親友と事件の発端
校長室のソファに座っていたのは、彼女によく似た男性だった。かなりやつれている。
「初めまして。あなたが娘のよく言っていた唯さんですか」
顔がそっくりだったからすぐにわかったが、やはり彼女の父親だったらしい。
「はい。私に何か」
「教えてください。あの子はどうしてあんな…あんなことを…」
「いや、何で私に?」
「…今更手遅れですが…ようやく、あの子が私達に心を開いてくれなかったことに気づいたんです。思い返せば、あの子のことを、よく知らないことにも」
それはそうだろうな、と唯は思う。
別に家族と不仲なわけではない。彼女は父親に懐いていたし、日常会話も不便はなかった。反抗期らしい反抗期も少なく、暴力も暴言もなかった。
母親との折り合いは悪かったようだが、彼女は普段、家族の前では全くそれを見せなかったから、知らなくても無理はない。
些細なことに喜ぶ素直な子。時々、言葉の選び方が悪くて相手を怒らせることもあったが、それだけだったと。
でも唯に言わせれば、それらはほとんど猫被り。本心を見せないための演技にすぎない。
「なら、アイツの自傷行為もご存知ないんですね」
「自傷…?いつ、そんなことを?」
呆然とした様子の父親に、あぁ、本当に知らないんだなと唯は苦い顔をした。そして心の中で、彼女のポーカーフェイスに舌を巻く。
いや、家族の前で見せていたそれも、彼女の一面だったのかもしれない。けれどそれは酷く表面的なもので、彼女の心を知っている唯にしてみれば、つるつると上滑りする仮面のようにしか思えなかった。
「何が起きたのか、教えてください。そうしたら私も、私の知るアイツのことを教えます」
そう言えば、父親は項垂れて、ぽつぽつと語り始めた。
「きっかけは、妻の説教でした」
「あの子が受験生だというのにスマホばかりいじって勉強しないもので、妻がとうとう怒りまして」
「スマホを寝室に持っていくのを禁止したら、今度は寝室に置いてあった漫画を読み始めていたんです」
「それでまた説教。反省の色が見られないからと、妻はあの子の持つ漫画や、机に飾ってあったアニメ関連のものを全て捨てたんです」
「塾から帰ってきたあの子はそれを知って、包丁を持ち出して妻を刺し殺した…と、そういうわけです」
話だけ聞けば、八つ当たりだ。非は全面的に彼女にある。それを否定はしないし、彼女の母親は何ら間違ったことを言っていなかったのだろう。
けれど、行動を誤った。たった一つ、致命的な過ちを犯してしまった。
「あの、捨てたものの写真とかありますか」
「はい、これです」
ゴミ袋に無造作に入れられた、アクリルスタンドやイラスト、プラスチックの栞、金属の指輪、バッジ、紐で縛られた大量の漫画。
中にはぱきりと折れてしまったアクリルもある。
その写真を見て、唯は心の底から納得した。そして、先程記者へ告げた「仕方ない」が、真理を突いていたと理解する。
あぁ、これは、仕方のないことだ。
少なくとも彼女にとって、この行為は立派な報復に値する。
「どうして、と尋ねましたよね。理由はこれです」
写真を指差せば、父親は目に見えて狼狽した。
「ま、待ってください。確かにあの子はアニメや漫画が好きでした。でもまさか、これらを捨てるだけのことで…」
「だけ、じゃないんですよ。アイツにとっては」
いっそ、哀れだった。これを奪われてしまった彼女も、彼女を理解し得なかった両親も。
理解できなかったのではなく、彼女がさせなかっただけかもしれない。けれど、見ていればわかったはずだ。彼女がどれだけ、これを大切にしていたか。
八つ当たりではない。逆ギレではない。そうとしか見えなくても、彼女の中ではそうではない。
それが、唯にはちゃんと理解できた。
「特に、これ。この人です」
黒髪の美青年が描かれたアクリルスタンドを、唯は指差す。ぱっきりと半分に折れてしまったそれ。
他のグッズも、そのキャラクターのものが一番多い。
