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シナリオ墓場

壊成の女

作者: s888888884

登場人物

姫宮 清美(30)(55)フリー編集者

仲本 紗良(10)(12)(18)清美を訪ねてきた娘。

寺河 安彦(25)(42)(50)紗良の父。小説家。

姫宮 慶一郎(37)清美の夫。小説家。


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清美が調理する音、BGになる。


清美のN「この家ってコンクリート打ちっぱ

 なしでしょ? 四角くって、可愛げの欠片

 もなくて。冬になると家の中は冷えるし、

 窓には結露がビッシリ。夏は夏で熱と湿気

 が篭って本当にウンザリだけど、私は冬の

 寒さの方が我慢ならない。今朝、カーテン

 を開けた瞬間、陰鬱な気分になった。窓の

 外は一面、銀世界。ここに越してきて、初

 めて見たわよ、でしょ? 盆地は雪とか雨

 が少ないというから越してきたのに……。

 まるで冷凍庫の中に放り込まれたみたい。

 慌てて応接間の薪ストーブと床暖房をつけ

 て、お湯を沸かしてホットコーヒーを入れ

 て、雪景色に溜息をつきながら、午前中を

 過ごしたわ。そして、部屋がようやく温ま

 ってきた頃、玄関の呼び出しベル鳴ったの

 よ」


調理の音、終わる。

インターホンの音が響く。


清美のN「私、ずっと窓の外を見てたけれど

 も、コンコンと降り積もる白い雪以外は、

 何者も見かけなかった訳よ。一体どんなお

 客さんかと思うじゃない」


ドアが開き、冷たい風が吹き込む。


清美のN「玄関を開けると真っ白な雪の中に、

 真っ赤なコートが花開いていたわ。耳当て

 付きのロシア帽子にマフラーをぐるぐると

 巻いて、黒い髪に黒い瞳。歳は17、8の

 女の子が黒金の門扉の前で佇んでいたの」


雪の中、門まで歩く清美。


清美「どちら様?」

清美のN「声をかけると、彼女はニヤリと話

 未を浮かべて、一切の淀み無く、あの一文

 を諳んじてみせた」

紗良「『私は貴方の完成を望みません。貴方

 が如何様に望まれようとも、貴方を満たす

 事は、私の至福になり得ないのです。貴方

 の完成は、私の心を幾万、幾億の焼けた針

 で貫く事となんら違いありません。望むの

 は唯、荒廃し、廃墟と化した貴方の骸。あ

 なた自身の破壊にあるのです』」

清美のN「さすがの私も、言葉を無くしたわ

 よ。わかるでしょ? 彼女、黒真珠の瞳で

 私の顔をしげしげと覗き込んで続けたわ」

紗良「姫宮 清美さんですね? 小説家で詩

 人の、姫宮 慶一郎の奥様の」

清美「貴女は何方?」

紗良「仲本 紗良と申します。私、寺河 安

 彦のファンなんです」

清美のN「らしくないと思うでしょうけど私、

 それを耳にしても、やっぱり馬鹿みたいに

 呆けたまんまだった。紗良さん、と名乗っ

 たその子の言葉に驚いた、という事もあっ

 たのだけれども。彼女の笑顔が、まるで雪

 と共に舞い降りた天使の様に輝いてたもの

 だから」


薪ストーブに薪が燃えている。


清美のN「応接間のソファーにコートを脱い

 で座る紗良さんは、どことなく陶器ででき

 た人形の様に見えた。白い素肌に均整にす

 らりと伸びた手足は美しく、華奢な骨格は、

 うかつに触れるとバラバラに壊れて砕けて

 しまいそうな、儚い危うさを秘めていた」


清美、紗良に紅茶を差し出す。


清美「生姜の入ったチャーイです。温まるわ

 よ」

紗良「ありがとうございます。私からは、こ

 れを貴女に」

