2-1
「どこだここ」
彼が目を覚ました場所は彼の知らないところだった。
白い天井、白いシーツ。清潔感溢れるここは、生活感溢れる彼の家ではないことだけはわかった。
鉛のように重い体を起こしてみる。すぐ横には窓があるがカーテンが閉められていて外の景色は窺えない。反対側は白い仕切が垂れていて周りの様子を知ることができない。
「なんだ。なんなんだこりゃ。なんだって俺はこんなところにいるんだ?」
着ている服が青い患者衣だということに気が付いた。そんな私服を持っているわけがない。
燃えカスのように飛散する思考力で今自分が置かれてた状況を必死に考える。最後に覚えている記憶は、確か……。
「確か、金畑ゴールデンホテルに忍び込んだんだったか。何でだっけ? ……そう、妹が、かえでがテレビに映ってて、その後建物に煙が上がって……。心配になったから迎えに行ったんだ。でも変な奴らに危険だからって止められて。だからこっそり侵入したんだ。そこまでは思い出せたけど、その後どうなったのかがわからない。んー、ダメだ、思い出せねぇ」
頭に靄がかかったように、その先の記憶が不鮮明だった。妹はそこにいたのか、何故自分がこんなところにいるのか、その答えがあるかもしれないのにどうしても思い出すことができなかった。
「このポンコツ頭め。肝心なことが思い出せない。仕方ねぇ、ちょっと手荒だけど、力技に頼ってみるか」
彼がとろうとした解決策は策とも言えない強引なものだった。起き抜けだったからだろう、冷静に考える機能が失われていた。
「ナナメ四十五度から。この辺か……とりゃあーっ!」
先人曰く、写りの悪いテレビは叩けば直る。
過去の映像を鮮明に映し出せない頭も、叩けば治る。
彼は拳を頭上ななめ四十五度まで持ち上げ、気合い一閃、思い切り振りおろした。
「……! ……つーッ」
目の前がスパークしたようにちらつき、頭と手に激しい痛みが走った。
「まだまだぁ!」
衝撃が足りないとみるやいなや、続けてもう一発殴った。
自分の身に何が起こったのかわからない不安と、妹の消息が知れない焦燥感で彼の思考力は大いに鈍っていた。だから、こんなことをしても無駄と気づきながらも「もしかしたら次の一発で思い出すかもしれない」という何の根拠もない自信を捨て去ることができなかった。
「……ああ、ようやく目を覚ましたんだね。って何やってんの?」
自分で自分を殴るという常人には理解しがたい苦痛でしかない行動を、失った記憶を取り戻すためという理由で納得しようとしていたが、それもだんだん薄れてきて、それどころか自分は誰なんだっけ、と目的とは逆の症状が現れるくらい集中していたので、来訪者の存在に気づかなかった。
「ええと……何やってたんだっけ」
「ちょっと、本当に大丈夫!?」
大丈夫かと聞かれたら素直に頷く自信はなかった。
「衛藤一馬。それがあなたの名前でしょ」
名前を呼ぶ少女に一馬は見覚えがない。どこで会ったのかと必死に記憶を手繰り寄せていると、補足が入る。
「覚えてない? 金畑ゴールデンホテルで会ったこと」
「ゴールデンホテルで?」
言われて思い出した。確かにホテルに入るときに出会っていた。
「ああ、そうか。君、あの時の変な奴らと一緒にいた子か」
「変なて。私は宮前。宮前ありさ。よろしくね」
少女はその表現に苦笑して肩を竦めた。
眠そうな目で一馬を見据え、彼女は長い黒髪をかき上げる。ふわりと香水ではない、優しい匂いが広がった。よく見ると彼女が着ている制服は体のサイズに合ってないようで、ブカブカのブレザーは手首を隠れるほど。
「でも、なんだって君みたいな中学生があんなところにいたんだ?」
「失礼な。私はこれでも高校生ですっ」
「そ、そうか、悪い。あんまり、その、大人っぽくみえなかったもんで」
中学生に見えた、というのも彼なりに気を遣って言ったものだった。頬を膨らませて拗ねる彼女の姿はさらにその印象を深めるが、それを口にするのは憚られた。
「まあいいわ。私は仕事であそこにいたの。悪い奴が暴れるっていうんで、私たちはそれを止めようとしていた。それよりも聞きたいのはこっちよ。なんであなた、十階から落ちてきたの? 何があったのか教えてくれる?」
「十階? 何のことだ?」
「ノックスでもモーゼでもないわよ。一馬、あなたはホテルの十階から転落したの。まあ、たまたま途中で引っかかったから助かったようなものだけどね」
十階から落ちた、なんて言われてもわからない。思い出そうとすると記憶に靄がかかっているようで引き出すことがでいない。
「思い出せないのも無理はないよ。あなた、死の淵を彷徨ってたのだから」
「し、死の淵だって?」
穏やかではないありさの言葉にぎょっとする。
「私があなたのことを発見したとき、すでに心肺停止状態だった。天国のお花畑に片足突っ込んだようなものだったから、直前のことを忘れちゃっても仕方ないこと」
金畑から花畑、という言葉が一馬の頭をもたげ、思わず噴き出した。その様子に彼女は訝しげな目を向けた。
「まあ、そんなわけであなたは、二日間ここで寝てたの」
「二日も?」
道理で体が重いわけだ、と腑に落ちた。それよりも、と一馬はどうしても気になることを聞いた。
「かえでは、妹はあそこにいたのか? あんたもあの場にいたなら知ってるんじゃないのか?」
ありさは沈痛な面持ちになる。少しの沈黙をおいて、言いにくそうに口を開いた。
「あなたの妹は……行方不明のようなの」
「え……」
「あなたが入院していることを私の仲間の人がご両親に報告した時に耳にしたそうだよ。二日前から家に帰ってないって」
「なんだよ、それ。行方不明って、なんで……うぐっ」
突然頭が割れるような痛みに襲われた。視界がぐにゃりと歪み、考えることができなくなる。
「ち、ちょっと、大丈夫?」
ありさが体を支えた。一馬の全身から玉のような汗が吹き出てくる。尋常ではない様子にありさは、慌てて外に出て人を呼びに行った。
すぐに白衣を着た男が入ってきた。ありさが呼んだ医師は一馬の容態を確認し、検査を始める。
「まだ無理できる体じゃないね。話はここまでだよ。ゆっくり休んでね」
彼女はそっと退室した。