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彼の人はセザンヌ

 タッチはセザンヌなのに、絵が持っていた筈の力も美しさも消えている。本人ではなく、まるでセザンヌ専門の模写画家の手になるかのような。

 つまらなくて茫羊として、通り過ぎた後には忘れてしまいそうな、そもそも目にすら止まらない景色だ。

 風景画の場合、描くポイントさえ見つかれば99%まで完成したも同じと言う。

物を見る目が大切だと言うのは知っているが、ここから何を見ろと言うのか。

 広がった景色はグッと縮んで、本来のサイズに戻る。

 私は思わず、アッと声を上げ掛けてしまう。ありがたいことにその声は驚き過ぎて殆ど息しか漏れなかった為に、紙を擦る教室全体の音に紛れて目立つことはなかった。

 私は動悸をする胸を押さえ、ソッと唾を飲み込む。本来の画面構成に戻った絵は、いま初めて見るような感動を私に与えていた。

 直径20cm以下の、松と言うよりパイン材と呼びたいひょろりとした木が、本当の存在感を持って感じられた。

 

 通学路にある家の庭の山桜。

 

 高さ160cmもなく、枝など私の小指よりも細い。葉が付いて、更にベビーピンクの小さな布切れを結んだような一塊ひとかたまりの花が咲いて初めて山桜だと気付いた時、それまでとは違った目で見た。

 その時まで見ていても見ていないの同然で、その時本当の意味で見たことが思い出される。

 その時も、頭では見ているようで見ていないものだと思ったものだが、その体験と今の体験が重なって、ひしひしと胸に迫ってきた。

 私の胸の裡とは関係なく、次のスライドに差し替わる。

 

 同じセザンヌの作品だが、今度のは有名過ぎるほど有名な《オレンジとリンゴ》だ。

 テーブルに敷かれた柄布と白布上に平皿と足付き皿、セザンヌの画内に良く出てくる水差し、盛られ並んだオレンジとリンゴ。

 今度の絵も画面を越えて続いているが、対象物が近すぎる為、灰色の壁と床の一部しか視界に入っていない。

 私はもっと周囲が見えないかと首を回すが、絵が視界から外れると通常の現実の物が見えるだけだ。

 私はもどかしくなって、思わず眼鏡の摘みを触ってしまう。

 すると絵は色褪せた代わりに、光を多用し過ぎて白茶けた映像のような実体となった。絵の具のタッチではない。光の加減で平板に見えるとは言え、三次元だ。

 フッと画面左から、セピア色の陰が差す。

 私は声に出す代わりに、両手をきつく握り締めていた。その力は強まるばかりで、拳を解くことは出来なかった。

 古ぼけた写真のように色と形の曖昧な人影が、テーブルの前を行ったり来たりして手を出し、少し身を引いて眺めることを繰り返す。

 手を出す度に皿や布、果実の位置、時には数さえも変化する。

 丈の長い上着を着て、顎ヒゲを生やした男。はっきりとは見えないが、離れて全体を見る時の目は鷹のような鋭さ、鬼々迫る執念を感じさせられた。

 それは画家本人。セザンヌその人なのだ。講師の説明が耳を凉める。

 曰く。

「セザンヌの静物画は、何度も位置を替えることで生み出された絶妙のバランスだ」

 と、良く知られていることを言っている。

 私の視界では、画面の配置は波のように飽くことなく刻々と変化していた。それを見ている内に、私の心に一つの言葉が浮かぶ。

 ああ。セザンヌは今、絵を描いているのだ。

 配置を決めているのではない。今、絵が描かれているところなのだ。

 頭の中の白いキャンバスに、何度も塗っては削られることを繰り返し、最もぴったりに感じられる描き方を模索しているのだ。

 講師はセザンヌの言葉を引用する。

「自然の中に幾何学を見つけなさい」

 私は、日本の華道の天人地を思い出す。

 華道は言わば、立体芸術だ。高中低の三つの位置取りのアウトラインを定めることで、幅が狭まるどころか様々な表現を可能にしている。

 セザンヌは、知らずに日本の華道の決まりに似たものを見い出していたのかも知れない。

 自然にも幾何学は存在するが、見つけ出すと言うより作り出すものだとセザンヌは言っているような気がする。

 哲学者カントじゃないが、観察者なくして物は存在しない。やはり幾何学は、作り出されたものなのだ。

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