#166 本気の準備
年内最後の祝日。
普段通りであれば、昼近くまで起きることのない休みの日。たとえ自分の誕生日であってもそれは変わらない。
しかし今日ばかりは違った。
ミオの元同僚、そしてアカリの現同僚の高梨未里は、出社する日と変わらない午前八時半にアラームの力を借りて目を覚ます。
起動しきっていない頭のまま、ベッドの宮で鳴り響くスマホを手探りで掴みアラームを止める。そのままロックを解除し、ウィジェットのカレンダーで今日の日付とスケジュールを半開きの目で確認する。
「…………」
視覚情報の整理に追われる脳は、重力に導かれるスマホを手放し、もう一度瞼を下ろす判断を下した。昨日の晩は今日が楽しみで興奮してしまい、なかなか寝付けなかった。本能が睡眠を求めている。
そこに待ったをかけたのが理性。
今日は大切な日。入念な準備が必要な日だ。ここで二度寝を選択すれば後悔してしまうだろう。十分おき三度目のスヌーズで完全に目を覚ましたミサトは、ようやく行動を開始する。
「――おはよう、今日は早いのね」
「おはよー、お母さん。今日は特別な日だからね! うかうか寝てはいられないのよ!」
パジャマのまま二階の自室から一階のリビングに下り、ソファで生活情報番組を観ながら寛いでいる母――明乃と挨拶を交わす。
「そうそう、誕生日よね。おめでとう」
「ありがとー」
「どういたしまして」
この日、めでたく二十八歳を迎えたミサト。母から祝いの言葉を貰ったのだが、その表情は物足りなさそうである。
「……」
「どしたの?」
「プレゼントはないの?」
「え、いるの?」
「お母さんひどい!! こんなに可愛い一人娘の誕生日だというのに……」
「自分で言う? それにもう二十八でしょ? とっとと彼氏、と言うか旦那さん作ってそっちに言いなさいよ」
「ぶー。お母さんのケチ」
「ケチでけっこー」
「こけこっこー!!」
ブーブー言い合う高梨母娘。仲の良さが伺える。
ちなみにプレゼントの類は、社会人になってから貰ったことはない。ここ数年、似たようなやり取りが続いている。
「じゃあお父さんは?」
「ん? 朝早くにゴルフに出かけたわよ」
「なんと!? 誕生日を迎えた最愛の一人娘を放っといて!?」
「もう二十八だからね~。お父さんも『いつ結婚相手連れてくるのか』って心配してるわよ?」
「そこは『娘はやらん!! 俺が一生面倒見る!!』って言うところじゃないの!?」
「こっちが現実よ。むしろ『相手を見つけて来るまで帰って来るな』って」
「うそっ!?」
「まぁ、流石にそこまでは言ってないけど」
「なんだ……」
「私が思ってるだけで」
「!?」
母の本音に地味にショックを受ける娘。
彼女が勤める会社では趣味に走る独身貴族が多数を占めるため、結婚を意識することは少ない。だが結婚願望が無いわけでは無いので、”選ぶ側”でいられる内に選んでおきたいところではある。
それに尊敬する元同僚も、親しくしている現同僚も、結婚しているかはさて置き子持ち。学生時代からの友人らからも、ちらほらと結婚、出産、ついでに離婚の知らせが届いている。そろそろ、ではあるのだろう。
「学生の頃の勢いはどこにいっちゃったんだろうねぇ、ホント……」
「ぶごっ……」
過去を懐かしむ母から、ぽろっと言葉が漏れ出る。白湯に口をつけていたミサトは思わず咳き込む。
現在フリー、彼氏の影も姿もさっぱり見えなくなっている彼女だが、学生時代、彼氏が居なかった期間は短い。軽い女というわけでは無く、途切れなかったという意味で。
学校で話題に上がるほどの美人では無かったが、顔立ちもスタイルもそれなりに整っており、サバサバとした性格で人見知りもしない。思春期男子にとって気軽に会話できる相手だった。故にモテる。
付き合い始める際も告白ではなく、友達付き合いから自然と恋人に昇格していくことがほとんどだった。今思えば、密かにミサトが別れるのを待ち、次の座を狙っていた友人もいたことだろう。
彼氏を家に連れてきたことも何度もあり、母と顔を合わせたことも当然あった。
「それは……あれよ。私ももう大人だからね。本気になれる人を求めているのよ」
今も学生時代のノリで、というのは難しい。いくつかの経験を経て、心も身体も大人になってしまった。理想を追い求めてしまう。
「なるほど。……で、今日はその本気だと?」
「ぶっ……、……どうしてそう思ったの?」
「そりゃあ分かるわよ」
ミサトの行動に変化が見られ始めたのは、六月頭頃からだろうか。
烏の行水だったのが半身浴に代わり、化粧水は値段と種類がグレードアップ。おかげで浴室および洗面所の占有時間が増えた。朝には白湯を飲むようになり、好きだったお菓子の消費量も減っていった。ただお腹は空くのか、代わりにささみ肉やチーズを食べるようになった。
そうして娘が女を磨き始めて早半年近く。
いつその成果を見せる時がやって来るのかと思っていたのだが、休みなのに昼前に起きてきて、しかも誕生日だとすれば、母の――女の勘が働かなくても今日がその日だと分かるだろう。
「母はなんだってお見通し」
「母凄っ。怖っ。逃げっ」
ミサトはそう言い残すと、湯呑を洗ってから自室へと戻り、外出のために簡単に身支度を済ませる。
そして元同僚の姉が経営するエステサロンへ親の車を借りて向かい、予約していた全身マッサージコースを受ける。顔や二の腕、脚のむくみを取り、今の最高の自分を作る。
