再び、黒ずくめの男
画家として認められた者だけが、芸術家ではないと言う……。
私は眼鏡の力に捕らわれていて、どうやって眼鏡を自分の物にするかとか深く考えていなかった。
私は、いつも利用している最寄り駅で降りる。絵を捜してキョロキョロして、いつの時代のおのぼりさんか不審者と思われることも気にしなかった。
駅前のロータリー。
それは、いきなりきた。
目の中一杯に飛び込んでくる、闇の中に舞い落ちる紅葉の群れ。
魂を奪われるほどに美しく荘厳で、そして恐いほどの情念を感じる。
落ちていくのに終わりではない。身を削ぎながら歓喜している。
誰が、どんな心が、この絵を作り上げたのか。知りたい。見たい。
私はもう馴れた眼鏡の摘みに、指を走らせる。
私に教えて、真実を。
視界を占める赤い葉っぱの群舞が切り替わる一時、私の目には別な物が一杯に広がっていた。
のしかかってくるようなバスの正面。大きなフロントガラスの向こうで、驚愕に目を剥く初老の運転手。何が起きているか、理解する暇もなかった。
一瞬遅れでやってきた、爆発するような光。鋭いブレーキの音。身体が砕けたような痛み。
私はその刹那に、悟る。
バスに輓かれた。私は死ぬ。
私は何も、考えられなくなる。
その後で、辺りが薄暗いと気付く。
目が見える。身体は痛まない。
私は椅子に座っていた。
パチパチと言う、微かな耳馴れない音。豆球のような暗く暖かい光の源は、暖炉の火だ。
弾けるのは、薪の燃えている音だった。
「え。何、ここ。どうなってるの?」
「修理屋さんの部屋を借りてる。これ。君の眼鏡」
室内でも帽子を被ったまま、部屋の影から分離したように黒ずくめの男が私の前に現れ出て、片手に私の眼鏡を差し出していた。
「あ、あんた。朝の男」
交換にいま掛けている眼鏡を返せと言うように、反対の手も突き出す。私は咄嗟に、眼鏡を守るように枠を押さえる。
男は溜め息を吐きつつ、面倒臭そうに口を利いた。
「摘みに触るなって言っても、聞く筈がないよな。青ヒゲ然り、見るなの座敷然り。洋の東西を問わない。あれらは本当に見せたくなかった訳じゃないし、俺の場合は知られたかった訳でもないけど、渡したからには嫌でも責任は出てくるよな。何よりも渡した物の所為となると、寝覚めも悪い」
男は独り言めいた訳の分からないことを、ブツブツ言う。
ただ、私が眼鏡の別の使い道を知ったことは気付いているらしい。
わざとじゃないのに……。
悪びれるより前に、記憶の辻褄が合わないことに私は混乱する。
バスに跳ね飛ばされたと思ったら、私は部屋の中で私に眼鏡を渡した張本人、眼鏡の壊れた原因でもある男と出合っているのだ。
これは何かの魔法?
この眼鏡を借りた時から、私はずっと不思議な夢を見ていたのか。実際には、何処にも行っていなかったとか。
私の戸惑いに気付いた男が、
「目の前にバスがきてぶつかった衝撃を感じた時、君は死ぬと思っただろう?」
ほんの一瞬のことだが、ついさっきの恐怖と、動かしようのない感覚が甦る。
男は何の配慮もなく、次の言葉を放った。
「実際、君は死んだ。肺に、折れた肋骨が刺さって出血多量で搬送中の救急車の中、六時三七分に死亡が確認されている。君が事故に遭う六時二九分から一分、時間を巻き戻して、今は六時三十分ジャスト。君の命は助かったが、それには対価が当然ある。君の生命と、君の芸術的生命を交換したんだ。君の命の代わりに、君の芸術が死んだ。偉大な才能なら、芸術家生命の終わりと命の終わりは一緒だけど、ちっぽけな才能じゃ命と引き換えるほどの価値もない。まあ小さくても君が他にそれほど大切にしている物はないから、命と引き合いにする価値はあると言うことだな」
死んだなんて馬鹿な、とは思えなかった。
衝撃の後、この部屋のいることに気付く空白の合間に、まるで人事ながらも断片的に覚えていることがある。
悲鳴、慌ただしい騒ぎ声、サイレンの音、抱き上げられる浮遊感、切羽詰まった呼び掛け。消毒アルコールの臭気。それ以上に臭う、錆びて生臭く甘ったるいような血の香り。
確かに私は死に掛けていた。そして死んだのだろう。こうして甦るまでは。
私は助かり、代わりに私の芸術が死んだ。
芸術が死ぬってどう言うこと。
だが、私の死は書き替えられたのだ。
科学で出来なくても、理屈は分からなくても、才能は命と引き換えに出来るのだろう。
私の才能は消えた。私にもそれまでは才能があったのか。しかし――。
「ち、ちっぽけってね」
「客観的事実だよ。けなした訳でも、見下してる訳でもないから。ちっぽけでも本人にとっては大切だよね。命と同じぐらい。でも、命には代えられない。才能の方が大事だから死なせてくれと言うのは、聞かないから」