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医師の話から、一馬の置かれた状況が少し見えてきた。
この病院に運ばれてから二日経過しているという。一馬としてはつい昨日金畑ゴールデンホテルに忍び込んだものと感じていただけに、二日間も目を覚まさなかったと言われてもあまり実感が沸かなかった。
『君はすごく治りが早いね。職業柄いろんな患者を診てきたけど、君のようなケースは初めてだよ』
一馬がここに搬送された時、とても危険な状態だった。最も重傷だったのは、転落した際に打ちつけた頭部だった。頭蓋骨が割れ、破片が脳に突き刺さっていた。
さらに、異常なまでに体が衰弱していた。まるで一ヶ月砂漠でさまよっていたかのようだったと医師は言う。
手術をした医師すらも一馬が生きていることに驚き、さらに過酷な手術に耐え切ったことに驚いたと語った。
「健康だけがとりえなんで」
十六年の歳月の中、大きな怪我をしたことがなく、病気らしい病気にもかかったことがない。健康花丸優良児だったのでそう答えてみた。我がことながら大したものだなあ、とのんきに構えていた。
「父さんと母さん、心配してるだろうな。なんて言えばいいんだろ」
問題は、あの時何が起きていたのか一馬自身把握してないことだった。
医師が言うには、ホテルで何かがあったことは確かだがそれが世間に公表されることはないという。病室で出会った少女の関係者(この医師も含めて)によって事件は隠蔽され、なかったことになる。一馬の怪我は階段から落ちたものだと両親には説明されている。
『君はあそこで誰と出会い何があったか思い出せないと言ったね。それはおそらく、頭に強い衝撃を受けたことで記憶が飛んじゃったんだろうね。もしかしたらある日突然思い出すかもしれないし、脳から記憶が削られちゃってて二度と思い出せないかもしれない。後で話を聞かれるかもしれないけど、無理に思い出そうとしなくていいからね。負担をかけちゃいけないよ。リラックス、リラックス』
すでに負担をかけるどころか思い切り頭を叩いていたなんて答えたら、この柔和な医師も般若のごとき怒りを見せるだろうか。
体に異常が見られなかったので――むしろ異常が見あたらなかったからこそ――念のためもう一日入院することになった。
検査が終わり再び病室に戻ってきたところで時刻は日をまたいでいた。窓のカーテンは動かせないようになっているので一馬は起きてから一度も外の様子を目にしていない。日光に当たらないと体内の時計が狂う。
「今までずっと寝てたもんだから、そりゃ眠くならないよな」
ベッドに入るも頭が醒めてしまい、眠れる気がしない。ひとり部屋なので一馬以外誰もおらず、テレビも雑誌もない。興味を引くものがなにもなく、暇つぶしができないのがちょっとした苦痛だった。
「しゃーない。トイレ行ってくるか」
催した訳ではないが、気晴らしに院内をうろつく口実としてトイレに向かうことにした。
病室から出ると、ひんやりとした空気に包まれる。四月の陽気も夜になるとなりを潜め、暗い廊下は異界につながっていると錯覚する。非常灯の緑色の光に誘われるように、一馬は歩みを進めた。
「夜の病院っていうと……出そうだな。何がとは言わんが。あんたのウラミツラミなんか俺には関係ないんだから出ないでくださいお願いします」
精一杯の虚勢を張るが、予想以上にこのシチュエーションが怖かったのできょろきょろと辺りを警戒してしまう。
すれちがう看護師や患者に逐一ビビりながら、ちょっとした散歩を満喫していると、奇妙な音に気付いた。
ズリ、ズリ、と何かを引きずるような音、かすかに聞こえる低い音。モーター音と思しき断続的な低音は駆動する機械のもの?
どうやら進行方向の曲がり角の先から届いているようだ。一馬の脳内の選択肢が現れる。
君子危うきに近づかず。もしくは虎穴に入らずんば、まず隗より始めよ。
「何か違うような。……ええい、男は度胸だ!」
角に身を隠し、顔だけ出す。そして後悔した。
「ひいっ!」
短く悲鳴を上げてしまう。
そこにはホラー映画に出てくる呪いの女さながらに長い髪を垂らした女がいた。床まで届く髪を引きずって、ゆらり、ゆらりと体を揺らしながら歩いている。前髪で隠れて顔は見えない。入院患者なのか、青い患者衣を着ている。
「どうして……引っ張るの。やめて、引っ張らないで……」
さっきから聞こえていた低い音は、どうやらこの女のつぶやき声だったようだ。小さい声だったので近づかなければ内容はわからなかった。
「な、何を引っ張るなって?」
内容はわかっても意味はわからない。つい尋ねてしまってから失敗したと痛感した。
音の正体が判明した時点で踵を返し、一秒でも早く病室に戻り鍵をかけて今見たものを記憶から消去すべきだった。
「そんなに引っ張るから……髪がこんなに……伸びちゃったじゃないのーッ!!!!!」
女の髪がもぞもぞと動き出すと、それが一馬に襲い掛かった!
