素人芸術論
そう思うと講師の私の眼鏡に対する評価も、意外と妥当だったのかも知れない。いやセンスがないと皮肉る方が、よほど尖っているように見えて、浅薄な価値観しか持っていないだけだろう。
刻めば同じ、みたいな。
私は再び、目を絵に向ける。
やはり画家と言うのは違う。
一見いびつな野菜に見えて、それは何か全く異質な物なのだ。
見る目がある、見る目が違うと言うのも、本当に違うのだ。これまで学んできた作家の自伝も、別な意味合いを帯びてくる。
私程度が、偉大な画家に並べるとか越えられるなどとは幾ら何でも思ったことはないが、今の時代にあった芸術家の一人にぐらいはなれる気でいた。
これは何も私が特別図太い訳ではなく、第一線で働けるとか、過去の画家の価値を落とし兼ねる新しい価値観を自らが作り出せると思っている者も少なくない。
今から思うと何とも傲慢で、恥ずかしさで火が出そうになる。
私なんて芸術家の一人どころか、小さなデザイン事務所で右から左に捨てられていく広告のデザインを手がけたり、埋め草のカットを描くので精一杯に違いない。
多くの卒業生が、そう言う進路に吸い込まれていく実態があるように。
勿論本職の画家達のように、職人から、肖像画家から初めて本式の画家に転向出来ると無邪気に考えていると言うより、疑いも知らず信じているが、そんな甘い物ではないだろう。
己が認められていないことを、新しいことを始めた先駆者達になぞらえて見るのも、先進気取りも甚だしい。
私は己の分を突きつけられた感じだ。
それでも、絵を描くことを止めようとは思えない。自分との落差を見せつける、本物の絵画から目を逸らしたいとも思わない。
それどころか、それでも見たい、知りたいと思う。
今なら知っていたことも、これから聞かされることも、違った印象を与えてくれる筈だ。授業に身を入れなかったことも、申し訳なく思えてくる。
例えば、画家が有名であれば目にする機会が多い分、誰もが知る傑作より知られざる傑作までは望み過ぎだが良作ぐらいは紹介して欲しいよねと、私達は気軽に言ってきた。
選択にも、講師のセンスが表れる。どう言うチョイス?と、首を傾げることも多かった。しかし今は分かる。
《大きな松の木》からは、非凡な画面の切り取り方を。切り取り方が悪ければ、途端に駄作だ。
天才的なセザンヌの模写能力者が、技巧だけ完璧に真似ても、作品に本人が表して見せたような人目を引く絵になる一片の光景としての魅力が、決して作り出せなかったように。
更に《リンゴとオレンジ》に見える、真摯な妥協のない絵との向き合い方。
そしてモネの《カピュシーヌ大通り》に見た独特の色彩感覚と、《旗で飾られたモントルギューユ街》と比較して分かる、写真を実際の体験と同じほどに脳内で体感出来る現実再現力。
どれも知っていた、教えられて知ることの出来ることばかりだ。にも関わらず、今まで私は本当のところなど何も分かっていなかった。ただ知っていたと言うだけで。
そしてスライドは、ゴッホに変わった。印象派の中では強烈な色遣いと筆緻、それらを取らせたゴッホの内面は良く知るところだ。
分かったことは言えば、まるで嵐、奔流だ。
《麦畑と糸杉》空にうねるように描かれた糸杉と、南欧から学んだ焼けた陽光の白さが画面に力強さを与えている。そのエネルギーは奔馬のように激しく、私の目を、心を焼き尽くす。
自分自身も見失いそうだ。眩暈がする。これは人間に耐えられるようなものじゃない。
私は激しく混乱していた。翻弄されている内に、新たな光景が私を襲った。それは圧倒的な力で、殆ど暴力だった。
濃紺の空に白と黄色の星や月が散らばり、影の木々が伸び上がったり踞った獣のように強い存在感を放っている。《星月夜》は宇宙が落ちてくる、迫ってくるようだった。
ゴッホの心には、世界がこんなふうに感じられていたのか。
あまりにも激しい、恐ろしい。
こんなふうに見えるから、精神的に不安定になったのか、精神に問題があるからこんなふうに見えるのか。