自宅に戻ると早めの昼食。口臭および体臭対策も忘れてはならない。
「さぁて、お着替えお着替え~♪」
その後、だいぶ前から準備していた勝負服一式を、鼻歌交じりに身に着け始める。
トップスは頑張って作ったシルエットが映えるよう、タイトな黒いリブニット。
攻めるのであれば首回りが開けたタイプを選ぶのだが、あまり露出が過ぎるとクレームが入ってしまうと思われるためハイネック。若干あがいてノースリーブ。
少々肌寒い季節なので羽織るものは必須。何なら温めてもらうのもいいが、そこは状況が許すかどうかがポイントになるだろう。
そんなトップスには短めのボディコンスカートを合わせると大人の色気を振りまけるのだが、やはりクレームが怖い。下手をすれば出禁だ。そもそも相手が誘惑されていることを理解できるかどうかも怪しい。リスクが大きすぎる。
そういった事情もあり、明るいグレーのチェック柄ワイドパンツを組み合わせる。もし遊ぶことになっても、これなら動きやすい。チラリズムは封印。
全身の色合いが単調なので、ポーチとローヒールパンプスには赤色を取り入れることになっている。目的地へ着いたらすぐに外すことになるだろうが。
(たぶんこの方向で合ってると思うけど……、こればっかりは会って反応を見るしかないよね……)
準備していた通りだが、姿見に映るミサトの表情は悩ましい。
相手の好みに合わせたつもりだが、その相手は画像と動画で一方的に会ったことがあるだけ。歳も離れている上、見た目と言動は常識で推し量ると噛み合わない傾向にある。情報が足りない上に錯綜している。
今の彼女には、彼が大好きであろう母親に似せた雰囲気を作り出すのが精一杯なのだ。
そうして着替えを済ませると、最後に薄めのメイクをして部屋を後にする。
「……仕事?」
キッチンで一杯の水を飲む娘に、アケノは素直な感想を述べる。露出を控えた大人っぽい服装。デートと言うよりはビジカジ寄りである。いや、授業参観に来る母が最も近いか。
「違うよ! れっきとした勝負服。どうよ!」
「まぁ、似合ってるけど……」
本気の誕生日デートにしては、やけに大人しい娘の服装。ただ娘の年齢ももう三十手前と考えれば、これもアリなのかなとアケノは納得する。
「それで、相手はどんな人なの?」
「黙秘権を行使します」
「ちょっとくらい教えてくれたって良いじゃない。年上? 年下?」
「黙秘権を行使します」
「格好いい系? 可愛い系?」
「黙秘権を行使します」
「お仕事は何してるの?」
「黙秘権を行使します」
「アンタ何歳になったの?」
「黙秘権を行使します」
「……ケチ」
「誕生日プレゼントをくれないお母さんの子なので」
好奇心むき出しの母からの質問に、ミサトは回答拒否を続ける。
お目当ての相手はもうすぐ五歳の男の子。この事実は吹聴すべきではない。通報されては困る。
こう見えても彼女は常識人なのだ。
誤解が無いように言っておくと、過去一番の気合の入りようではあるが、それは好きな異性を落としに行くデートではなく、大ハマりしているアイドルに会いに行くモチベーションに近い。
決して五歳の男の子を狙っている訳ではない。
ただ、もし、仮に、万が一、億が一、チャンスが転がっているのであれば、逃す気が無いのも確かではある。なお、チャンスとは自ら作り出すものである。
「なら仕方ないか。あ、晩御飯は要らないのよね?」
「うん、大丈夫。食べてくるから」
「帰りは明日?」
「ううん、八時くらいには帰って来ると思う」
「……明日の?」
「いや、今日のだけど」
「……もうちょっと攻めた方が良いんじゃないの?」
「いや、ここは慎重に行きたいのよ」
ミサトとしては今回が初対面。親の目もある。安全第一で臨みたいところである。
「……」
しかし事情を知る由もないアケノは、娘の恋愛事情が心配になって来る。
ここまで念入りに準備をしていると言うことは、ミサト自身もまんざらではないはずだ。それなのにお早い帰宅。
未成年ならともかく、二十八を迎えた女がディナーを終えてそのまま帰って来るとは何事か。やるべきことがあるだろう。
「……まぁ、アンタがそれで良いなら良いけど……」
とは言え、恋愛は自由だ。
ミサトも初心者ではない。彼女にも考えはあるのだろう、と娘の意図を尊重する。
手土産含め、忘れ物が無いかを確認したミサトは短く息を吐く。
「ふぅ。ではお母さま、行ってまいりますわ」
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
「もちろんですわ」
「………」
アケノは娘をエールで送り出す。
言葉遣いが変わっているが、化けの皮がはがれないことを祈るばかりである。
そんな母の心配を他所に、家を出たミサトは予約していたヘアサロンへと向かっていた。
そこで大人っぽさを意識した、無造作ロングポニーテールにセットをしてもらう。このヘアスタイルを選んだのは、彼の母がよくしているからである。
合わせてネイルケア。爪は短く、艶やかに整えられる。万が一にも柔肌を傷付けることがないように。
こうして、全ての準備は整った。
(待っててね、まーくん! 今、お姉さんが会いに行くから!)
読んでいただきありがとうございます。




