講師との対話 1
私は授業後講師の元に行き、迷惑を掛けたことを詫びた上で、これまでの授業で見たスライドを視聴したいと頼んでみた。
余計な手間だの過分な望みだのと迷惑がられるかと思ったが、笑顔で講師は快諾した。
あとで友人は、笑いながら、実は私に気があるのかもなどと言った。冗談にまぎらわせているが、本当にそうだった場合を警戒する様子もある。勿論彼女が、講師に気がある訳ではない。
どんな相手でも自分以外がモテれば気になるのが女友達と言うものだし、講師からコネが得られることを心配する必要もあった。
午後のデッサンの一コマと放課後一杯を使って、空いている資料室と映写装置一式を借りて、私は眼鏡を通して新たな目で様々な絵画と出合った。
校舎の使用時間の許す限り利用する気でいたが、講師に声を掛けられた時は終了間際になっていたことにも気付かないほど没頭していた。
一応の確認に見えた講師も、私を見つけて驚いていた。
「あれ。まだいたのか?」
「す、済みません。つい夢中になって」
講師は咎めるどころか、満足げに微笑む。
「勿論。構わない。その為に資料はあるんだから。絵画にも、出合うに相応しい時があるものだ。描き手自体、精神的環境的変化で作品に変化が与えられるんだ。見る側だって、見え方感じ方が変わってきて当然だろう? 君は、良い出合いができたらしいね」
生徒をよく見ている、分かっていることに私も驚いた。
芸術だけでも食えず他に仕事がない為の腰掛けで、後進に先を越される心配で生徒など疏んでいるかと思っていて、教えることに情熱があるとも思っていなかった。
私は恥ずかしさを覚える。
「今まで何を見てたんだろうって。時間を無駄にしてたのが、本当に悔しい」
私に恥ずかしさを与えるのは、自力で辿り付いたのではなく眼鏡のお陰だったからでもある。講師はそんなことまではもちろん分からない。
「早く前に進みたいと焦る気持ちは分かるが、気付けさえすればいつでも過去は取り戻せると思うよ」
「だといいんですけど」
「美術の教科書などで見られるのは良い反面、下手に見慣れてしまうのが問題だ。僕の場合、二十歳前後の頃まで、肖像画なんてと馬鹿にしていた。美化した物も、写実性も、性格を捉えた物も、雑誌のピンナップ以上の意味も価値も認めていなかった」
そこまでは行かないが写実的な物は、写真と変わらないと私も思っていた。技術さえあれば、機械的に残せるものだと。
「フランスに留学した時、ルーブル美術館で生の肖像画に接した。ヴァン・ダイク。ゲインズバラ。ジョシュア・レノルズ」
宮廷で持てはやされた肖像画家達。
写真に席を譲れるような細密な絵すら、技巧以上のものがあった。画家は肖像画の中にその時を、その人の今を閉じ込めていた。
傲巌さや慎ましさ、気怠さ思慮の浅さ。良い物も悪い物も問わず、その人のある時を永久に生かそうとした。
移ろうのは外見だけではない。心もまた不変の物ではない。変わってしまう物を留めようとする、変化に対する強い哀惜。何よりも、愛しいものとして描かれていた。
金の為、人気に応える為、顔以外の弟子への分業時間短縮。それらの事実も、画家が画布に向かった時には何の意味もない。
ただ対象への飽くなき追求と、濃密な交流があるだけなのだ。
「本物を見た時に、恥ずかしながら涙が出た。描かれた人達が、まるで親しい相手のように感じられて強い思慕が湧き、今はもう亡いことへ深い哀悼の念を感じたんだ。実際は言われているような、金銭や名誉の為のやっつけ仕事に過ぎないのかも知れないがね。絵筆の跡や色調の境界のにじみに画家の心を見て、その心にモデルヘの強い愛情を見たように、僕には思えてしまっただけかも知れない」
「違います。本当に画家は描いている時点では、全身全霊を捧げているんです。だから画家なんです」
他人の力など使わずに、自力で真実に辿り付いている講師ヘの尊敬と、正しいことを伝えたくてそう言うが、口にすると単なる盲目的な美術の賛美者の発言のようになってしまう。
だが他の言葉を、私は思いつかない。
眼鏡を通して真実を見た人なら、もう一つの意味を汲んで貰えるだろう。