君が、死に微笑む前に
急速に意識が浮上する。
覚醒に近づくその感覚を、抵抗せずに受け入れて、妙に重たい瞼を押し開く。
「……やっぱり、病院」
視界にいっぱいに映る白い室内に、窓から注ぐ暖かな光。
昨夜の記憶は間違いではなかったらしい。
俺は今、病院の個室のベッドに居る。
霞がかった頭に、何故病院に居るのか、という疑問がぼんやりと湧いてくる。
昨日は確か、いつもと同じように曲を作って、ただそれだけで──
「あぁ、そうか……」
左腕を持ち上げて視線を向ければ、そこに繋がる点滴の他に、手首に巻かれる見慣れた白い包帯が存在を主張している。
いつもと同じだった。
いつもと同じで、曲を作り、曲は作り終えたけど、彼女の曲は完成しなかった。
そして、いつもと同じ様に、衝動に駆られた。
ただ、その時間と衝動の大きさが、いつもとは違った。
最近は、彼女のことを夢で見ることが多くて、眠れなかったんだ。
だから、寝ずに曲を作っていて、そして、明け方に曲を作り終えた。
あんな時間だったのに助かったということは、あの義兄はかなり早い時間に様子を見に来たのだろうか。
病院に運ばれるほどの事態は初めてだったから、義兄はさぞ慌てたことだろうな。
「そろそろ、終わりが近いかな……?」
小さな呟きに、ほんの少しの嘲笑がまじる。
きっと、曲が完成するまで、この調和を失った乱れた音の羅列たちは、俺を作曲へと駆り立てるだろう。
作りたいものが作れない。
俺にとっては、有り得ない状態。
だから、苦しくて、だけどたぶん、完成しても、同じこと。
いたちごっこのゴールは、もう、すぐそこだ。
コンコンッ
「……?どうぞ」
看護師か、もしくは義兄だろうか。
義兄だとしたら、また無意味な抵抗をされるのだろう。
本当に、笑えるくらいに小さな抵抗を──
「ぇ?」
病室に入室してきたのは二人だった。
看護師でも、義兄でもない。
たった一度だけ顔を合わせたことのある、中年くらいの夫婦。
「な、んで、あなたがたが……」
重い体にムチを打ちながら、よろよろと上半身を起こす。
声が震えてしまったのは、きっと、無理に体に力を入れた所為。
頭の中で、驚愕と困惑、不安が渦巻いている。
まるで、いつかの姉さんのようだ。
「無理に体を起こさなくてもいい。君は、本当に危ないところだったんだよ」
混乱する俺を他所に、なんとか起こした体を、元の体勢に戻される。
その声も仕草も、そして表情でさえも、酷く優しげで、どこか憐憫の情も混じっている。
それが、余計に混乱を酷くさせると共に、とても恐ろしい。
「すまないね、本来なら君がもっと回復してから来るべきなんだろうけれど……今回のこともあるから、早く会うべきだと思ってね。……お通夜の時以来だが、だいぶ痩せてしまったみたいだね」
動揺する俺を宥めるような、 ゆったりとした口調。
その目にも確かに、同じ色が見える。
「……なぜ、ここに?」
声が震える。
ベッドに沈んだ体は鉛のように重い。
「なんで、おれなんかに、そんな……」
優しい色だ。
ただ純粋に、優しい色。
俺が今、最も怖い色。
「おれの、せいなのに。おれなんかに、であったから」
怖い。怖い。怖い。
その色が反転して欲しくて、俺の欲しい色になって欲しくて。
俺の口からは、勝手に言葉がこぼれ落ちていく。
「ごめ、なさ……ごめん、なさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
視界が歪む。
あの人たちの優しげな顔が歪む。
本当に歪んでくれたなら、良かったのに。
「おれのせい。おれのせいなんです。おれが、おれがっ」
「もういいよ。もういいんだ」
俺の言葉を遮る、強く優しい声と共に、俺の左手があたたかく包まれる。
奥さんが、泣きながら俺の左手を握っている。
旦那さんが、悲しそうに顔を歪めている。
そうじゃない、そうじゃないんだっ!
悲しんでほしいんじゃない、俺は──
「君が、僕たちに怒りをぶつけて欲しいと思っていることは、分かっているよ」
心臓が止まるかと思った。
呼吸が上手く出来なくて、喉が小さく痙攣する。
「でもね、僕たちは、君に怒りなんて、これっぽっちも抱いていない。抱く訳が無い」
違う、駄目だよ、そうじゃない。
「君は、あの子の、とても大切な人だったんだから」
こんな時でさえ、音の羅列は止んでくれないのに。
「もっとも、君のことを知ったのは、つい最近なんだ。あの子の、日記を、ようやく読もうと思えてね」
微笑んでいる。
その瞳に、確かな哀しみを帯びながら。
それでも、この人達は、笑顔を見せている。
「あの子は昔から、毎日欠かさず日記を記していたんだ。ヴァイオリニストになりたいと言い出した時から、ずっとね」
奥さんが、鞄の中から一冊の本を取り出し、俺に差し出す。
全体が赤色で、縁に金色の装飾がなされたそれが、彼女の日記なのだろう。
「日記にはいつも、その日のヴァイオリンの演奏についてのことばかり書かれていて、たまに違うことも書かれていたけれど、本当に希で。たぶん、その日記には、あの子にとって大切で、心に残ったことを書いていたんだと思うわ」
彼女に似た、否、彼女がそっくりだったのだろう。
あの穏やかな、花開くような笑顔。
俺が好きだった、あの笑顔だ。
俺には無い、あの笑顔が、また俺の前にある。
「高校生になってからは、演奏に対する悩みが多く書かれるようになっていた。当時の僕たちも、あの子の様子がおかしいことには気付いてはいたんだ。でも、僕たちには、あの子の悩みを解決してあげることはできなかった」
「私たちは、音楽とは無縁の人間だったから、あの子の悩みの解決どころか、悩み自体が理解できなかったの」
「でも、悩んで苦しんで、笑顔が陰っていっていたあの子が、ある日を境に、昔の様に楽しそうにヴァイオリンを弾くようになった。そして、ちょうどその頃の日記に、初めて、あの子以外の誰かのことが書かれるようになった」
優しい眼差しだ。
穏やかな笑顔だ。
暖かな雰囲気だ。
彼女と同じ、眩しいくらいに光を湛えた存在だ。
「日記には、名前は書かれていなかった。秘密なのだと、とても嬉しそうな言葉と共に、感謝の言葉が書かれていたよ」
「わたし達からもお礼を言わせて頂戴。ありがとう、本当にありがとう。あの子の心を救ってくれて、あの子の夢を潰えさせないでくれて、本当にありがとう」
音が、回る、廻る。
底で響き続けるだけだった音たちが、弾け出す。
忘れていたその感覚に、体が震えた。
「ぁ、ありがとう、なんて……そんなの、俺の方……なのにっ……」
嗚咽で言葉が続かない。
俺の全ては音が表現してくれる。
いつも、いつだってそうだった。
じゃぁ、今は?
