2話:不死蝶シャノン
私が目覚めたとわかってからは大騒ぎだった。
男の子がベルを鳴らして人を呼ぶと、すぐさま医者の手配がされる。
そして私の状態が知れ渡ると、誰もが顔を曇らせ慌てた。
「あぁ、シャノン。私のこともわからなくなってしまったのかい?」
髭の似合うおじさんは、たぶん父親だとは思うけど。
私の父親より小奇麗で、四十前かな? うん、知らない人。
「頭部への衝撃で記憶が混濁しているのでしょう。怪我自体は命に関わらずとも、頭は時折記憶に障害を及ぼすことがあります」
「先生、そんな! シャノンは、娘はもう二度と記憶が戻らないのですか!?」
包帯を巻き直したお医者さんに対して、ドレスを着た女の人が詰め寄る。
その本気具合と言葉から、母親だってことはわかる。
わかるんだけど、やっぱり知らない顔だ。
そしてどうやらこの子はシャノンと言うらしい。
「侯爵夫人、お気を確かに。記憶が戻るかどうかは、やってみなければわかりません。何かお嬢さまの記憶を想起させる思い出話や思い出の品などを使い、気長に思い出すまで治療を続けていく必要があります」
居た堪れない。これ、私やっぱり憑依してる?
頭打って死んじゃったシャノンの体に入り込んじゃってる?
私が落ち込んで俯くと、気づいた侯爵夫人がベッドの脇に座った。
「あぁ、ごめんなさい。一番辛いのはあなたよね? いえ、怖いかしら? 知らない人ばかりで心細いでしょう」
「そんな、ことは…………」
気遣われた居た堪れなさに答えると、侯爵夫人は泣きそうな顔になってしまった。
あ、娘からこんな他人行儀な返答されたら、この人のほうが傷つくじゃん!
「えっと、あの、私…………」
「いいのよ、無理をしなくていいの」
涙を堪えるように笑った侯爵夫人は、私を抱き締めた。
肌に触れる温かさが、不思議と馴染む。
そして香る侯爵夫人の匂いに、何かが目覚める感覚がした。
「…………お母さま?」
「シャノン?」
不思議と口は当たり前のようにそう呼びかける。
母親をそんな呼び方したことがない。
なのに、この人は私の母親で、お母さまだと確信した。
「お、思い出したのかね?」
「お父さま」
そう、この人はお父さまだ。
私にはお兄さまがいて、お父さまと争って私の気を引こうと遊んでくれた。
今お兄さまは…………そう、全寮制の学校に行ってるから不在。
お兄さまがいない間に私を独占しようとして、もう幼児じゃないとお母さまに怒られることの増えたお父さま。
「あぁ、良かった。良かった…………」
「もう、この子ったら。心配かけさせて」
お父さまとお母さまは、心底私の回復を喜んでくれているようだ。
「どうやら一時的な混乱だったようですな」
ほっとするお医者さんも、この侯爵家お抱えだから幼い頃からの顔見知り。
そう、ここにいる人たちを、私はみんな知っている。
「私、ごめんなさい…………」
私はお母さまから離れて、壁際に並んだ使用人を見た。
普段のすまし顔が維持できずに、心配そうに私を見てるのは、私専用の侍女たち。
「赤毛のエイミー、青い目のブレンダ、金髪のケリー」
一人ずつ指して特徴と名前を口にすると、微笑み返してくれる。
そして俯きがちに一番端にいたのは、最初に私を心配してくれた従僕の男の子。
今となってはどうして知らないなんて思ったのが不思議なくらい、よく知っている相手だった。
「エリオット、ごめんなさい。なんだか、変な夢を見ていて、私が私じゃないみたいだったの。だから、私は誰って聞いたつもりだったんだけど」
「それは…………そう言われても、僕は、いえ、誰でも驚きますよ、お嬢さま」
「それもそうね」
笑ってみせるとようやくエリオットは胸を撫で下ろした。
もう一日安静を言いつけられて、私はベッドの上で考え込む。
「私の名前はシャノン・メイヴィス・メアリ・テルリンガー」
黒く波打つ髪に、テルリンガー家特有の紫の瞳を持つ侯爵令嬢。
両親を認識した途端、物心ついた頃からの記憶が蘇った。
今となっては本当にスマホを持って登校してたあの異国の情景のほうが夢だと思える。
「でも、高校生までの記憶も確かにある。私はいったい、どっちになったのかしら? また頭を打ったら日本の女子高生になるの? 死んだ女子高生が私に生まれ変わったの?」
不思議な感覚だった。
「異世界? それとも平行世界? 国の名前が違うから、異世界のほうかしら?」