「多分ね、この人のグッズを捨てなければ、アイツは暴れるだけで済みましたよ。暴言を吐いたかもしれない。殴りかかったかもしれない。でも、このキャラクターのグッズさえ残っていれば、アイツはまだ冷静になれた。最悪、この香水でもぶっ掛ければ、ちゃんと頭は冷えた。殺すまでに至ったのは、ひとえにあなた方がこれらを捨ててしまったからです」
彼女に、このキャラクターが出てくるアニメを、漫画を教えたのは唯だ。そこから二次元にハマっていった彼女は、何人かのキャラクターを好きになったけれど、それでも、ずっと彼を一番に好いていた。愛していた。
『僕のかみさまなの』
照れたように笑って、愛おしむような瞳で、彼女は彼のイラストを眺めていた。いつだって、とろけるような、恍惚とした微笑を浮かべていた。
「私」だった一人称を、彼の影響で「僕」に変えた。LINE上はともかく、日常会話での話し方は少し丁寧になった。
彼のイメージカラーを身につけたいと、ネイルを買った。高校受験で追い詰められていた時、彼の姿に、声に、救われたのだと笑っていた。
彼に惚れ込んで、一途に愛して、それは別に、現実の人間に向けるような恋愛ではなかったけれど。
信仰にも似た愛情を、至高の存在とする崇拝を捧げて、自分を保つための核にしていた。ゆっくりと依存して、彼女はその存在を自分の生きる理由に変えていった。
「アイツの動機は、聞きましたか」
「はい。『神様を壊されたから』と…」
「その“かみさま”が、この人です」
まさか、と呟く父親の声は掠れていた。けれど、唯にはそうとしか言えない。
「深海さん。自傷とは…?」
今まで空気だった校長の言葉に、呆然としていた父親は我に帰る。
「そ、そうです。私達は全く気づかなかった」
「そりゃまぁ、アイツの自傷ってリスカじゃないんで」
リストカットは確かに自傷の中では一般的だが、彼女はそれをしなかった。
『だって、刃物って痛いでしょ』
痛くしたくて自分を傷つけていたくせに、そんなことを言っていたのを覚えている。
その度に、自傷自体をやめろと、何度言ったことか。
怒っても、縋っても、説得しても、やめることはなかったけれど。
自傷が日常的なものではなく、本当に追い詰められている時だけのものだったからまだマシだった。
それでも、昏い目で大丈夫と笑う姿は痛々しくて。自分では彼女を救えないことも、唯は理解していた。
『物に八つ当たりしたら、怒られるもの。人に八つ当たりしたら、もっと怒られるもの。僕の持っている中で、傷つけてもいいのは僕だけなの」
ぬいぐるみや枕を殴るのは物への八つ当たりで、埃が舞って鼻炎になるからダメなのだと言っていた。八つ当たりしていい人など、思いつかないのだと言っていた。
一番身近で、傷つけてよくて、どうなろうと構わなかったのが、彼女自身だった。
痛いのが嫌なくせに、自分の命はどうでもよくて、自分の未来も、将来もどうでもよくて。
唯のことや、友人のことは大切にするのに。手に入れたグッズは、彼の存在は、何よりも大切にしていたくせに。
彼女にとって、彼女自身のことは、いつだって“大切”の枠の外だった。
『あと八年くらいして、何も楽しくなかったら死のうと思うの。ほら、彼の人って年齢は明記されてないけど、十年経ったらそのくらいでしょ?だからね、彼の人の誕生日に死ぬんだ。そうしたら、忘れないでいられるもの。でしょ?』
ふざけるなと怒っても、殴っても、彼女はへらりと笑って、考えを変えなかった。
一人で死ぬのは怖いから、彼の人を理由にしたら怖くなくなる。
そんなバカなことを、本気で言うような少女だった。理想の終わりを語る時、一番幸せそうに笑うようなやつだった。
『新しい作品が出ても手に入らないんだよ』
『それはちょっと心残りだなぁ』
『もうあの人のイラスト、見られないんだよ』
『そうだねぇ』
『お前が自殺したら、私は悲しいよ』
『それはごめんね』
『ねぇ、生きてた方が楽しいよ』
『君と話してるのは楽しいよ。でもさ、それでも僕は終わりたいんだ』
そうやって笑う姿はひどく穏やかで、嫌になるくらい嘘がなくて。
