君が、死に歩み寄る前に
ずっと、ずっと、俺の頭の中で、雨音が鳴り響いている──。
いつものこの時間よりも薄暗い室内に、ふと窓を見上げれば、視覚だけで分かるほどに勢いの強い雨が降っていた。
完全防音のなされたこの部屋では、視覚でしか雨を認識できない。
あの無数の小さな雫が、屋根を、壁を、地面を、叩きだして奏でるあの音を、ここでは聴くことは出来ない。
そう、聴こえない筈なんだ。
だから、今なお聴こえ続けているこの音は、きっとあの時の名残。
俺の中でだけ響き続ける、記憶の名残。
雨が嫌いだという君が、嫌いな雨の中で消えていった記憶。
俺の中の君の記憶で、唯一の雨の記憶。
他は全て、曇りか、夕晴れの記憶しか無い。
「…………あぁ、でも……''あの日''だけは、青空だったっけ……」
俺の中の君の記憶で、曇りや夕晴れでも無くて、唯一の雨でも無い、これまた唯一の青空の記憶。
いつも思い出すのは雨の記憶ばかりなのに、今日は何故か、''あの日''のことが思い出される……。
そう、''あの日は''確か、珍しく外に出て、あまりの空の眩しさに、一番近くにあった公園で休憩をしていて──
OTOYA──それは、最近の音楽業界で、知らぬ人はいないと言われるほど有名な、作曲家の名前。
この名前が知られるようになったのは、ある有名なバンドへの楽曲提供がきっかけではあったが、バンドのロック調な曲以外にも、子供向けなCMの挿入歌やクラシック系の落ち着いた曲など、色とりどりの曲を作り出し、そしてその全てが、観衆の目を引くものであったのだから、これで有名にならないはずがない。
そして何より、観衆の興味を引いたのは、その謎に満ちた人物像だった。
OTOYAという名前以外、一切のプロフィールが未公開であり、その姿を見たものは一人もいないと言われているほどだ。
楽曲を提供されたバンドのメンバーも、CMの挿入歌を依頼した会社も、皆例外無くその姿を知らされてはいないらしい。
これだけ有名であるのにも関わらず、これほど謎に満ちている人物を、マスコミが放っておくわけもなく、あの手この手でOTOYAの正体を暴こうとしているが、成果は芳しくない。
それはそうだろう、と本人は思う。
あれだけの仕事をこなしてきているのだ。
誰もが、二十歳を超えた、音大で優秀な成績を修めた者や、音楽界で優秀な者を目安に探していることだろ。
そうであるから、見つかる筈がない。
見つかるわけが無い。
だって俺は、まだ十五歳の高校生なのだから……。
有名なピアニストと売れっ子小説家の両親を持つ姉さんと俺は、その遺伝された才能を、姉さんには母譲りの作家の才能を、俺には父譲りの音楽家の才能を、綺麗に二分する形で生まれてきた。
そして、俺達は二人とも(俺は姉さんに遅れること三年)中学に上がる頃には、その才能を生かして、自らの道を歩み始めていた。
ただ、両親とは違い、姉さんは作詞家として、俺は作曲家としての道ではあったが。
親の伝手もあり、その頃には簡単な仕事をし始めていた俺達は、けれど未成年であったために、一切のプロフィール等は秘匿していた。
そして、高校生になる頃には、自分が予想していた以上に、十分過ぎるほどに、有名になってしまっていた。
そして、ここまでくると、色々なことが苦痛になり始めていた。
元々、姉さんと違って人との会話が苦手だった上に、社会に触れた事で、他の同じ歳の子達が幼稚に見えてしまい、どうもクラスに上手く馴染めず、半年も経つ頃には、学校をサボりがちになっていた。
さらに仕事でも、俺の正体を掴もうとマスコミが煩い事が、俺のストレスに繋がっていた。
姉さんは、俺が二十歳を越えるまではプロフィール未公開のままで仕事をしていくらしい。
姉さん繋がりで、俺のことが芋づる式に暴かれることを危惧しているようだ。
当の姉さんは、俺のように騒がれることも無いのだから、俺からしたら複雑だが……。
そんなこともあって、俺は、仕事用に与えられた、防音設備が完璧な部屋に引き篭るようになっていた。
