芸術家の狂気
脳や精神が病気だったり、特殊な機能を持った人間には、世界の感じられ方は違うのだと言う。
鳥の鳴き声や風音すら音階と感じられる絶対音感、音に色彩を感じる人、難読症などで文字が踊ったり鏡文字になる。
見方に違いがあることは分かったし、画家の視線を持ちたいとも思ったが、その考えは甘かった。こんな物を見ていて、良く絵を描く余裕があったものだ。
いや、そうじゃない。押し潰され、押し流されない為に己を保つ方法が、絵を描くことだったのだ。
お金の為や、自己表現の手段なんて言葉が、上っ面だけの薄っぺらなものに見える。画作は、ゴッホにとってやむにやまれぬものだった。
ゴッホだけじゃない。他の画家だってそうなのではないか。
お金を得るにしても、裕福でないどころか飢えを知る多くの画家にとっても、生きる為と言う切羽詰まった希求があっただろう。
私がゴッホの絵から受けていた激しさは、ゴッホ自身が受けていた激しさに全く及ばない。他の画家は他の画家で鋭い独特の感度を持っていて、そこから最大限の物を引き出しているに違いない。
私ときたら、外部から受け取る情報量は少ないし、絵を描く衝動も低い。
自分としては絵描き向きだとか絵描き魂を持っていると思いたくなるし、確かに紙と筆記具があるとついスケッチを始めてしまうが、それは気に入りの癖のようなものだ。
止めようのない衝動でも、息を吸ったり吐いたりするような自然に備わった性質とも違う。愛着のある、暇潰しの癖。
私が思考まで混乱して勢い良く流れ、ある意味普段以上に深く明晰な思考の流れに浸っていると、現実に引き戻された。
肩を揺すられ、訝かしげな講師の目に見下ろされている。
「おい。君。どうした?」
私の頭から、せっかく掴んだ真理が飛び去る。
邪魔されたことを恨むより疏むより、今の状況を思い出して私は慌てた。私は一人でいた訳でも、自分の部屋にいた訳でもない。
先ほどは自分が声を上げ掛けたり立ち上がり掛けた意識があるが、今は自分がどんな態度を取っていたか全く思い出せない。
そもそも講師が近寄っていたことさえ、気付いていなかったのだ。
覚えていないが、端から見て変に見える様子だったのは想像がつく。
隣席の友人を見ると、心配はしつつも関わりを避けたがる怯む気配が感じられた。私は何か口走ったり妙な動きでもしたのだろうが、一体何を言ったりしたのだろう。
授業の邪魔になったことははっきりしている。今度こそ講師に怒られても、全く仕方がなかった。
私は言葉にならない意味不明の音を、漏らすしか出来ない。
「所詮借物。きちんと合わせて買った訳じゃないから、本当はレンズが合っていないんじゃないか。それじゃあ気分が悪くなって、当然だ。眼鏡は取って、少し目を休ませておきなさい。無理に見る必要もないから」
講師の言葉には皮肉ったり不機嫌な色はなく、ただひたすら案じる調子しかなかった。よほど体調不良に見えるらしい。
「済みません、大丈夫です」と私は言うが、講師の勘違いをこれ幸いに、何か知らぬが私の言動も眼鏡の所為で気持ちが悪くなった為にしておく。
画家や見え方にもよるのだろうが、訳が分からなくなってしまうのは私も少し恐かった。
私は眼鏡を外し、スライドが変わる度に恐る恐る眼鏡を目にかざし、どう見えるか確認する。
いったん外すと不思議な機能が働かないかと心配したが、そんなこともない。
その後の授業で取り上げられた画家や作品の中では、ゴッホのような意味合いでの衝撃を受ける物はありがたいことになかった。
それでも見慣れていた作品が別物として感じられるのが、私には驚きであり興奮であり喜びだ。
今までの授業で見てきた絵も、この眼鏡を通したらどう見えるのかとても気になる。
試しに資料集の絵を眼鏡で眺めると、スライドと同じような変化はあった。しかし絵が小さいと細部が分かりにくい。
スライドからはみ出て絵の続きが見えたりするので、どんな大きさの絵でも拡大されるかと思ったが、元の絵の大きさからあまり変わらず、比率が決まっているらしい。
視界をほぼ一杯に埋めようとしたら、絵は画集などに収まる以上のサイズがいいようだ。