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金畑市にある金畑ゴールデンホテル。地名をその名の由来とするその宿泊施設は、黄金の名前に恥じないよう豪華絢爛を究めようとしたホテルだった。地下の駐車場には三百台の車を停めることができ、その上に十階層にわたってそびえ立つ。全客室に金の旗(金畑=金の旗)のオブジェを設置して、エコノミークラスはゴールデンクラスと呼称している。上層に行くほど高級ランクになっていき、華美な内装で目を楽しませ、街の夜景を一望しながらとろけるようなサービスを受けられる。
「ぶっちゃけ悪趣味よね。目がちかちかする」
当然、値段の方もゴールデン。一般の生活を送る人間にとっては縁のないホテルで、観光資源に乏しい地方都市にやってくる旅行者も少ない。地元の人間からすればなぜこんなものを建てたのか不思議で仕方ないという声があるが、だからこそ人に聞かれたくない話をする時に重宝する、という人間がいるようだ。
「お金持ちって金色が好きだよね。ゆりかごから墓場まで金で作らないと気が済まないのかな」
黄金のゆりかごで揺られ、黄金の墓で眠ることを考えて、彼女は身震いした。
鳥肌が立つのはくだらない想像のせいだけではなく、関東の地方都市では四月の夜は肌寒いから。
彼女はそのホテルの階段を駆け上る。
紺のブレザーは地元の高校指定のもの。三つあるボタンは留めておらず、白いブラウスが見え隠れし、赤いネクタイがひらひらと舞う。赤色のネクタイは彼女が通う高校では一年生であることを表している。細くしなやかに伸びる足は黒いタイツで覆われていた。階段に響く靴音は真新しいローファーが立てている。
肩まである長い髪は墨を流したように艶やかな黒色。これから始まる戦いのため緊張感のある、精悍な顔つき。細い首に巻いてある赤いスカーフは燃え盛る炎のよう。悪と戦う戦士のように、彼女が走ると風になびいてはためく。平坦で余分な肉のない体は彼女の動作を邪魔しない機能的な設計だった。
彼女は宿泊客ではない。ある目的があって最上階を目指していた。
金畑ゴールデンホテルは今や混乱の渦中にあった。
怒号、怒声、悲鳴、喚声。人間のあらゆる感情をともなった声が至るところから上がっていた。
今日このホテルにいる人間は大きく三種類に分けられる。今日起こることについて何も知らない一般客や従業員。それらを襲い、暴れることを目的とした集団。襲撃者を止めようとする組織の者たち。
少女はその後者、襲撃者を捕らえようとする組織の人間として、このホテルに潜入していた。
「もう戦いは始まってる。早いところ黒幕を見つけなきゃ」
組織が掴んだ情報によると、今日この時間この場所で宿泊客を狙った大規模な襲撃を行うという。首謀者は組織だって動いているわけではなく、たったひとりの人間が扇動し計画したものらしい。その人物を捕らえることができればこの騒動も収まる。最上階に黒幕がいる。
「……しっかし、なんだってこう、わざわざ一番高いところにいるんだろ。ああ、疲れる」
エレベーターもエスカレーターも動かなかったので、少女は階段を登らなくてはならなかった。組織に属している以上、戦うことが少なくないのでトレーニングを心がけているものの、十階まである階段をひたすら登り続けるのは肉体的にも精神的にもきついものがある。
「今ので何階だっけ。……うう、疲れるなあ」
五階を通り過ぎてようやく半分を登った。
六階の途中、踊り場のところにそれはいた。
「!」
突然降って沸いた危険に少女は素早く反応し、自分に向かって飛ばされたものを避けた。びちゃり、と床に落ちて弾ける。それは液体だった。
「何、この臭い」
液体はただの水ではないようで、鼻をつく悪臭を放っていた。生臭く、吐き気を催す面妖な臭いに思わず顔をしかめる。
「るる……る……るるるるる。どうしてあの人はわたしを捨てたの? わたし、何か悪いことしたかしら」
見上げると、女性がふらふらと今にも転げ落ちそうな危なかしい足取りで階段を下りてきた。二十代半ばくらいの若い女で、緑のベスト、ベージュのスカート。顔が隠れるくらい長い前髪だが、体が揺れるたびにぎらぎらと正気を失った眼光が見え隠れする。
「……“発症者”ね」
少女が戦う相手はこの女性のように、正気じゃない場合が多い。普通の人間が相手ならばさほど苦労せずにあしらえる自信があるが、厄介なことにこの手の連中は総じて恐るべき異能を持っていることだ。今しがた発射された謎の液体も、彼女の異能によるものと予想できる。
「彼はどこ? わたしはどこに行けば会えるの?」
「ねえ、あなた。なにがそんなにあなたを苦しめてるの? よかったら私に話してみない?」
まずは対話から始める。カウンセラーの真似事ではなく、苦しみから解放してやることができれば異能の力は消えて、無駄に戦わなくて済むかもしれないからだ。なるべくなら無駄な戦いは避けて消耗を抑えたい。
階段を降り切って少女と対峙すると、女性は語り始めた。
「聞いてくれるの? るるる……わたしが五年間付き合ってた彼氏はすごくいい人だったの。優しくてかっこよくて稼ぎもいい。わたしの自慢の彼氏だったわ。わたしたちは愛し合っていて、結婚も考えていた。でもある時から会える回数がどんどん減っていって、ついには半年に一度くらいしか顔を合わせられなくなったの。ハーフ織姫と彦星よ。どれだけ辛いかわかる? 会いたいのに会えなくて。さびしくてさびしくて。だから、友達の男の子に相談したの。そのうちにだんだんとその子のことが好きになっちゃって。あ、でももちろん一番好きなのは彼氏よ? 友達とはただの遊び、その場しのぎの恋心よ。でもそれが彼氏にばれちゃって」
「……はあ」
自分から話を振っておいてなんだが、段々嫌気がさしてきた。もう問答無用で戦闘不能にしちゃった方がいいかな、と考えたが一度聞いてしまった以上は最後まで付き合わなければ、と無駄に律儀なところが彼女にはある。
「彼氏は怒るでもなく、ただ一方的に別れを言い渡してきたの。『もうお前はいらない』って言われてアパートを追い出されて、荷物も放り出されて」
それきっと彼氏も浮気してるよ、と口に出そうになったがぐっとこらえた。神経を逆なでしかねない。
「倒れたわたしの顔に彼氏は痰を吐きかけたわ。あの痰の臭さといったら。思い出すたびに彼氏との思いでも蘇ってきて悲しくなるの」
「もしかしてこの液体って、痰なの!?」
“発症者”が持つ力は本人が経験した耐え難い苦痛やトラウマに関連したものになることが多い。この女性が彼氏との出来事で心を病んだというなら、『痰を飛ばす』という能力を発症しても不思議はない。不思議はないが……。
「なんだかなぁ……」
この女性との戦いが非常に嫌になった。このまま全速力で逃げたい衝動に駆られる。ここまでやる気の出ない戦いは珍しいな、と少女は思った。
「あの臭さ、あなたにわかる? あの苦しみ、あなたにわかる? わからないわよね。だったら……るるる、わたしがその体に教えてあげる!」
相手は闘志に燃えていた。
少女はしぶしぶ、といった様子で人差し指を上に向ける。そこに小さな炎が点った。
奇怪な女性が奇妙な術を持っているなら、この少女もまた、普通ではない異能力を持っている。
破壊と想像の象徴。悪を焼灼する正義の焔。
「私はあなたを救済する。その苦しみを全て燃やし尽くしてあげる!」