絵=窓
そう思うと、あの松の木の構図も符に落ちてくる。見つけ出したと言うより、一つの基準点から作り出されたものなのだ。良く見ると言うのは、基準点を設けられる目のこと。
そう思ってみると講師の紡ぎ出すありきたりの言葉も、知っていた筈の知識も違ったものに見えてくる。
ひねこびた哀れな庭木が、逞しくて可憐な山桜に一瞬で塗り替わったように。
私は幼い子供がプレゼントを待ちわびるようにソワソワして、次の絵画が現れるのを期待する。
セザンヌからモネヘと画家が替わる。
《旗で飾られたモントルギューユ街》赤白青の旗で飾られた街路からは喧噪が聞こえそうだが、色褪せながらも動き出した景色には無音の中に本物の活気があった。
翻りはためく旗、人々の軽い足取り、建物の上階を暖かく煌かす日差し。
有名な《睡蓮》《日傘をさす婦人》のような夢見るようなパステルの色合いはないにも関わらず、絵には躍動感と明るさが満ちている。
勿論セザンヌにしてもモネにしても印象派で、戸外で描くことこそ絵に躍動感を得られるとして絵画を制作しているのだから、それが現れているのは当り前なのだが、改めてその生き生きとしたところに気付かされる。
次に差し替えられた絵は、同じモネでも《カピュシーヌ大通り》だった。
街の冬景色を描いた作品で、左から斜線上に高い建物道の中央の並木、そして反対の建物の壁面の一部と右肩下がりに描かれている。
元々モノクロ調の画面から完全に色が消える。平板と言うより平面の。
「写真から起こされたものとは思えないほど、行き交う人の流れが感じられる筈」
講師はそう言うが、前の絵と比べると随分勢いなく感じられる。だが完全な白黒写真と対比されると、色遣いに繊細で生々しい息吹を感じられた。
頭では分かっているつもりだが、この時代、千八百年後半の写真はカラーじゃないのだ。白黒写真から起こされたことを思うと、自然なリアリティーに驚く。
特に、この時代の彩色写真のグロテスクな生々しさを考えれば、画家の観察眼の確かさが分かる。
それでももっともっと見たいと言う思いが、私に眼鏡の摘みをいじらせていた。
すると景色の質が、またしても変わった。
動きはあっても、現実の映像と言うのではない。人や物の寸法の違うデフォルメされたアニメと言うより、テクスチャを使ったCGと言う感じか。
建物や路面は石材を、木々は落ち葉や樹皮を、人物の服などは布を。
異様なリアルさと同時に作り物めいた、まるで舞台装置のよう。
その上に色の付いた空気の層が、色を変え幅を変えて、人や物に色調の変化を齎していく。
空一つとっても肌みを帯びた真珠に、灰緑、水色にラベンダーを混ぜたような。
その色合いを見ていて思いつく。空想的だがこれは画家の空想ではなく、画家に見えている景色なのではないか。
《積藁》や《ルーアン大聖堂》と言った光の変化を追った連作も、そもそも刻一刻と変化する目に映る色彩の移り替わりを捉えたかったのではないか。
水に色を落としてもすぐに流れ去り、新たな色が落ちてくる。同じ物も変化した色彩のベールを通すと、違う物のような質感や印象を表す。
私だって、そんな美しい一瞬の光景を追いたくてならなくなる。
こんな目で世界が見えたら。
私は教室に視線を移し、何も変わらない光景を見つけてがっかりする。いや、悪い意味で変わったかも知れない。
普段は自己主張に満ち、刺激すら感じられる、それぞれのセンスを競い合うような同級生の洋服も、単なる規格外品の野菜の山のように見えた。
味は同じとか、普通よりはいいと言われても、不揃いで煮上がり焼き上がりを合わせる為に大体似たようなサイズに切り揃えるにはなかなか面倒で、見た目もいる料理には向かない。
刻んでしまうなら別に違いはない。これが個性と言ってみても、しょせん刻めば同じだけの物でしかない。
そんなひねくれたばかりの野菜の山に、同級生が見えてしまう。
軽い嘲笑の的だった講師の服装、タートルネックにジャケットと言う数十年前の画家風の格好の方がまだしもに見える。古き時代への羨望と、己が着ることへの皮肉と……。