『僕、飽きっぽいからさ。飽きたら全部捨てちゃうの。人も、物も、何でも。でもね、彼の人のことだけは、捨てたくないの』
『全部抱えて死にたいの。他の誰にもわからなくても、君ならわかってくれるでしょ?僕がどうしてその日を選んだのか。どうしてその年齢だったのか』
『彼の人と、ほんの少しでも繋がっていたいの。死んだら何も残らないから、せめて証が欲しいんだ。僕が彼の人に溺れていた証明が』
飽き性なのは知っている。即断即決タイプで、飽きたら何でも放り投げてしまって、でも好きなことには一途なことも知っている。
『楽しいうちに、繋がりが消えないうちに、一番大切な瞬間に、時間ごと止めちゃえたら、最高でしょ?』
『…それ、すごく寂しいことじゃないの?』
『うん、普通なら寂しいことだよ。寂しいことだけどさ、僕にとっては最高の幸せなの』
成績がいいわけじゃないし、世間の常識からズレていたけれど、彼女は一応、世間一般、と言うものを把握していた。理解していたかどうかは、定かではなけれど。
『生きる理由なんて基本的にいらないし、その時その時が楽しければ苦しくても死にたくても辛くても悲しくてもどうでも良くなるけどさ、そうやって一番最後を決めておいたら、適当に終わらなくて済むから』
『死にたくなっても今はダメだって思えるからね。中途半端だから、今は深く関わりがないから、絶対に、一つでも、繋がっていなくちゃ意味がないんだ』
『僕はね、多分怖くても、寂しくても、たったひとつでも理由があれば後悔はしないと思うな』
『その理由を彼の人に求めるのは、傲慢だし身勝手だけどね』
勝手だとわかっていて、それでも望んでいた。普通ではないことを知っていて、「だって僕だもん」と笑っていた。
「アイツの自傷は、左手を噛む、爪を立てる、腕を殴る。この三つですよ。大体、一度にどれか一つで、最終的には殴るのが一番だって考えたみたいですけど」
「な…」
「気づかなくても無理はないと思いますよ。アイツ、基本的に左腕とか左手って服で隠れてるんで」
姿勢が悪いからか、彼女は大抵、左側の袖が余っていた。下手をすると指先以外は全部隠れてしまうこともあったから、気づけないのも無理はない。
とはいえ、夏場の半袖の時期にしていたこともあったようだから、気付こうと思えば気づけたかもしれない。
噛み付いた時にできた歯形は一日二日で消えてしまうが、痕は残る。色白な彼女の腕は特に真っ白だったから、赤い痕は目立ったはずだ。
殴れば痣ができるし、爪を立てても痕が残る。
一時期は左腕が痣だらけになっていたこともあるらしいが、その時は冬で長袖だったから気がつかなかったのだろう。
「叱られた後とか、三者面談の前とか、精神が不安定になった時、アイツはいつもこの人の名前を呼んで、呪文みたいに唱えて、そうやって自分を保ってたそうです。笑顔の裏で、ずっとこの人を支えにしてました。アイツのメンタルは弱くなかったけど、思った以上に脆かったから」
それはまさしく、敬虔な信徒のように。
神に祈りを捧げ、救いを求める信者のように。
二次元空間にしか存在しない彼が、存外脆い彼女の心を繋ぎ止めていた。死なないように、壊れないように。
彼は彼女にとって、何にも変え難い偶像だった。彼女の心の拠り所だった。
「だからあれは、あの事件は、アイツにとっては復讐です。非は自分にある。それはわかってます。でも、アイツにとって、たとえどんなに自分が悪くても、自分のかみさまを奪われた時点で、壊された時点で、それは報復なんです」
ちゃんとわかっているだろうと、唯は思う。それが世間の目からどう映るのかも、自分の行いが正しくなかったことも、全部わかっているんだろうと。
ズレていたけど、危なっかしいけど、多分、決して理解はしていなかっただろうけど。
それでも彼女は、「普通」を把握していたから。
杜鵑草と申します。今回だけ長いです。
一日クオリティなのでかなり雑です。
何かおかしなところがあってもスルーしていただければ幸いです。