#068 働く母の決断
今年も残り半日を切った。
去年と同様にお隣の戸塚家にお邪魔して、炬燵を囲みながらテレビを見ている。
机の上には剥かれた状態のミカン。
そのひとかけらを手に取り、膝の上に抱かれてくれている息子の口元へと持っていく。
まーくんはそれをパクリと咥えると、今度は自分で剥いていたミカンをお返しにと私の口元に差し出してくる。
そんな母と子のやり取りを、羨ましそうにじっと見ている女の子が一人。
ミツヒサさんの膝の上に座り、こちらに視線を固定したまま黙々とミカンを食べさせてもらっているすーちゃん。
彼女が言いたいことはわかっている。
だけど今日ばかりはご容赦を。ミツヒサさんのためにも。
ここ一週間は本当に忙しかったから。
家へと帰って来られるのは日付が変わる頃。
それでも「お先に失礼します」と言えるだけまだマシなほうなんだけどね。
そんな時間なので、もちろんまーくんはすでに寝ている時間。
だけど寝室にまーくんの姿はない。
気持ちよさそうに寝ているところを起こしてしまうのは申し訳ないので、帰る時間が遅くなりそうな日は戸塚夫妻のご好意で預かってもらっている。
すーちゃんもまーくんがお泊りで嬉しそうにしているし、ミツヒサさんも遊び相手がいて楽しいと言ってくださる。非常にありがたい。
だけど家に帰ってきて、まーくんの顔が見れないのは正直寂しい。
感傷に浸りたいところだけど、翌日も仕事なのでやっておかなければならないことをやる。ミオが張っておいてくれたお風呂に入って、疲れとメイクをしっかりと落とす。
美容に関してはミオがうるさいからね。
でもそのおかげで、お客様や上司からの印象は悪くない。
何よりまーくんが「おかーさん綺麗だよ」って褒めてくれるから、それがお世辞だとしても嬉しくて頑張って続けられる。
ただ、幼稚園の先生とかスーパーのお姉さんとかお友達のお母さんとか、他の大人の女性にも言っているみたいなので、将来がちょっと心配かな。
決して嫉妬しているわけじゃない。女ったらしになって、大切な人を悲しませるようなことにはなって欲しくないという親心。
今はすーちゃんを一番大切にしているのは一目瞭然なんだけどね。
吉倉さん家でのクリスマス会も、他の子のフォローもするけど、常にすーちゃんのことを気にかけているくらいだし。
そんな気遣い上手な自慢の息子の写真をスマホで見て、寂しさを紛らわせてから寝る毎日。
お気に入りなのは、私の膝の上に座りながらおせんべいを食べている写真。
目測を誤ってしまったのか、頬張りすぎて噛み砕くのに苦労している。それでも私の膝の上に食べかすをこぼさないようにと気を付けているツーショット写真――byミオ。
あとは入園式の衣装合わせの時の写真とか。
思い出の写真たちを見返すことで、その日にあった嫌なことも全部吹き飛ぶ。
妙に距離が近い人とか、タバコと香水の臭いがキツい人とか、やたらとボディタッチをしてこようとする人とか、個人的な食事にしつこく誘ってくる人とか……
それでもお客様であることには変わりないので、嫌な顔をすることもできず本当にストレスが溜まる。造り笑顔を維持するのに、頬が引きつりそうになる。早く帰って報告書だって作らなきゃいけないのに……
そんな日が続いても、翌朝頑張って仕事に向かえるのはまーくんがいるから。
戸塚家にお泊りをした日でも、私が出社する時間になると「いってらっしゃい」と見送りに来てくれる。
そんなまーくんがあまりにも愛おしくて、ハグしてチークキスして、勢いあまってさりげなくほっぺにキスをして。
そうして年末ギリギリまで仕事をして、ようやく昨日仕事納め。
今年一年頑張ったご褒美として、まーくんを思う存分抱きしめさせて欲しい。
すーちゃんからの視線に耐えながら、まーくんの頭の上に軽く顎を乗せる。
炬燵とまーくんの体温が良い感じに暖かくて、眠くなってきそう……
この生活もあと三ヵ月と思うと、少し寂しさを感じてしまう。
「……まーくん」
「どうしたの?」
「おかーさんね、お仕事変わるの」
「……そうなの?」
まーくんは驚いた様子で私の顔を見上げながら、その言葉を咀嚼しているようだった。
理解できているのかは分からないけど、賢いまーくんのことなので、それがどういうことなのか何となく感づいてはいそう。
転職。
前々から考えてはいたんだけど、ようやく決心がついた。
