壊れた眼鏡
老人は優しいとか立派だなんて私を持ち上げたが、余計な世話を焼いたとしか思えない。無駄なことをして、それで眼鏡を壊すような痛手まで受けた。
痛い出費のぶん、男に当たり散らしておきたい気分だ。
「責任を取ると言うなら、あんたの誼で修理費用は無料にしよう。あんたの命を助けようとしたお礼としてな」
「あ。無料で? それなら良かった」
男は明らかにホッとする。え、どう言うこと?
「この方は修理屋さんなんだよ。腕のいい」
え。嘘。ラッキー。無料。
「え。でも。そんな。いえ。修理費は払いますよ」
嬉しいけれど、それは悪いだろう。
「私がいいと言うんだ。悪いものか。年寄りなので私は、自分の意思を通させて貰いますぞ。善意には善意の報いがあるものだと、若い人に知って貰う機会です。いいことをしても喜ばれないどころか迷惑がられるのでは、善意の行き場がなくなるばかりだ」
「何か僕だけが悪者になっているのは、気の所為でしょうか?」
「器量の大きいところを見せてないんだから、仕方ないだろうに」
両手が塞がっていて怪我までして、助けた礼として壊れた眼鏡の修理費を迫られるんじゃ、男にしたら理不尽な気分だろう。そこまで言われるのも可愛そうだ。
何とかなりそうだと思うと、私は現金なことを思う。
「あー。まぁ、大事にならなくて良かったね。あの方もああ言ってることだし、修理して貰えば。それでお互い丸く収まると言うことで」
まあね。そう言うことならそう言うことで。
「ええっと。修理をお願いしてもいいですか?」
私は老人に向かって、軽く頭を下げる。
「ああ。任せておきなさい。お嬢さん。でも今日、眼鏡がないのは困るかな。今すぐ修理して渡すと言うのは他の仕事もあって無理なんだが、夕方には返して上げられるけどね」
「あ。そちらの都合で構いません。黒板の字とか見えないのが困るけど、日常生活ではなくてもそんなに不便は」
「授業に差し支えるのも困るだろう。あんた。こう言う時に使える物があるんじゃないかね?」
「はぁ。まぁ。ないこともないですけど」
男は老人に言われ、渋々そうに持っていた鞄を、門柱に載せて蓋を開ける。
使える物って何?
私は興味が湧いて、鞄を覗き込む。と。
「覗かないでくれる。男の鞄」
何。私物の旅行用品で下着とかも入っているとか?
一見何やら奇麗な色合いが幾つも見えて思わず釣り込まれたが、男性用下着だったら嫌だ。女性用下着だったらもっとおぞましいが。
老人が声を立てて笑い、
「なぁに。そいつは整理整頓が異様に下手でねぇ。売り物もみんなゴチャゴチャにしてしまう」
「バラさなくていいですよ」
男は拗ねて言い返し、鞄の中を暫く掻き回して、一つの品を取り出した。さっさと鞄を閉めて膝の間に挟む。
出してきたのは、何か色合いが妙だが、形は眼鏡。いや何か、形も変なんだけど。
男は眼鏡をちょっといじってから、私に差し出す。いま持っている方を渡せと言うように、空いた手も差し出している。
貸し賃ってことじゃないよな。
私はつい渡された物と交換してしまう。
うっわー。何、この色と模様。それにこの突起。
「使えると思うけど?」
男に促され、ツルを掛けずに、目の前にレンズをかざした。
「あ。見えた」
何これ。度がちゃんとあってる。二重レンズで焦点を合わせる眼鏡もあるようだが、それとは違うだろう。
このまま代用にはなる。しかし。
「これを掛けるの?」
「見えないよりはマシだろう。大丈夫。意外に誰も人のことなんか見ていない。男が見るのも、露出過多の若い女だけだし」
男は気のない目付きで、私の全身を見ている。レギンスにスカートを合わせるコーデが一般的な男性に不評なのは知っているが、ムカッだ、ムカッ。
眼鏡のレンズを通したお陰で、目鼻のように見える天井の染みレベルから、細かい造作も見えてくる。やっと男の顔も見えたが、イケメンでも男前でも全然なかった。