東向きの窓
朝、目が覚めるとカーテンの合わせから漏れた朝の光が容赦なく僕の目に差し込んで来ていた。
今は何時かと携帯電話に手を伸ばし確認すると五時五十六分だった。起きるには一時間ちかく早い。どうしようか目覚めたてのぼんやりした頭で考え、結局起きることにした。身体を起こし窓の前に行く。
昨日雑に閉めてしまったカーテンを勢いよく開け放つ。すると一瞬目の前が白くなったが、すぐに温かい光に体が包み込まれ、心地よくなり、神秘的だとさえ思えた。僕の部屋は東向きなので朝日が綺麗に見えた。
しばらくそうしていたが、だんだん光がうざったくなり窓から動いた。そして昨日読みかけになっていた小説を机に座って読み始めた。
――ピロピロ
携帯電話のアラームが鳴り、それを止めて階下へと降りる。
居間にはすでにトーストとミルクティがテーブルに並んでいた。トーストをかじりながらテレビを見、ミルクティで流し込む。食事を済ませ、身支度を始めた。洗面所で歯ブラシをしていると母親が台所から顔を出した。
「もう行くの?」
「うん」
通常より早く起きてしまい、何とも落ち着かないのでニュースを見ないで四十分以上早く家を出ることにした。
暦は四月中旬。人の目を楽しませた桜の花はすっかり散り、空を仰げば深緑が道を覆う。その下を通れば夜に冷やされた空気が溜まっていて気持ちよく感じられ、今日は暖かいんだと気づかされた。そういえば今日は五月下旬並の陽気だとお天気お姉さんが言っていた。ルックスは抜群だが話し方が残念なアナウンサーだ。予想しているのは資格持ちで、アナウンサーが言っていることは正しいのかもしれないが、胡散臭く聞こえてしまう。本物が喋っていても信じきれない僕だからだ。
何かを信じきってしまったら、自分が自分でなくなってしまう。そんな風に考えている。
いつもの通学路は、いつもより生徒は少ない。
見かけるのは熱心な野球部員だけだ。僕の横をその野球部員の二台の自転車が続けて駆けていく。前を走っていた男子生徒が頭を後ろを向き、後方に急げと促す。後方はそれに応えスピードを上げる。ここはなだらかな下りで、学校はここより高い所にあり、そのまま行くと登り坂になっている。そのため勢いをつけているのだろう。
前方を見ればその学校が丘の上に佇むんでいる。朝のすんだ空気を通してみるその佇まいは美しいが、また始まってしまうつまらない日常を思うと、いささか霞んで見えた。
教室には女子が一人いた。席は窓側で僕の席からはまるっきり反対側であった。
通常の僕の登校時間はあんまり長く学校にいたくないので遅刻ギリギリ。なので、ほぼクラス全員が揃っていて誰が早く学校に来るのか知らなかった。
あの女子はいつも早いのだろう。机には英語の予習が置かれノートにカリカリ書き込み、時折横にある辞書を開く。いかににも手慣れていて、このまだその女子と僕しかいない、始業前の騒がしさとは打って変わった静寂な教室の空気と一つの風景を形成していた。
そして僕は予習はマメにやるのですることもなく、小説を読むことにした。
五分くらいしたと思う。ふと窓のほうへ目をやると、女子と目があった。しばし妙な時が流れ、先に女子の口が開いた。
「三木君今日は早いね」
「ああ、気まぐれでね」
咄嗟のことでその女子の名前が思い出せない。クラスが変わって大して時間が経っていおらず、それにまるっきり反対側にいる女子を覚えているはずはなかった。
その後二言三言やり取りした。話してみて相手は中々良い子みたいだ。受け答えも気取った所がなく、親しみやすい人柄を感じさせた。僕も年頃の男だ。女子とは仲良くしてみたいと思わぬことはない。しかし心のどこかで歯止めをかけようとしている。会話が終わり、ほっとしている自分がいた。
それからは僕にとって特別な事は何もなく時間と時限が進む。
昼休みは登校中に買ったパンとコーヒー牛乳で簡単に済ませた。
僕は席を立つと他のクラスから来たと思われる女子と自分のクラスの女子がうるさく喋る横をすり抜け廊下に出た。
冷え冷えした廊下に人はまばらで、いるのはイチャイチャしているカップルぐらいだ。僕はただ通り過ぎいだけなのだが、カップルの女子がこっちに睨みをきかせてきた。『ハイハイあなたがたのお邪魔はしませんよ』と軽く鼻で笑ってやると女子の頬が紅潮するのが見て取れた。僕は足早にその場を離れた。
中央階段を最上階まで上がり保健室の角を曲がったところに図書室があり、そこへ入る。入ってすぐ右に貸し借りのカウンター、奥に本棚が並ぶ。僕はカウンターの向かいの新聞コーナーへ行く。
手始めに唯一のスポーツ新聞である日刊を読み、次に朝日ついで読売とパラパラとめくっていく。
目に止まる記事は自殺や他殺といった死にまつわるものばかりだ。こういったものばかり目につくのは自分の精神が病んでいるのかと疑心暗鬼になったこともあったが、落ち着いて一日の新聞記事をチェックしてみると三割は人の死に関するものであった。新聞社は人の死で飯を食っているみたいであった。この人達よりも自分の方がまだましな方だなと思った。
