君が、死に塗りつぶされる前に
「本当に、これで最後にしてくれ……」
俺の言葉を聞いているのかいないのか。
自分の手首に巻かれていく真っ白な包帯を、それと同じ程に白い、いや、白すぎる肌の目立つその端正な顔で、ただ呆然と眺めている。
その瞳には、なんの関心も感情も伺えない。
もう何度目になるのか、数えきれないほど繰り返してきたこの作業を、彼は抵抗もせずに大人しく享受している。
それでも、この作業をしなくてよくなる姿を想像すると、最悪の想定以外思い浮かばない。
そんな自分が、不甲斐なさ過ぎて、情けない。
「音哉君、また曲が完成しなかったのかい」
暗くなる思考を振り払って、今は、とにかく彼に向き合わなければ。
「…………完成なんてしていない」
そうだろう、と思う。
完成したのであれば、彼はもう、死に向かう必要なんてない。
「……そう。じゃぁ、この曲はどうする?いつも通りに提供用に?」
いつもと変わらない、いつも通りの質問。
彼も、いつも通りに適当に頷く。
「分かった。…………それと、本当に、これで最後にしてくれよ。綾音も、心配しているよ」
これも、いつもの決まり文句と化してきている。
これでは少しも変わらない、彼を変えられない、そう思ってはいても、俺には、どうすればいいのか、どうするのが最善なのか、分からない。
「…………」
いつも、俺の言葉の後に、彼は何かを口にする。
しかし、その言葉はあまりに小さすぎて、いつも俺の耳には届かない。
きっと、大事なことなのだと思う。
聞き返すことは簡単だ(彼が答えてくれるとは限らないが)。
それでも、俺はいつもその言葉に気づかないふりをする。
その言葉が、もし、綾音を否定する言葉だったとしたら、と思うと、どうしても聞き返せなくなる。
「じゃぁ、また明日、様子を見に来るから。ご飯は、色々と冷蔵庫に入れておいたから、それを食べてね」
彼はまた、小さく頷く。
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝るんだよ」
「…………小さな子供ではないんだ、言われなくともちゃんとする」
ちゃんとしてくれるのならこんなに言って聞かせるような真似はしないんだけど、とは言わないでおいた方が良さそうだ。
「うん、そうだね。じゃぁ、本当にまた明日」
俺は、そう言って立ち上がると、玄関に向かう。
今日の明日で、曲が作り上げられることはないだろうから、明日は不安を抱かずに扉を開けられるだろう。
それでも、明後日にはもう分からない。
彼が、曲を完成させるまでは…………。
「…………」
扉の閉まる音がした。
あの義兄兼マネージャーはようやく帰ったらしい。
いつも何か言いたげな目で見てくるくせに、それを言葉として発したことは一度もない。
正直、少しうっとおしいが、姉さんの旦那としても、俺のマネージャーとしても、口を出さずにはいられないというのは理解しているから、妥協している。
左手首の包帯にそっと触れる。
すっかり巻かれ慣れてしまったその左手首を何の気なしに眺めながら、俺の頭の中では、もう次の曲が流れ始めている。
きっと、また曲は完成しないだろう。
いや、完成することは、一生無いのかもしれない。
あの日、あの時、俺の目の前で、あいつが居なくなった時から。
俺が約束の時間に間に合わなかったから、俺と会う約束をしていたから、そもそも、俺と出会ったから──
そんなこと、考え出したらキリがない。
何を思ったって、もうあいつは居ない。
居ないから、あいつのための曲を完成できない。
俺の心はあいつの思い出を示すのに、俺の頭はあいつの死を表すんだ。
だからあれ以来、俺の作る曲は死を連想させるものばかり。
それが良いと言うやつも多いけれど、それは俺の作りたいものではない。
姉さんも、似たような思いに囚われているのかもしれない。
あの時から、姉さんの書く詩は、悲しみに呑まれたものばかりだ。
まるで、今の俺と同じみたいに。
たぶん、あの時、俺を引き止めたことを気にしているのだろう。
俺が間に合わなかったのは、自分が引き止めたせいだと……。
あの義兄は、そんな姉さんを心配して、毎回毎回あの言葉を俺に向けるのだろう。
俺に、姉さんを恨んでなんかいないと、そう、言って欲しくて。
確かに、恨んではいない。
姉さんのせいだなんて思ってもいない。
それでも、何故か、姉さんを肯定する言葉も、素直には出て来ない。
だからいつも、俺の言葉は義兄に届かずに終わる。
だからずっと、俺達は無限ループの中に居続ける。
たぶんきっと、完成しない曲を完成させるまでは………。