毛の一本一本が意志を持つように、獲物を縛り上げようと向かってくる。
「うわぁ!? なんだこりゃあ!」
紙一重で髪一重。髪だけに間一髪、転がるようにして女の襲撃を躱した。そしてそのまま離れようと逃走を図る。
「な、何なんだよ今の!? 貞子がテレビのないところに出るんじゃねーっての!」
病院の廊下を走るのは非常識だが、こちらは非常事態だ。見逃してほしい、と思いながら走る。
ちらりと後ろを見た。
「嘘だろ!?」
女は伸びた髪を壁、天井に引っかけて縦横無尽に飛び回ってきた!
「けけけけけけけけけけけけけけけ!!!!!!!!」
奇声を発し追いかけてくる様はまさに伝説のモンスター、メドゥーサのようだった。
「俺はペルセウスかっつーの! 化け物退治には神様が何か武器をくれるのが定番だろ、助けてくれよ神様!」
悪態をつきながらもなんとか病室に逃げ込むことができた。すぐに鍵をかける。
がちゃがちゃとドアを押し開けようと音がする。
と、ふいに静かになった。
一分……二分……不気味な沈黙が続く。
あきらめたのか? 一馬はゆっくり扉に近付いて耳を当てようとする。
「うわっ!」
扉の下の隙間から黒い洪水が這い入ってきた!
それは蠢く髪束。ざわざわと這いあがってドアノブを探り当てると、難なくロックを外した。
扉が開き、ぬうっと女が入ってきた。
「ごめんなさいねー」
長い髪が蛇のように一馬の体に絡みつき縛り上げる。首を絞められ呼吸が困難。意識が朦朧としてきた。
わけがわからない。
この女はなんなんだ!
どうして俺が狙われる!
理不尽に抗おうにも自由は奪われている。
脳への酸素の供給が滞り、視界がぼやけ始めた。
もがくほどの力も抜け、手がだらんと垂れる。
(こんな……わけわからないところで死ぬのか)
行方不明だという、妹の安否だけが心残りだった。
諦めかけたその時、赤い光が飛び込んできた!
「ギャアアアア!」
ボウッ。ボウッ!
女の髪に火が付き、悲鳴を上げながら床を転げ回る。髪の一本一本が縮れていく様子は、大量の黒蛇がのたうち苦しむようだった。
一馬の首を絞めていた髪がゆるんだことで難を逃れる。
「何をするのよぉ! 髪が、私の髪が燃えちゃったじゃないのおお!」
涙を流し、あらん限りの叫びで女が睨み付ける先に、少女がいた。
宮前ありさと名乗り、一馬を助けた少女。
腕を組み、赤いスカーフがなびく。ブレザーは袖を通さず、肩から羽織っている。
彼女は咳き込む一馬を一瞥すると、女に両手を広げてゆっくり近づき、言った。
「あなたの髪はなくなったよ。これでもう誰もあなたの髪を引っ張らないわ」
優しい声音は母性に溢れ、髪が燃えて怒りに燃える女を包み込む。ありさは女の体をそっと抱きしめる。
「あ……そう」
さっきまでの烈火のごとき勢いは鎮火し、女の般若のような顔はだんだんと安らぎを得た赤子のように穏やかなものとなった。ありさがその体をそっと床に横たえると動かなくなった。
「し、死んだのか?」
「原動力だったウラミツラミの元が燃え尽きたことで、行動不能になっただけでしょうね。でもこれで彼女は苦しみから逃れられるきっかけを手に入れた。後のことは彼女の心がけ次第ってことかな」
「心がけって?」
「このまま恨みに捕らわれて生きるか、きれいさっぱり忘れてやり直すか」
できることなら後者を選んでほしいね、と続けた。
騒ぎを聞きつけてばたばたと医師と数人の男が病室に入ってきて、倒れた女を介抱する。この珍妙な出来事になれているのか、てきぱきと作業を行い、手早く終えるとさっさと女を運んで行った。
それを見送って、ありさは口を開く。
「ごめんなさい」
「……どうして謝るんだ?」
勝手に出歩いたことを咎められると思っていただけに、逆に謝られて面食らった。
「この病院はあの女の人みたいに、ちょっと特殊な患者も入院してるの。対抗手段を持たない人を守るために私が待機してたのに、こんなことになってしまって。何て謝ればいいのか……」
うつむいて、本当に申し訳なさそうな顔をする。
どうしたものか、と考えを巡らせると、今の出来事についての興味が沸いてきた。そのことについて尋ねてみる。
「それじゃあさ、教えてくれるか? さっきの人、髪が化け物みたいに伸びてきたように見えたんだ。あれはどういうことなんだ? それに、あんたも」
あんたも、手から炎を出したように見えた。
「逆に聞くけど、どう思った?」
「マンガやアニメ、もしくはホラー映画だな」
