美術の時間
それまで私の眼鏡に気付いていなかった者も、振り返ってこちらを見る。不幸な事故をわざわざ取り上げる無神経に、笑いの代わりに同情の空気が流れた。それは私にはありがたかった。
生徒が義務的に席に着き終わると、チャイムが鳴って講義が始まる。
後期授業の前半が始まって、美術史は近代に入っている。
中学でも高校でも、美術の授業と言えば必ず習う。それぐらい名がある力のある画家が多いのも事実で、目に入る機会も多い為初心者にも入り易いが、美術を選ぶ人間にしたら既に食傷気味になっている。
前期に習ったプリミティブアートや中世頃のトリックアートなど、なかなか参考になるものもあった。インスパイアされたと、作品製作に取り上げた生徒も少なくない。
まぁ、これでもかと言う宗教画にうんざりもさせられたが。
講師はホワイトボードに時折書き付けながら、スライドを替えて説明を加えていく。義務教育よりよほどせっせと紙を擦る筆記具の音がしているが、口述を筆記しているのでも板書を写しているのでもない。
絵の一部を模写したり、デフォルメするのに必死な人間がいるからだ。
一部はボーッとしているだけの者もいる。いつもなら私も絵を描く方だが、今朝のことがあって気が乗らず、ぼんやりとスライドを眺めていた。
眼鏡に違和感があって、知らぬ内に掛けたまま枠に触れていた。摘みに触れるなと男に注意されたことを思い出すより先にいじっていた。
途端に目に映っていたセザンヌの『大きな松の木』が、約百八十度近い視界一杯に広がった。
拡大された?
私は驚いて思わず椅子から腰を浮かす。
机に腹部を、椅子の縁に膝裏をぶつけてギシギシと不協和音を立ててしまう。
講師はそれなりに力のこもった説明を口の端で止めて、音のした方を睨み付けた――つまり私を。
何もかもが拡大倍率された双眼鏡のように見えるかと思ったが、講師の姿に異常はない。私と知って先ほどの仕返しに睨んだ訳ではないが、その後の心持ち苛立ちの強い口調には復讐の気があった。
「何かのもっともな理由でもあったのかね?」
体調不良。変事を知らせるケータイメールなど。眼鏡が変なのは十分変事だが、それを言う訳にはいかない。
私はしどろもどろに、言い訳を作って謝る。
「す、済みません。眼鏡を気にして触っていて落としそうになって」
講師はこれ見よがしな溜め息を吐く。
「これ以上邪魔にならないよう、気を付けなさい」
「はい」
私はしおらしく返事をするが、いま気にしていたのはデザインではない。が、摘みに触れないよう忠告はされていたし、度数が合ったことで、万人に共用可能な特殊な眼鏡だと分かっていた筈だ。
知識では分かっていても、実際に納得するのは別だ。私はバネか何かで戻ったことを期待しつつも、心構えをしたうえでスクリーンの絵に視線を向けた。
絵は広がりをもって、私を迎えた。注意していた為に、表面的には落ち着いていられた。
映写機の解像度は高くないから、拡大したところでぼやけるだけだが、絵は鮮明に見えた。
何よりも、単なる拡大などではない。画面には描かれていない筈の左右上下までが、不自然な切れ目などなく自然に続いている。
『大きな松の木』は、画面中央に問題の松が、背景の松並木を前に鎮座しているだけのどうと言うことのないものだ。
単調な色使い、緑と微かな緑に濁った空と土道の明るいバーントシェンナ、の中に確かに主題の松は存在感を打ち出しているのは、画家の技量と言うものなのは分かる。
絵では切られていて、左の道は画面ぎわ手前で広がっているように見えるが、ここでは二又に別れている。三叉路だ。
奥の道は四五度の角度で松林に消え、手前は視野の百八十度を越えて視界の為に断ち切られている。
そこで足を止めれば誰の目も引かずにはいられない大きな松の木は、広がった景色の中では全く印象に乏しく、そもそも日本の重厚でねじくれた庭木の松を見慣れた私など、どこに焦点を合わせればいいのかも分からない。