驚異の目
約束通り、講師からお勧めの美術館や、旅行先での話を聞くのは興味深かった。
彼は私にとって、良い導き手になった。
別の専門学校で同じように講師をしている奥さんにも紹介して貰い、夫婦揃って私に目を掛けてくれて、たまに食事を奢ってくれたりする。
元々の友人達とは疎遠になった。
媚びていると悪意あるからかいをされたり、刺激的に見えた思考や価値観が薄っぺらに見えるようになった所為だ。
代わりに、地味だったり、表向き派手なパフォーマンスをしなくても、真実の片鱗に気付いていると思しい相手と交流するようになった。
月日が経っても眼鏡の効果は、不思議で夢のようだが夢でも見たとは思えないように、目の前の景色が消えたり一瞬で別の場所にいたりと言った不思議も、夢と思うことはなかった。
ちなみに私の生命を奪うほど引き付けた絵は、駅前のビルの看板にあった黒と赤とオレンジのテキスタイルらしい。
闇の中に舞い踊る紅葉のイメージは破片も湧かないが、色遣いから言って他には考えられそうな物がなかった。
色遣いなんかで私はデュフィなどが好きなのだが、抽象画自体は苦手だ。
自分の絵を見られなかったように、本当に好きな絵を見ることも出来なかったが、あまりピンとこない抽象画も見ずに済ませてしまった。
他に見たい物だけでも沢山あって、見きれなかったのだ。
抽象画にしても、眼鏡を使えば思わぬ素晴らしい大きな発見があったのかも知れない。
私を翻弄したテキスタイルだが、調べてみてもデザインした人間のこともいつ描かれたのかも分からなかった。名前も残ることなく大量に消えていくデザインの、一つに過ぎないのだ。
どんな思いが込められていたのかも分からないが、大量消費デザインだから美がないとか何も篭もっていないと言うものではないいい証拠だろう。
篭もっている物が良いか悪いか、美が良いか悪いかは分からないが。
それに引き付けられた為に、私は現実を見失い、命まで危険に晒すことになったのだから。
男の言う通り、確かに危険なものだ。そして芸術それ自体も。
私は自分が死んだと言う六時三七分を忘れなかったし、その時刻を強く意識していた。
その所為で、最初は気付かなかった。
私が死んだ時間ではなく、死ぬ原因となった六時二九分のことは……。
バスに衝突した時間から逆上って一分。私の時間は巻き戻された。
二八分から二九分に掛けての一分の間に、私は妙な物を見られることに、私は偶然気が付いた。
私の死はねじ曲げられたけれど、そこに何の問題もない訳ではなかったのだ。代償が必要と言うなら、副作用もあるのではないか。
僅か一分の間だけ、私の目はこの世に無い物を見つけ出せる。
三日月の下、静かに暮れなずむ空を行く帆船。
空き地にふと現れた、蔦の巻き付いた古びた洋館。
中央分離帯から、梯子のように伸びて光る花。
雨の中、クルクルと舞い踊る薄藍色の龍。
私の死と生が混じり合った時間、私の目は魔法の存在を見られるらしい。
目にする物は美しいが、その中に凄みや膚が泡立つ恐さ薄気味悪さを感じる時がある。魔法が危険だと言うのは、本当なのだろう。
見つけても、見なかったフリをすることは覚えた。今のところ身の危険や、精神の変調までは感じていない。
それとも見ているのは幻で、それこそ精神が変調を来しているのかも知れないが、私は暗い可能性は努めて考えない。そして例え見るだけとは言っても、私は少しは彼等の世界に近付けたのではないか。
眼鏡の名はウォンダァレフだと聞いた時、人名かブランド名かと思ったが、ウォンダァ、ワンダー、脅威の、レフは一眼レフとかとの造語だろう。
自分の新しい視覚に気付いた私は、私の前で無情にも閉ざされた生け垣に駆けつけ、道が開くのを見られないかと思ったが、その時刻が来ても生け垣に変化はなかった。
だが私は、諦めた訳ではない。
あの運命の日から、もうすぐ一年になろうとしている。
見る目を持った人が絵の真髄を不確かながらも見抜いてしまうように、私の勘か魂のようなものが告げているのだ。
私が死んだ日の同じ時刻こそ、何かが起こるに相応しいと。
祥月命日のその時刻には、少しのお洒落とちょっとした手土産持参で、あの生け垣の前に立ってみるつもりでいる。
あのお爺さんの家に辿り付けたら、今度こそ眼鏡を修理して貰ったお礼を直接言って、お土産を手渡そう。
そして、私を力尽くで追い出した不躾な青年の連絡先を教えて貰うのだ。
奴にもう一度会ったら、女性の扱い方をしっかり教えてやる必要がある。
それに、例え職業柄と言え黒で統一するならするでのお洒落のやりようも、伝授してやるべきだ。
あれじゃあ見る人は、良くても胡散臭い人としか思わない。
ほら、今夜もまた不思議な時間が近付いてくる。
秋口の、夕暮れには遅く夜と言うには早いような挟間の時刻。
魔と現が交わる時間。
昔からそんな危うい時刻を、誰が彼か分からないと言う意味でたれそかれ、たそがれ、黄昏時と呼んだ。たった一分の特別な時間を堪能しようと私の目が、辺りを隈なく走査する。
ああ。あそこに見えるあれも……。
私の目の中に、奇跡のような魔法が現れていく。
脅威の眼鏡を失った、才能を失った代わりのように、私の脅威の目が開く。
最後まで読んで下さった奇特な方、ありがとうございました。
黒ずくめの男と彼の不思議な道具を巡るお話は、他にも幾つかありますが、需要がなさそうなのでここで終わっておきます。