食事などは、俺のマネージャーだという契約会社の男が頼まなくとも用意してくるし、姉さんは週一で部屋に勝手に入ってきては掃除をして、学校には行かないのかと小言を零していく。
だから俺は、さらに自分の殻に篭り、曲のことだけを考えて生きるようになっていた。
頭の中に勝手に生まれてくる音を、紡ぎ直して曲にする。
それだけをして生きていた。
だけどやはり、それは姉さんにとっては不満だったらしく。
「たまには外に出て陽を浴びてきなさい!いい?一時間は帰ってきてはダメだからね!」
と言って、部屋を閉め出されてしまった。
姉さんの仕事が修羅場だったひと月の間、掃除を一切していなかったことが琴線に触れたらしい。
要するに、掃除の邪魔だから外に行け、ということか。
「仕方が無いから、その辺を散歩でもするか……」
よく考えたら、仕事のためにこの部屋に越してきてから、一度もこの辺りを見て回ったことが無い気がする。
いい機会かもしれない、と自分に言い聞かせて、あてもなく歩き始めた。
ところまではよかったのだが、如何せん、ずっと引き篭っていたために、俺の体力は露ほども無くなっていたようだ。
少し歩いて回っただけなのに、息が上がってしょうがない。
しかも、体力がないことに加え、この晴天だ。
久しく陽を浴びていなかった俺には辛すぎる。
どうにか近くの公園のベンチまで辿りついた俺が、もうここで誰か迎えに来てくれるまで待ち続けようか、とあまり回らない頭でろくでもない事を考え出したその時──
「……?ヴァイオリンの音……?」
その音は、公園の奥から聴こえているようだった。
常に頭の中で音が溢れ続けているからなのか、俺は、まるで引き寄せられるようにその音の聴こえる方へ足を踏み出していた。
それは運命だったのだと言う人がいる。
出会うべくして出会ったのだと。
だと言うのならば、俺は、そんな運命とやらを作った神様とやらを、殺してしまいたいくらいには怨んでいる。
出会うべきではなかった。
出会うべきではなかったんだ。
俺達は、出会うべきではなかったんだよ──
そこには、一人の少女がいた。
子供用なのだろう、少し低めのアスレチックな遊具の上。
そこが、まるで己だけのステージであるかのように、堂々と演奏されるヴァイオリン。
落ち着いた色合いの服装とは裏腹に、アップテンポな陽気な曲。
演奏に入り込んでいるのがわかる、真剣な横顔と、少し伏せられたその眼差し。
その、ミスマッチであるはずなのに、どこか目を引き付ける光景と演奏を見聴きしながら、俺は、つい言葉を零していた………
「半音ずれてる……」
途端に、演奏が止んだ。
小さな声だったが、ちょうど音と音の間の一瞬の静寂に被ってしまったせいか、俺の声は少女に届いてしまったらしい。
そして、少女はゆっくりと振り返り、
「君、耳が良いんだね!」
先程までの真剣な表情はなりを潜め、満面の笑みを浮かべてそんなことを言い放つ少女に、無意識に溜息を吐く。
「それはむしろ君の方だと思うけど……。よく俺の声が届いたな」
「たまたまだよ、たまたま。そんなことより、さっきのがわかるなんて、本当に耳が良いんだね!君も何か楽器やってるの?」
言いながら、遊具から降りて、俺の方に近寄ってくる。
「いや、楽器は特には……でも、強いて言うならピアノだな」
「へぇ、ピアノかぁ。私は見た通りヴァイオリニストだから、よく伴奏でお世話になるピアノは身近でもあるかも」
「……そう…………さっきの言い方だと、半音ずれてたのはわざとなのか?」
「えーっと、うん、わざとといえばわざとかな?つい、ノリで上げちゃったの」
「そうか……まぁ、気持ちはわからないでもない。あの曲は弾いていて楽しいからな」
姉さん以外の人と会話をするのなんて久しぶりだから、かなり無愛想な返事になってしまったけれど、彼女は気にしていないらしい。
むしろ、すごくいい笑顔なんだが……。
「あー、えっと、なんでそんな嬉しそうなんだ?」