記事を読み進めてあるところで目が止まる。それはB県にある遺跡の発掘調査で新たな発見がなされたことを伝えている。
見れば中国風な服を来た美人群の壁画の写真まであった。ここはたしか飛鳥時代の遺跡はずだ。ぷっくりした頬に小さい目、これでは現在ではブスの部類に入れられてしまうだろう。だが色落ちしたり、所々見えにくくなっていて一種の風格が備わっている。
『われらは美しい』
このいにしえの美女群は主張し続けることはや何百年、誰も貴方を綺麗では無いと言わせない迫力がある。
「おい三木」
横から呼ばれる声が。その方を見ると友人堀田がいた。
「相変わらず、ぼっとしてるな」
「うるせい、俺はそういう顔だ、元々」
はははと笑う堀田。
まったくこいつは憎めない性格をしている。
「何見てんだ?」
堀田の問いかけに新聞の写真を指さす。
「うわぁ汚えな」
その一声で俺は思わずぷっと吹き出してしまった。
何がおかしいんだよ〜と堀田が真顔で聞いてくるのでさらに笑ってしまう。堀田は美女達ではなく、朽ちかけた壁をそう評したのかもしれない。だが僕にはそうは思えなかった。全く、さすがのいにしえの美女達も堀田の前では形無しだなと笑いがなかなか止まらなかった。
本日の授業が終了し玄関を出ると水の匂いがした。コンクリートは灰色から黒へ様変わりしている。雨が降っている。お姉さんの予報は外れた。やはり折りたたみをしのばせておいて正解だった。
校門を出て坂を下る。玄関に溜まっている人はやばい傘ないよと言っている。その中を一人傘を開いて出て来たのは気分が良かった。
今自分の前には薄暗く灰色がかった町並みが展望する。雨によって本当の色を取り戻した空が開けている。
空は実際は青色ではない。そう知ったのは小四で、かなりの衝撃があったのを記憶している。その前後から自分が今まで考えてきたものが感違いで『これが真実である』と創造神に雷でうたれるといったことがしばしば起こりだした。
月や星は己の力で光ってはいないこと、天に飛ばした風船は宇宙まで届かないこと、針千本は所詮破られる約束であること、自由は自由でないこと、いつまでも子供でいられないこと、社会生活のこと、男女のこと――――――――――
世の中にはいかんともし難いことがあまりにも多すぎた。少なくとも僕にとっては。それにぶつかるたびに怯み、すくみ、うろたえ、失望する。でもそこで人生を終えてしまおうと思えないのは、僕の性根がそこまでは軟弱ではないからだろうか。はたまたもっと違うものが大きな要因なのか。
考えごとから頭を戻すと家の付近だった。ふと脇を見ると路端に雨水で出来た一時の小さな川ができていた。すると何処から連れて来たのか、桜の花びらが僅かな水量の流れに身を委ねて川を下っている。
花は泥がつき汚れている。じっと見ているとある考えが浮かぶ。
僕はそこに美を見い出した気がしたのだ。蕾の時にいつ咲くのか期待され、咲けばきれいだと皆の目を奪い、最後になごり雪のごとく散り、人ごとに感慨を抱かせる。桜に日本人が託した思いはここまでである。その散った後の花びらについてはあまり触れてこなかった。
華やかな表舞台を降りた後のスターの末路のように、人に語られない真実を垣間見てしまったような気がする。
人から見えないところでさっと消えていく。その、絶対不可侵の摂理に足掻くことさえせず、身を委せる。最後の最後まで精一杯努力しないのは諦めたからだと思われるだろう。しかし、自分一人が多少寿命が延びたとしても、それは大したことではない。生きるときは生き延びるし、死ぬときは死ぬのだから。必死に頑張るのも必要だが、時には不条理を理解して受け止める、潔さが美しいのだ。
僕の心は今の空とは反対に少し晴れた気がした。
風呂からあがり、自分の部屋へと戻る。
火照った身体を冷やすのに、窓を開けた。春の天気は変わりやすい。夕方に雨を降らした雨雲は過ぎてしまい、月が見えるほど空は晴れている。僕の心がそのまま空に反映されたようだ。
東の空を見ていて映画の『エデンの東』を思い出した。この映画は伝説の俳優ジェームス・ディーンの映画の僅か三作品のうちの初出演のものだ。ディーンは複雑な若者を、その卓越した演技力で演じた名作だ。。
『エデン』は楽園を意味する。そしてそれは昔のキリスト教徒たちによって東にあると考えられた。ヨーロッパの地図から見て最も東なのは、ここの国になる。僕は今楽園にいるらしい。人はユートピアの憧れを遥か遠くの地や架空の地に馳せる。それは無いと分かって、理解していても、ほんの僅かでも、希望を残しておきたかったに違いない。そうでなければ過去から伝わる物語、小説などが生まれることはなかったんだ。
この世はどうやら面白いことがまだまだ在るようだ。
満足感に浸りながら、布団に潜る。明日からはちょっと違う世界が拝めることだろう。
東の更にまた東に視線を向けながら、まどろみへと落ちていった。その中で、
――そうだ、あの子は横瀬さんだ
やっと思い出した。
了