#085 学年主任の年度末
学年主任。
それは各学年に存在し、担当学年の先生たちを統べるリーダーである。
ほとんどの職員が卒園生であるのは偶然か必然か、人手不足とは無縁の陽ノ森幼稚園では、学年主任は特定のクラスを持たない。
主に担当学年のカリキュラムの作成や後進の育成主導、クラスを持たない先生のその日の配置調整や担任ミーティングの取りまとめなどを行い、加えてPTAではその学年の幼稚園側のトップとしての役割も担っている。
そのため、子どもたちよりも、他の先生や保護者といった大人を相手にする時間の方が圧倒的に長い。
幼稚園教諭としての知識や経験ももちろん必要となるが、その苦労は他の教諭たちとは毛色が違ったものになる。
そして陽ノ森幼稚園では特に理由――主に保護者から無視できないクレーム――が無い限りは、一度就くと三年間は続くことになる。年少組から始まり、園児たちとともに学年が上がる。
この仕組みに賛否両論はあるかもしれないが、子どもや特に大人たちとの連携の継続性を重要視しており、幸いにもこれまで多少のいざこざはあるものの、大きな問題なく運用できていた。
学年主任は幼稚園の中で勤続年数が多い教諭が任命されることが多いが、ベテランの中には子どもたちの相手をする方が気楽だと、後進にその座を譲ることがあるとかないとか。
真実はどうであれ、人の上に立つ役回りであるため、実力が伴わなければ難しいのが学年主任というものである。
そんな学年主任のうちの一人。
現在の年少組を担当している浮海亜希子は、職員室で背もたれに体重を預けていた。椅子から耐久性が不安になる音を奏でながら、各クラスの担任からあがってきている参考資料を手に取る。
(見えない……)
眼鏡を外し眉間に皺を寄せながらプリントを徐々に遠ざける。
そうして見えてくるのは、段階評価やコメントの数々。園児の資料と個人面談の内容だ。
どんな性格の子なのか。
何をして遊ぶのが好きなのか。
仲の良いお友達は誰か。
相性が良くないお友達は誰か。
発達段階はどれほどなのか。
どんなことに気を付けて接する必要があるのか。
家がどの辺りにあるのか。
保護者はどんな人物なのか。
どんな家庭環境なのか。
教育方針はあるのか。
幼稚園への行事への積極性はどれほどなのか。
そして、クラス替えに対する希望等々……
(今年はやたらと多い気がするわねぇ。そういう時代なのか、それとも……)
苦笑いを浮かべながら、アキコはそれらを読み進めていく。
クラス替えに対する希望は、基本的に聞き入れて貰えないということは保護者の中でも知れ渡っている事実ではあったが、何もしないよりもマシだということなのだろう。
誰と一緒のクラスにして欲しいといった類の内容がほとんどであり、そういったものはどっちでもいいような場合にくらいしか参考にしない。すべての意見を取り入れ始めたらキリがない。
だが中には無視できないものもある。
幼稚園では何ともなさそうでも家に帰ると様子がおかしく、その理由を聞けばお友達が原因であったりといったことも無いわけではない。幼稚園の外でしか気付けないこともあるし、保護者同士のいざこざにも配慮しておきたい。
アキコとしても、混沌としたPTAだけは何としても避けなければならない。
平穏で快適な新年度を迎えられるよう、アキコはクラス編成、その草案を作成していた。
まずは子どもたちの発達段階が平均的になるように、バランスよく新しいクラスに割り振っていく。
仲が良いお友達と離れ離れになるのは可愛そうではあるが、新しいお友達と出会う機会であり、そうして他人との付き合い方を学んでいく。
そういった意味では、クラスを持っていない学年主任は特定のクラスに子どもに入れ込むこともなく、平等にクラス替えができるポジションでもあった。
「ふぅ……」
「順調ですか?」
「あっ、お疲れ様です、セイコ先生」
机の上の水筒を手に取り一息ついていると、子どもたちの見送りを終えた同僚が一時休憩をしに、アキコの目の前の左手の席へと腰をかける。
「ぼちぼちですかね」
「ふふっ、そうですか」
