートルを10秒ちょっきりで走るような陸上選手や匠の技と言われるような料理技術を持った料理家以外には特に個性つまり、未熟さなど必要ないのだ。


でも、20代終わりになった今となってはどうしても未熟さにあこがれてしまうのだ。先にコンビニ店員に例をあげたが、一般論ではそっちの方が普通の人生だろう。よくニュースに出るが、アメリカ大統領になる方が例外中の例外の人生経験だろう。僕は高校生時代に文系にするか理系にするかはよく悩んでいた。国語、数学、英語、理科、社会、おおむね同じくらいの成績で、ありがちな「数学が苦手だから文系へ」「社会が苦手だから理系へ」という発想は今でもないからだ。ホントにできる人はナポレオンのようになんでもできるからだ(ナポレオンは自身も小説を書いたり、数学が得意だったり、ヨーロッパという歴史的概念の構想をよくしていたらしい)。


サン=サーンスは天才タイプの作曲家である一方でドビュッシーやシェーンベルクのような新しい道を切り開くタイプの作曲家ではなかった。それは「J.S.Bachに始まりオッフェンバックに終わる」と評されたピアノ協奏曲第2番や交響曲第3番「オルガン付き」を聴けばよくわかる。それをベルリオーズがサン=サーンスを評して「彼はすべてを知っているが、未熟さに欠けている」と的確な指摘をした。ようは未熟さが次の創作活動につながる可能性があるということだ。


斎藤環氏も本で「成熟するということはある種の一定数のことをあきらめるのと同義語なのである意味では社会が成熟した今に成熟を忌避する人が出るのが至極当然のことです」ということを書いていたな。僕も似たようなことを感じている。これは間違いだろうか? 


まとめると僕の未熟さということ望むのは、ようはそれが次につながる可能性があるからです。ある意味では社会が成熟した今に求められるのは、ある種の未熟さなのかもしれない

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