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1-2

 倒れている女を背に、少女は先を急ぐ。


「恐ろしい相手だった……。うう、気持ち悪い」


 怪奇・痰吐き女はある意味強敵だった。ところ構わず吐かれる痰の異臭は少女の集中力を削ぎ、一発でも体に受ければその臭いが服にこびりつき、無限の絶望を生むことになる。それだけに、たった一度でも攻撃を食らわないように立ち回らなければならなかった。


 階段前の狭いスペースはすぐに臭いが充満した。吐き気をこらえつつもここで戦うのは不利と悟り、戦闘フィールドを開けた場所に移した。


 金畑ゴールデンホテルはその中心部が吹き抜けになっており、ドーナツのような形になっている。少女はこれを、

「和銅カイチンみたい」

 という感想を持った。

 つまりはこの吹き抜けまでくれば臭いがこもることはないと判断し、誘い込んだのだ。


 痰吐き女の攻撃は臭さこそ強烈でやっかいだったが、致命傷となる危険のないものだった。だからこそ、少女の方はむやみに傷つけることに躊躇してしまい、決め手に欠ける戦いが続いた。


「勝手に倒れてくれて本当に良かったよ。私も無駄に疲れずに済んだし」


 “発症者”が持つ異能の力は使えば体を動かすのと同様に体力を消耗する。先のことを考えず暴れることだけが目的だった女性はペース配分を無視して力を使い続け、あっさりと戦闘不能になった。


「これからもあんなのと戦うのかな それはちょっと……嫌だな」


 少女は好戦的な方ではなかったが、どうせ拳を交えるならまともな戦闘力を持った相手と戦いたかった。


 このホテルで暴れている連中のほとんどは下の階で少女の仲間たちと交戦している。隙を見てひとり先行してきたが、誰か同行者を連れてきてもよかったかもしれない、と今更ながら後悔した。


 とはいっても仲間たちは仲間たちで、一般人を誘導しつつ“発症者”の相手をするので手一杯で、ギリギリ少女ひとり抜けるだけの余裕しかなかった。

 ならば、初めから戦力となりえない、あの少年を連れてきても……。


「何考えてるのよ、私。あの人は何の力もない一般人。心細いからって戦いに巻きこんじゃいけない」

 ふと浮かんだ考えを、頭を振って打ち消す。


 ホテルに突入する直前、少女と同年代の少年が乗り込んできた。 

 少年は乱雑に伸びた髪、中肉中背、どこにでもいる学生の身なり。その目は真剣そのものだった。

彼は衛藤一馬と名乗り、この場にいるはずの妹を探しに来たと言った。地元のローカルテレビの生放送がこの金畑ゴールデンホテルで行われていて、そこに妹が映っていたらしい。避難した人たちの中には妹の姿はなく、この建物内に残っているかもしれない。だから兄である自分が迎えに行ってやるのだ、と彼は真摯に訴えた。


 その言葉に少女は、今は亡き兄のことを思い出した。


 これからここは戦場になる、早く避難しろ、という警告にも引かず、ここに妹がいるはずだ、先に行かせろ、の一点張りで強引に突破しようとしていた。さすがに見かねた仲間が彼の首根っこを掴んで外に追い出しに行ったので、その後のことはわからない。


 妹のために危険を顧みない兄。

 その姿は、少女の兄と被って見えた。

 普段は頼りないくせに、妹の危機には真っ先に駆けつけてくる。その最期も、自らの命を代償に少女を救った……


「……行こう」


 辛い記憶が蘇り身も心も痛みだしてきたので、思考をこれからのことに切り替える。吹き抜けまで来てしまったので、ここから階段まで戻るよりはエスカレーターを登った方が早いだろう。一段が低い上に、自動的に運んでくれるはずのステップが今は動いていないので、足を乗せると不思議な違和感を覚える。その感覚に足を取られそうになりながらも、駆けて上の階を目指す。