雫が頬を伝う。
視界が晴れる。
でも、またすぐに視界が歪む。
まるで壊れた蛇口のようだ。
昨日までは、錆び付いて、まともに回りすらしなかったのに。
「彼女が、救われたというのなら、それは、俺も同じでっ……潰えなかったのは、俺も同じで……だから、だからっ、お礼を言うのは、俺の方なのにっ!ありがとうって、それすら、もう、もうっ……!」
腕の中の赤を掻き抱く。
もう触れられない存在の代わりに。
もう、言葉すら交わせないから。
──それから俺は、ただただ泣き続けた。
奥さんは耐えられずに涙を流し、旦那さんはそんな俺と奥さんの背を宥めながら見守り続けてくれた。
そしてそれは、義兄が、姉さんを連れて様子を見に来るまで続き、最終的には、五人で大号泣して看護師さんたちから生暖かい目で見守られると言う形で終止符をうった。
ちなみに、お二人を俺の元に連れてきたのは義兄だったらしい。
現状を打破する方法を考えて考えて考えて、考え抜いてのことだったようだ。
姉さんを連れてきたのも、説得に説得を重ねての苦労の成果だとか。
義兄のことを、ほんの少しだけ見直したのは、秘密だ。
そして、俺は今日、やっとこの病室を後にできる。
なんだかんだあったが、長期に渡る不摂生が祟ったり、精神的なケアをするためだったりとかで、しばらくの入院を余儀なくされた俺だったが、ようやく退院だ。
義兄の迎えを待ちながら、整理された荷物の中から、唯一の赤を取り出し、なんの気なしに眺める。
この入院中、俺は一度も作曲をしていない。
音の羅列たちは相変わらずだけど、その音たちは確かに変わった。
いや、元に戻ったと言うべきなのだろうか。
乱雑ではあるけれど、そこにはちゃんと秩序が存在している。
栞紐のはさまれたページを開き、書き綴られた文字たちを目で追う。
他のページよりも少ない文章量。
だけど、確かに他よりも弾んだ、心踊っているかのような文字たち。
俺たちが出会った、あの日のページ。
瞳を閉じて、思いを馳せる。
俺は、認めなくちゃいけない。
彼女はもう、居ないのだという事を。
生きた彼女はもう居ない。
死んだ彼女ももう居ない。
居ないから、完成しない。
だから、作ろう。
今度こそ、完成させよう。
居なくなってしまった彼女への曲を。
俺にできる最後の手向けを、約束を、君に。
20XX年 8月XX日 ㈰ 晴れ
今日、ここに何を書くか。
最近では、そんなことを思いながら、鬱々と書き始めていたけれど、今日は違います。
だって今日は、最初から、書くことなんて決まってる。
私は今日、とても衝撃的で、感動的で、そして、運命的な出会いをしました。
ずっとずっと悩んでいたことが、一瞬で軽いものになってしまった衝撃。
ずっとずっと憧れていた、尊敬する人に出会えた感動。
そして、その人が、私と何ら変わらない普通な、それこそ私と同じように小さなことで悩んだり、落ち込んだりもする、本当に普通の人だったという、その事実が、私は何よりも嬉しかった。
そんな、素敵な出会いをした今日は、最っ高に良い日でした。
文句無しに、最高な日でした。
その人が誰かっていうのは、万が一があると困るので書かないでおきます。
あの人とも約束したので、秘密なのです。
ふふっ、すごく大きな秘密ができちゃったな。
でも、それ以上に、すごく大切な秘密です。
あぁもう、今日は興奮しすぎて文章支離滅裂になってるよ。
とりあえず今日は、落ち着くために一旦ここまでにして、また明日色々と書こうと思います。
でも、最後に少しだけ。
私、ヴァイオリンをやっていてよかった。
続けていてよかった。
辞めないで、よかった。
音楽って、やっぱり楽しいね。
今日、心からそう思えた。
ありがとう。
ありがとう。
本当にありがとう。
あなたに出会えた幸運に感謝を。
私を救ってくれたあなたに感謝を。
あなたに出会わせてくれた音楽に感謝を。
私、絶対に有名なヴァイオリニストになります。
あの人に、曲を作ってもらえるような、そんなヴァイオリニストになります。
私の、新しい、叶えたい夢です。