俺達は、今が初対面の筈なのに、彼女は、そんなことは知ったことではないと言わんばかりに親しげだ。
かく言う俺も、その態度に少しの不快感も無いのだから不思議だ。
「だって貴方、何も言わないから」
「……なにも?」
「わざと半音ずらしてたことに。大抵の人は、譜面通りに弾かないことにいい顔しないもの。私の先生も、いつもいつも譜面通りにって、そればっかりよ」
「あぁ、なるほど」
確かに、大抵の音楽家はそう言うだろう。
コンクールなんかは、それが最も重要だと言われるくらいだし。
でも、俺は、譜面通りに弾く事がそれほど大切なことだとはあまり思えない。
それが、俺が演奏家ではなく作曲家だからなのかはわからないが……
「私はね、譜面通りに弾く事が何より大事だとは思えないの」
「え?」
一瞬、考えを無意識に口に出してしまっていたのかと思って驚く。
でも、その驚きは、次の瞬間、もっと別の感情に塗りつぶされた。
「だってさ、譜面の中にある曲は、その曲を作った人の感情や想いで溢れてて、それは、私のものじゃない。どれだけ譜面通りに弾いたって、それは誰か別の人のもので、私のものじゃないの。だけど私は、自分の感情で、想いで、ヴァイオリンを弾きたいと思う。でも、そうするとね、さっきみたいに音が上がっちゃったり、強弱が違ったりしちゃうの。それでよく怒られる。仕方ないよね、私の曲じゃないもの。でも、仕方ないよね、これが私だもの。曲は、作られただけじゃ未完成。それを、誰かが弾いて初めて、曲は完成する。そして私は、曲を作れないけど、曲は弾ける。だから、私は、私らしく曲を完成させるの。先生にはよく言われるんだ、お前はわがままな演奏家だって。自分でもそう思うの。そう思うけど、それでもわがままに演奏しちゃうの。おかしいでしょ」
長い言葉だった。
初対面の人間に言うような内容じゃないことを、努めて明るい口調で、さも大したことではないように言う。
好きなことを、自分の好きなようにやりたいのに、周りがその邪魔をする。
まるで俺のようだ…………そう、思ってしまった。
だから、
「いいんじゃないか、それで」
「えっ!?」
「だって、それが君なんだろう?そして、君は君で居たいという。だったら、そのままでいいじゃないか。確かに、コンクールとかでは、譜面通りに弾く必要があるけど、でも、それも、もっともっと上手くなって、君のために誰かが曲を作ってくれるくらいに有名になれば、君は、君のままに、君の曲を弾けるようになる。それまで、少し猫を被ればいいだけさ」
俺がしてきたように、と言う言葉は飲み込んで、少しおどけた様に言う俺に、彼女は驚いているようだ。
少しして、俺の言葉を反芻し終えたのか、彼女はひとつ頷くと、悪戯を思いついた子供のような笑顔を浮かべる。
「そっか、そうだね、それはいいね!少しの間猫を被るかぁ、それは面白いね!」
「面白い、か。お気に召したようで、何よりだ」
「ふふっ、貴方、なかなかに面白いなぁ、気に入ったぞ。あ、そういえば、私達自己紹介もせずに話し込んじゃってたね」
「いまさらだな」
「本当にね」
目が合い、思わず笑い合う。
よく考えたらおかしな話だ、学校に行きたくなくなるくらいには会話が苦手な俺が、初対面の人と、真面目な話をしたと思ったら、今度は軽口を叩き合ってる。
姉さんが居たら、熱でもあるのかって心配するだろうな。
でも、こう言うのも悪くない。
「では、遅まきながら自己紹介を。私の名前は真宮皐月です。十七歳の高校二年生で、ヴァイオリニストです」
「俺の名前は羽賀音弥。十五歳の高校一年生で…………作曲家をやってる」
その言葉は、意外にも、すんなりと俺の口から滑り出していた。
言わなくてはいけないと、何故か、そうも思った。
「一年生なんだ、意外だなぁ、私より年上かと思った、よ…………ん?作曲家?」
「そう、作曲家」
「……………………羽賀音弥、音弥…………OTOYA?」
「そう、OTOYA」
「……………………えぇぇぇぇっ!?」
うん、本当に、こう言うのも悪くない──。