色んなまーくんを見て。
友達から慕われているまーくん。
先生方からの信頼を得ているまーくん。
親御さんからも評判がいいまーくん。
四月から幼稚園に通い始めてまだ一年も経っていないけど、たくさんの人たちに囲まれて愛されているまーくん。
そして何よりも、すーちゃんと楽しそうに遊んでいるまーくん。
そんなまーくんの世界を、私の転勤という形で変えたくなかった。
今の仕事が精神的にも体力的にも大変だったり、私がまーくんと接する時間がもっと欲しかったり、働き方の見直しといった他の理由ももちろんある。
だけど、先日のまーくんの誕生日が止めだった。
すーちゃんのあの喜びようや、まーくんのまんざらでもない表情を見たらね。ミオの作戦に負けたというか、乗ったというか。
「……次はどんなお仕事なの?」
「う~ん……なんて言えばいいのかな……。IT企業なんだけどね……」
いざ説明しようとすると難しい……
実際は経理とか会計とか事務とかが中心ということだし、その知識が必要な製品を作ろうとしててそっちにも関わるらしいけど……
「……なんて言えばいいんですかね、ミツヒサさん?」
「……いろんなアプリを設計したり作ったりして売ってる会社…………?」
スマホの画面を見せて「こういうのを作るんだよ」と言ってみるけど、小さな子どもに理解してもらえるのは難しそうな……
ミツヒサさんと遊んでいたすーちゃんも覗き込んでくるけど、イマイチ理解できていなさそうな表情をしている。
そんな私たち事情を察してか、まーくんが口を開く。
「……ミツヒサさんと一緒のお仕事?」
「うん、一緒の会社だよ」
「アカリは私の後輩ね! 分かんないことがあったら何でも聞いてくれて良いのよ!」
ふーちゃんときょーちゃんを見ていたミオが話に加わる。
「……でもミオが居なくなってからだいぶ変わったからなぁ……。アドバイスできることは少ないかも……」
「えっ、そうなのっ!?」
「そりゃあ五年も前の話だしね。事務所も引っ越したし……」
「分かんないことがあったら、真っ先にミオに聞くね」
「えぇっ……!?」
そう、転職先は以前からオファーをしてくださっていたミツヒサさんも勤めている会社。
そしてミオの元職場とも言う。後輩と言っていいのかは分からないけど。
社名はモルネスシステム。
モダンでフルネスなシステムを作る会社という意味らしい。先日の社長面接でそう伺った。
働き方もその名の通りで、働きやすい職場を目指しているとのことだった。
女性社員が増えているのも、ここに転職を決めた理由の一つ。
ミツヒサさんも社長に直談判して、育休中も自宅で仕事ができる試みを始めているらしい。
休暇をとっても評価は下がらないけど、仕事もしていないんだから評価は上がらないし、会社としても仕事が滞る。
きっかけはまーくんとの会話。テレビでテレワークの特集を見たって。
……まーくんの「テレビで見た」は、何かを誤魔化す言い訳に使われることも多いから本当かどうかはわからないけど。
会社にとっても社員にとっても、お互いにメリットのある働き方を考えているあたり、長く働きやすい環境なんじゃないかなって。
あと業績も良くて、お給料もね。
ちょっと調べたけど、高効率な利益の出し方をしている。
……戸塚家、予想以上に貰ってるのよ。
ミツヒサさんもあと数年で大台に乗れそうだってミオがこっそり。
そういうわけで、私は転職をする。
本当は春から変わるんだけど、内定が決まったので早めに伝えておきたかった。
「よかったね、すーちゃん。まーくんとずっと一緒にいられるよ?」
「すーはまーくんとずっといっしょ!」
「いっしょだね、すーちゃん」
「パパも一緒だよ~」
「……すーはいつかおよめさんにいくから、ずっといっしょはむり!」
「こぅふっ……」
「……パパはママとずっといっしょだからげんきだして」
「そうよ、みーくんは私がずっと一緒なんだから」
「……うん、ありがとう。すー、ミオ……」
「おかーさんもずっと一緒だよ?」
「ありがと、まーくん」
この光景が、私は大好きだから。
読んでいただきありがとうございます。
ということで、アカリは転職します。
転勤展開を期待されていた方には申し訳ないですが、最初から決めていた方向なのでご了承ください。
これでようやくマコトに社会とのインフラが…
 