とりあえず振り分けるだけ振り分けた名簿を見ながら、アキコは意地悪そうに口元に笑みを浮かべる先輩に答える。
まだ完成ではない。ここから子どもたちの性格や相性、誕生月を考慮しながら組み替えていく作業が残っている。ただ走り始めれば早いもので、後は勢いに任せれば、それなりのものが出来上がるであろう。
アキコはふと頭に過ぎった考えを口に出す。
「ばら組はそのまま上の学年にあげても良いですかね……?」
「ダメですよ。変な前例を作ると後々面倒になりますから」
「ごもっともです……」
「でも気持ちは分かりますよ。担任ですから……」
冗談ではあったものの、ばら組に関わった先生であれば、誰もが一度は考えたことがあるだろう。
ばら組は異常だ。悪い意味ではなく。
乳幼児期に保育を受けた子を除けば、最初の集団経験の場となる幼稚園年少。社会性の発達のための大きな一歩を踏み出したばかりだ。一年も経てばある程度は慣れるものの、他人との、同世代とのコミュニケーションはまだまだ初心者である。
一緒に遊んでいるようでも同じ空間で別々のことをしているだけであったり、家では自由に使えていたおもちゃが幼稚園では他の子の手の中にあってどうすれば良いのか戸惑ったりと、集団の中にはいるものの個の行動が目立つ。
それが年中年長と成長するにつれて、お友達と何かを成し、ルールを覚え、他人への気遣いや自分の立ち振る舞いを考えるようになり、本当の意味での集団行動を知っていく。
この点においてばら組だけ驚くほど成長が早い。
園児同士の仲が良く、喧嘩が少なく、それ故皆が幼稚園生活を楽しく過ごすことが出来ている。
そして幼稚園生活を楽しく過ごすために、何をして良くて、何をしてはダメなのか、ばら組の子どもたちはよく知っている。
因果関係までは理解できてはいないのだろうが、それは今後長い時間を掛けて学び続けていくことだろう。
「ばら組が何処まで行けるのかは見てみたいですけどね」
そんな居心地の良い空間でのびのびと過ごすばら組の子どもたちは、個性がありながらも衝突することなく成長してきた。他の年少クラスよりも半年から一年は精神年齢が高いのではと感じてしまうほどだ。
長く陽ノ森幼稚園に勤め、いくつものクラスを受け持ち、何人もの子どもたちを育て見送ってきたセイコであっても、これほど奇妙なクラスは初めてだった。
このまま残り二年を同じクラスで過ごした時、ばら組の子どもたちがどのような成長を遂げるのか、興味を掻き立てられるのは自然なことだろう。
「ですが子どもたちの今後を考えるのであれば、やはりクラス替えは必要ですよ……」
「そうですね……」
それでもベテラン二人の考えは一緒だった。
ばら組は居心地が良すぎるのだ。
ばら組のメンバーで過ごせる時間は残り二年。
巣立つ子どもたちが置かれる環境を考えれば、ばら組という空間は諸刃の剣になることも考えられる。
世の中は厳しい、とまでこの年齢の子どもたちに伝える気はないが、逞しい方が生きやすい世の中ではあるだろう。
良い年齢であるセイコとアキコは、そのことを身をもって知っている。
ばら組の外を知ることでしか、成長できないこともあるのだ。
他人との付き合い方。
狭い世界の広げ方。
それらを学ぶためのクラス替えであり、ばら組の子どもたちにとっても同様である。ばら組だけを特別扱いをする気は無かった。
「来年度、彼がいるクラスがどうなるのか、楽しみが増えたと思えば」
「それもそうですね」
「できるだけ近くで見ていたいので、私も彼らと一緒に年中組にあがれることを願ってます」
「その希望には添えられない可能性が。あ、お菓子はいただきます」
「ふふっ、冗談ですよ。よいしょっと……、そろそろ行きますね」
「はい、いってらっしゃい」
セイコは預かり保育の様子を見に子どもたちがいる教室へと、そしてアキコは名簿へと向き直り作業を再開する。
そうして小一時間。
(う~ん、なんかクセのある子が集まっちゃったかしら……)
そう思いながらも、これ以上は一人で煮詰めるよりも担任ミーティングで意見を聞いた方が早いと作業を切り上げ、アキコは別の作業へと取り掛かった。
読んでいただきありがとうございます。