「ん……え?」


 九階の表示が見え、いよいよ目的が近いという時、視界の隅で何かが動いたような気がした。それは吹き抜け、何もない中空を落下していくものだった。


「…………あ」


 真横を通り過ぎ、それを目で追うと正体がわかった。と同時に少女はエスカレーターを飛ぶように駆け下りていった。


 そんなまさか。

 どうして。

 見間違いであって欲しい。

 そんな思いが胸を支配する。

 一段一段降りるのももどかしく、ほとんど飛び降りるように降りていく。


 あれは……人間だった。

 あれは……人体だった。


 人の体が上階から飛び出し、重力に従って落下していった。

 飛行能力を持たない普通の人間が、高いところから落ちて床に叩き付けられたら。その先のことは考えたくもない。


 不幸中の幸いというべきか、落下した人の体は一階までノンストップのノーロープバンジージャンプにはならず、七階にある出っ張った部分に引っかかった。運よくそこに当たり、さらに運がいいことにバウンドしてもそれ以上落ちはしなかった。


 エスカレーターを降りながら横目で様子を窺うと、スプラッシュでスプラッタな光景はなかった。この先ザクロの果実を食べられなくなるようなトラウマを抱える心配はないが、十階から七階までの三階分の高さを落ちたのだ。彼が無事である保証はどこにもない。現に彼は身じろぎひとつしていない。


「……はあ、はあ」


 息も絶え絶え、少女は彼の元に辿り着く。


 彼は、先ほど外に追い出されたはずの、妹を探しに来た少年だった。


「嘘……」


 横たわる少年は目を閉じたまま動く気配がない。着地の衝撃で頭を打ったのか、血を流している。非常に危険な状態だということが見て取れた。


 慌てて呼吸を確認するも、息をしていない。脈がない。心臓も止まっている。


「い、いや……」


 不意に襲ってきた恐怖に胸が張り裂けそうになる。記憶の奥底に封印していたはずの兄の最期が蘇ってきた。


目の前の少年は兄ではない。そう言い聞かせても、悲しみの奔流を押しとどめることができなかった。


「ダメ……ダメだよ。死んじゃやだよ。妹さんを探してるんでしょ? 見つけなきゃダメじゃない。こんなところで寝てちゃダメだよ」


 一度この少年に兄の面影を重ねてしまった以上、彼の死は兄の死と重なってしまう。到底受け入れがたいものとなっていた。


 もう兄の死を見たくない。

 悲しみに体が震え、涙が勝手に出てくる。

 彼の体から徐々に体温が失われていく。

 命の灯火が、消えようとしていた。

 彼の命はまさに風前の灯火。


「……あ」


 灯火。

 生命の炎。

 炎だというならば、専門分野だ。

 炎だというならば、扱えるはず。


「私たちの力は思いの力。できると思えばなんだってできるはず。なら、私の命の炎をこの人に移せば」


 聖火のように、火を分け与えることができれば、息を吹き返すかもしれない。


 何の根拠もない、ただの思いつきに過ぎない。


「ご都合主義でも何でもでもいい。私の力はこの時のために手に入れたもの。そう思うくらい、いいよね」


 ただの思いつきだからやり方なんてあるわけもないので、とりあえず彼の体に手を置く。あとはただのフィーリング。


 自分の中にある生命の炎を、手から体内に注入するイメージだ。

 強く思い描く。

 すると、体の芯が冷たくなる感覚がした。熱が腕を通り抜け、手のひらから放出する。


(お願い。死なないで!)


 反応が、ない。

 やはりダメなのか……。


「あ……」

 どくん。

 どくん。

 彼の体が熱を取り戻し、止まっていた心臓が再び動き出した。

 彼に触れている手から振動が伝わる。


「やった……」


 血に濡れた顔に赤みが差す。血液の循環が再開したのだ。


 安堵の息を漏らすが、安心するにはまだ早い。心臓が動いても自力で呼吸できないようで、すぐに唇が青くなる。チアノーゼ反応だ。

 彼の顎を持ち上げ、鼻をつまむ。口を覆い、息を吹き込んだ。

 見ず知らずの少年だが、口をつけることに抵抗はなかった。人命救助。それだけしか頭にない。


 繰り返す。死なせないために。

 繰り返す。生かすために。

 やがて、彼の唇から紫色が消えていく。


「やった……」


 ものすごい脱力感と倦怠感に襲われるが、ここで休むわけにはいかない。怪我が治ったわけではないから一刻も早く医者に見せなくてはならない。


「でも」


 自分の任務は上の階にいるとされる黒幕の確保。今彼を連れて戻ってしまうと、逃してしまう恐れがある。


「……行こう」


 迷いは一瞬。

 これが正しい選択である。

 彼の体を担いで、同士のいる下階へ降りていった。

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