君が、死に抱かれる前に
彼女と待ち合わせをすることになってから、もうすぐでひと月。
約束の日は三日後にまで迫っている。
どうやら、待ち合わせることに対して喜ばしく思っているのは、彼女だけでなく俺自身もであるようで、いつになく仕事も捗り、予定していたよりも早く暇ができてしまった。
彼女との約束があるから、次の仕事は入れないでいてもらっているので、特にやるべきことも無い。
それならば──
「少し早いけど、彼女の曲を作り始めようかな……」
と、思い立ったら吉日と言わんばかりに、さっそく作業に入る。
いつもいつも己の頭の中を駆け巡っている、調和されていない音の羅列たちを、彼女をイメージしながら曲として形作っていく。
俺の曲の作り方は、人には理解されにくい。
音楽家の父にも、それは俺の才がなせる技であり、他とは一線を画している、と言われた。
俺としても、そうだろうなと思う。
理解されにくいんじゃなくて、きっと、誰にも理解できない。
想うだけでいいんだ。
俺はただ、想うだけでいい。
それだけで、ただの音の羅列たちが、この世にただ一つだけの曲に生まれ変わっていく。
「……Songs für die Dame」
この世にただ一つだけの"貴女の為の曲"を、君に──
「もうすぐ九時半か……」
そろそろ家を出る時間だと、没頭していた作業を止めて身支度を整える。
彼女との待ち合わせは十時だ。
そして、ここから公園までは十分ほどかかる。
今日の天気はあいにくの雨だが、それを差し引いても、本来ならば、もう後十分ほどは遅く出ても、待ち合わせの時間には余裕で間に合う。
しかし、それではいつもの通り、彼女が待つ側である可能性もある。
今までずっと、彼女は俺を待つ側だった。
だから今回は、俺が彼女を待つ側でありたい。
そう思ったから、待ち合わせの時間よりかなり早めに向かおうことに決め、玄関に向かい、傘を手に取り、扉から外へ──
「っ!?」
驚いた。危うく叫ぶところだった。
本来なら誰もいないはずの玄関先。
扉を開いた先の右手側に、その人は佇んでいた。
「そんなところで、チャイムも鳴らさずに、何をしてるの、姉さん」
問われた相手、姉さんは、何故か、真剣な、それでいてとても強ばった表情で、俺を見ている。
「……あなたがこんな時間に、しかも雨の日に、外に出るなんて珍しいじゃない。いったい何処へ行くつもりなの?」
感情を押し殺したような、平坦な声だった。
それとは逆に、その目には様々な感情を混ぜ返した様な、そんな複雑な色が浮かんでいた。
そのことが、自分でも驚くほどに、癇に障った。
「俺がどこに出掛けようが、姉さんには関係ないと思うけど?そもそも、常日頃から外に出ろって言ってたんだから、俺が外出することは、望むところだろう?」
「……そうだね、外出すること自体は、私としても賛成だよ」
「だったら……」
「でも、あの子に会いにいくというのなら、反対だよ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
それほどに唐突で、直接的な言葉だったから。
「あなたが、去年の夏からあの公園で、あの子と会っていることは知ってた。今までずっと、どれだけ言っても部屋に篭もりきりだったあなたが、外に出てくれるのならそれでいいと思って放置していたけど、仕事に支障をきたすのなら話は別よ」
だめだ。
それ以上を聞いてはいけない。
「それに、あの子ヴァイオリニストなのよね?もしかして、あなたと会っているの、あなたがOTOYAだと勘づいているからじゃないの?」
今までずっと、押し込めて来たものが、溢れてしまう……!