「そう。マンガやアニメみたいな空想の能力。でも、これが現実よ。信じる信じないは自由だけど、私たちにとっては現実なの。それに、もしかしたらあなたも無関係ではないかもしれない。
ところで、幻肢痛とか体感症とかって言葉聞いたことない?」
「いや、知らないな」
「幻肢痛っていうのは、手足を切断した患者がなくなったはずの手足に痛みを感じる症状のこと。体感症っていうのは、体に怪我や病気がないのに異常を訴える病気のことなの。そのどちらにも共通していることは、傷がないはずなのに痛いっていうこと」
ありさは言う。
「私たちはこういう、医学的な話から似て非なるものを抱えている。強烈な心の傷とともに受けた苦痛は、怪我が治っても痛みが消えないことがある。あるはずのない傷、幻の傷。
その痛みに苦しみ、苦しみ、苦しみに耐え切れなくなった時、体は苦痛を追い出そうとするの。それが現象として現れ、異能の力となる。私たちはこの力を“ファントムペイン”と呼んでる」
傷が完治しても心の傷まで癒せるとは限らない。トラウマの痛みは体を痛ませ心を痛ませ、やがて呪いとなる。
どうして俺だけこんな目に。
どうして私だけこんな目に。
呪いとは思いの力。
トラウマに耐えられなくなった時、呪詛の念は形となって出力される。
“ファントムペイン”。
呪いの異能。
「………………」
にわかには信じられないような説明だったが、目を疑うような体験をしたばかり。否定する気にならなかった。
「この“ファントムペイン”の能力者……“発症者”はね、みんな心を病んでるの。さっきの人みたいに無差別に人に当たることもある。そういう時はちゃんと理解してあげられる人が抑えてあげなきゃいけないの。“発症者”の“発症者”による、みんなのための組織があって私たちは『互助会』って呼んでるわ。そこに私は所属しているの」
「……じゃあ、あのホテルにいた連中はその『互助会』の人間が任務でやってきたってことか?」
「組織といっても上下関係のない、横の繋がりのものなの。だから任務じゃなくて、集まれる人が集まるってところかな。全国に支部があって、私はこの金畑町の近くの支部に所属してる。そして、私たちがいるところ、事件あり。あの場に迷惑な“発症者”がいたらしいのよ。目的のわからない、暴れるだけの“発症者”を集めた迷惑千万なやつがね! 今回は逃がしちゃったけど、次は必ず捕まえるわ」
ふう、と一息つくと、ありさの体がふらりとよろけた。
「だ、大丈夫か?」
一馬は慌ててその体を支える。女の子らしい甘い匂いがした。
小さく華奢な体つき。ありさも“発症者”なら、その身にも耐えがたい苦痛を受けたのだろうか。自分とそう年の変わらないのに、経験した修羅場の数は段違い。そう思うと、この小さな体が大きく感じた。
「……今、私のことちっちゃいって思った?」
「い、いや、そんなことはとてもとても」
じろりと睨まれたことで、言葉の最後が小さくなった。
どうやらこの少女は体の小ささを気にしているようだ、と一馬は心の目に書き留めた。
「……ありがと。もう大丈夫だよ。なんだかあなたと話してると、兄のことを思い出して気が緩んじゃうわ。さて、そろそろ戻るから、あなたも寝るといいわ。じゃあね」
ひらりと身を翻し、部屋を出ようとする。その背中に向かって一馬は呼び止めた。
「えっと、宮前」
「ありさでいいよ、一馬。何?」
まだ話を聞きたいと思って止めてしまったが、疲れている彼女――ありさのことを考えると、それははばかられた。だから代わりに別のことを尋ねた。
「ありさ。また……会えるか?」
ありさは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になると、すぐに微笑んで、
「うん。きっとね」
と答えた。
ありさが出ていき、静寂が支配する部屋の中、一馬はベッドで横になって今の話を思い返していた。
(ホテルにいたのは“発症者”だった。そんなところにかえでは何の用だったんだ?)
そして、行方不明。学校ではまじめな生徒として素行のいい生活態度だった妹。家族に心配をかけるようなものではなかった。
(……“ファントムペイン”。異能の力、ね)
赤いスカーフをなびかせ、精悍な顔つきで、凛とした少女、ありさ。抱き止めた時の香りが……。
「思い出せるわけないよな……」
閉め切っていた病室には、大量の髪を燃やした煙の臭いが充満していた。