頭を打っておかしな夢を見た。
私はそう思うことにした。だって、私はシャノンなんだから。
ベルを手に取り、慣れた動作で二度鳴らす。
「エリオットを呼んできてちょうだい」
「はい、お嬢さま」
寝室の外に控えていた赤毛のエイミーがすぐに応じる。
貴族も平民もない、庶民と呼ばれる人々が暮らす世界。
なのに学校へ行けて、職業は選べて、衣食住に困らない整然とした社会。
今との違いに、私はやはり夢だと一人頷いた。
「お呼びでしょうか、お嬢さま」
「エリオット、ちょっと思い出せないことがあるから教えてほしいの」
「何を思い出せないのでしょう?」
エリオットは険しい表情で枕元にやって来る。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。実はね…………どうして額を打ったのか、全く思い出せないの。確か、エリオットと庭を散策していたはずよね?」
「お嬢さま…………」
溜め息を吐くように呼ばれるこの言い方は、エリオットが怒りながら呆れてる時だ。
「つまり、頭を打ったのは私のせいなのね」
というのはわかるのだけど、全く思い出せないのは本当なのよね。
「はい。散策をしている最中に、お嬢さまが突然駆け出したのです」
「まぁ。駆け出すなんて侯爵令嬢としては怒られてしかるべきね。けれど、それでなんで額だけ痛いのかしら?」
「僕にはただのカラスアゲハに見えたのですが、お嬢さまは紫色だったと仰って」
「紫色?」
カラスアゲハって、一見真っ黒に見えるけど翅の内側に青い光沢や赤い斑点を持つ蝶々よね。
それが、紫? 確かトラックに気づく前に見た蝶々もそんな色をしていた。
…………ただの夢、のはず。倒れる前に見たから、夢にも出たということ?
「お嬢さまが蝶を好まれるのは皆の知るところですが、もう少しご自身の立ち振る舞いに気を配ってください。いきなり走る上に蝶にばかり目を奪われるから、転ばれるんです」
「私転んだの? 頭から?」
「頭と言えば頭ですが、蝶に合わせて方向転換しようとなさって、後ろに倒れました。その時、勢いづいて振り上げた足から靴が脱げ、お嬢さまの額に踵の硬い部分が当たり、今に至ります」
「うわぁ」
「お嬢さまがご自分で招いた結果です。今度からは珍しい蝶を見つけたからと突然走らないでください。必要なら僕が捕まえますから」
「違うわ。私は蝶の危うくも優雅に飛ぶ姿が好きなの。愛でるだけなら形を模した装飾品で十分。蝶は自由に飛ばせておいて」
「わかりました。お嬢さまも、愛でるだけなら走らないでください」
「わかっています」
作り笑いで答えると、エリオットは疑わしそうだ。
自分で言っておいて、蝶が好きすぎるなって、他人ごとみたいな考えが湧く。
髪飾りも服のモチーフもなんでも蝶。
そう言えば、カラスアゲハで紫に光るなんて、まるで黒髪に紫の瞳のシャノンみたい、なんて…………思って…………。
これは、女子高生の記憶。なのに、シャノンみたい?
それは私だけど、私のことをあの日本の女子高生は知らないはずで…………。
「お嬢さま?」
エリオットが声をかけてくる。
けど、また自分のこととして押し寄せてくる女子高生の意識に私は手を焼いて返事をするどころではない。
黒髪、紫の瞳、シャノン、蝶…………そして、スマホ。
『私を誰だと思っているの?』
スマホ画面にそんなテキストと共に笑う高慢そうな令嬢。
そう、あの『不死蝶』の名は、シャノン!
「エ、エリオット、鏡…………鏡を持ってきてちょうだい」
予想以上に震える声が出る。けど、確かめなきゃいけない。
「どうしました? 額が痛みますか?」
エリオットはポケットから手鏡を出して渡してくれた。男の子が持つにしては可愛い花柄。ちょっと気になったけど、今はそれどころじゃない。
私は鏡で自分の顔をよく見た。
大きな瞳に勝ちきそうな眉毛、形の良い唇なのに、笑うとなんだか含みを持った怪しさがある。
お上品なのに腹黒そうで、権力に物を言わせる割りに行動的なこの顔!
…………私、『不死蝶』になってる。
「お嬢さま、どうなさいましたか? …………お嬢さま?」
鏡の中の私は真っ青通り越して顔が白い。エリオットも驚いて私の肩を掴む。
けど答える余裕なんてない。
だって私は成長した先に、数多の死亡フラグが待ってるんだから!
十話まで毎日、十二時更新
次回:バタフライエフェクト