「もしそうだとしたら、早めに縁を切らないと。あなたがOTOYAだとバレてからでは、」
「黙れよ」
ひどく冷たい声だな、と煮えたぎる頭の中で、妙に冷静な思考が一瞬過る。
きっと今の俺は、声だけでなく、とても冷たい視線を姉さんに送っているのだろう。
ひどく狼狽している姉さんの瞳には、それと対照的な俺の姿が写っている。
「……音弥?」
さっきまで、朗々と語っていた姿は何処へやら。
困惑と不安、さらには恐怖まで感じさせるような声色だ。
「なぁ、姉さん」
そんな姉さんに対して、少しの憐憫の情も浮かばないのは、
「な、なに?」
今、俺の心は、そんな情が入り込める余裕もないほどに、怒りで満ちているから、かもしれない。
「なんで、俺が仕事入れないようにしたこと知ってるの?」
「そ、それは」
「うん、別に言わなくてもいいよ。どうせ、お義兄さんに聞いたんだろ。まぁ、それはどうでもいいんだ。例え実の弟とはいえ、勝手に仕事のスケジュールを調べたとか、例え実の姉とはいえ、勝手に仕事のスケジュールを教えたとか。それは、どうでもいいんだよ?」
姉さんが息を呑むのがわかった。
雨音がうるさいくて、癪に障る。
俺も、雨が嫌いになりそうだ。
「問題はさ、俺、さっきも言ったよね。俺が、誰とどこで、何していようが、姉さんには、関係のないことだって」
「か、関係ないなんて、ただ私は、あなたが傷つかないようにって」
「俺が傷つく?なにそれ。俺の事馬鹿にしてるわけ?OTOYA目当ての人間と、そうでない人間の区別が出来ないくらいに間抜けだって」
「そんなことっ」
「言ってんじゃん、自分で、さっき。だいたいさぁ、根本的に間違ってんだよ。彼女が俺の事OTOYAだと感づいてるだって?笑わせるなよ。彼女は最初から知ってたんだよ」
「なっ!?」
「俺が教えた。俺が、自らバラした。で、それから一年何もなかったね。これで安心?」
「なんで、そんなこと……。私に一言もなく」
「なんで、姉さんに言わないといけないの?」
「なんでって、私は、あなたの姉でっ」
「……ずっと、思ってたことがあるんだよね。それでも、今までは言わずにいたことが」
溢れさせた、姉さんが悪いんだよ。
「姉さんはずっと俺に、外に出ろ外に出ろって、部屋に引き篭もるなって、そう言ってたけど……」
姉さんに、正面から視線を向ける。
責めるように、憐れむように。
「一度だって、本気で想っての言葉は無かったよね。これまでずっと優越感に浸って、幸せだったでしょ?分野が違うけど、それでも俺ばかり騒ぎになって、ちょっと羨ましかったけど、そんな俺は、こんな引き篭もりで、それを咎める清く正しい姉という役。楽しかった?ストレス発散になった?でもごめんね、別に、俺には姉さんが必要なわけじゃないんだ。だから、これからはもうここに来なくていいよ」
言うだけ言って、驚愕に固まる姉さんの横を通り抜ける。
「待って、音弥っ!」
姉さんの視界から俺が消えて、ようやく我に返ったのか。
姉さんが悲痛な声で俺を呼ぶ。
だけど、今言った通りに、俺には必要ではないんだよ。
だから、
「ばいばい」
後ろから、何か叫ぶ声が聞こえ続けているけれど、そんなの無視だ。
姉さんは、俺の琴線に触れた。
だから俺も、姉さんの琴線に触れてやっただけのことだ。
「くそっ、せっかく早く向かうつもりだったのにっ!」
左腕の時計を見ると、長針が十を指していた。
急がなくては、と傘を片手に小走りで公園に向かう。
相変わらず足りない体力に、息を切らしながらも足は止めない。
さほど問題ないと思っていた雨も、どんどん雨足が強くなっているせいか、妙に邪魔だ。
本格的に雨が嫌いになりそうだ。
長針が十一を過ぎる。
思いのほか強い風に、傘がとられそうになる。
長針が十二に到達する直前。
公園の入口が見えた。
彼女との待ち合わせ場所。
そこに、俯きがちな赤色の傘が見える。
雨音に交じる、水を跳ねる足音に気づいたのか、傘が少し上に持ち上がり、彼女が顔を上げる。
目が合った。
公園まではもう少し。
また、待たせてしまったけれど、次には絶対に俺が待とう。
そう決めて、ラストスパート。
小走りから本格的に走り出す。
彼女が笑顔を浮かべ、俺に手を振り、そして──
「っ!!??」
声にならない悲鳴が、整わない荒い息が、静寂に満ちた部屋に、妙に響きわたる。
息を整えながら、周りに視線を向ける。
窓から注がれる月明かりから、今が真夜中と呼ばれる時間なのは理解できる。
しかし、そんな月明かりに照らされた室内には、見覚えがない。
見覚えはないが、知ってはいる。
「病院……?」
白を基調とした清潔感あふれる室内。
妙に薬品臭いわけではないが、自身の腕につながる、点滴を見れば一目瞭然だ。
「……夢」
そう、夢だ。
先程までのは、夢なんだ。
夢だけど、夢じゃない夢。
記憶をたどる、自分が自分に、忘れさせないために。
そんな夢。
だから、あの感情は本物で、この痛みも本物だ。
「……ごめん。ごめんな。本当に、ごめん」
視界が歪む。
何かが頬を伝う。
痛いほどの静寂に、痛みを孕んだ声が浸透する。
儚さをおびたその声。
「俺たちは」
果たして、痛むのは
「出逢うべきじゃなかったんだ」
その身か、その心か。