清美のN「ストーブの火に当てられて、薄紅

 色に頬を染めた紗良さんは、一冊の本を私

 に手渡した。そう、貴方もよく知っている、

 あの本よ。寺河 安彦・著、『腐爛の季

 節』、初版本。表紙を捲ると案の定、見返

 し部分には著者のサインと共に、例のメッ

 セージが記されていたわ。『敬愛なる師に

 して、頼もしき同志、そして我が最愛の人、

 姫宮 清美様に捧ぐ』」

清美「どこでこの本を?」


本のページを激しく捲る清美。


清美のN「真剣な顔で本のページを捲ってい

 ると、紗良さんが小さく笑って、ある物を

 差し出してきた」

紗良「探し物はこれですか? この本の間に

 挟まっていましたよ」

清美のN「彼女が手にしていたのは、一通の

 白い封筒。宛名には寺河 安彦。差出人の

 名前は私である」

紗良「古書店で見つけました。私、寺河 安

 彦のファンなんです。既に絶版になってい

 たこの本を探し出した時には、本当に嬉し

 くって。そしたら、中にこの手紙が入って

 いるじゃないですか」

清美「中身には、目を通したの?」

紗良「『前略ごめんください。まずは『腐爛

 の季節』出版、おめでとうございます。2

 0冊目の書き下ろし単行本を、無事世に送

 り出された事、心より嬉しく思います。さ

 て、先日頂いた恋文のご返答について。私

 は貴方の完成を望みません。貴方が如何様

 に望まれようとも、貴方を満たす事は、私

 の至福になり得ないのです』。ここからは、

 先の繰り返しになりますけど?」

清美「……呆れた。覚えているの?」

紗良「寺河 安彦のファンですから。穴の開

 くほど、読み返しましたよ。姫宮 慶一郎

 は寺河 安彦の先輩で、歳の離れた友人で

 もあった。そして、寺河 安彦はその友人

 の妻と不倫関係を持っていたんです。清美

 さん、貴女の事です」

清美「ここに来たのは、それを確かめる

 為?」

紗良「ファンですから。作品だけじゃなく、

 彼個人にも興味があるんです。6年前、こ

 の『腐爛の季節』を出版した直後に、寺河

 は謎の失踪を遂げています。私、思うんで

 す。彼の失踪、この初版本に挟まれた、貴

 女とのやり取りに原因があるんじゃないか

 なって」

清美「嘘は吐くのも、吐かれるのも嫌いなの。

 だから正直に言うけれども。確かに、私と

 安彦君は不倫関係にあった。でもそれも2

 0年前の話よ。6年前、彼からよりを戻し

 たいという申し出があったのは、事実。そ

 の2年前に、主人が他界していたから、こ

 れ幸いというつもりだったのでしょう。だ

 から、丁重にお断りしたのよ。そう、貴女

 の知りたい事は、全てその手紙の中に記さ

 れているという訳」

清美のN「私がそういうと、紗良さんは純白

 の微笑を浮かべて答えた」

紗良「ではせめて、寺河 安彦がどの様な人

 物だったのか、清美さんの知る限りの事を、

 教えて頂けませんか?」

清美「教えられる事があるとして、貴女にそ

 れを話す理由が私にあると?」

紗良「作家の私生活に関心を持つのは、私だ

 けではありませんよ? ご主人と寺河 安

 彦、2人の晩節を汚す様な真似、私はした

 くありませんけど」

清美「脅すつもり?」

紗良「そんな事はしたくないですね」

清美「(溜息を吐き)長い話になるけど。ど

 こから話せばいいのかしら?」

紗良「どうぞ、清美さんのお好きな様に」


安らかな音楽、BGに。


清美のN「今から25年前、今日とは正反対

 の、晴れた真夏の夜の事だった」


玄関を開ける、慶一郎。


慶一郎「清美ちゃん、今帰ったよ」

清美「おかえりなさい。あの、慶一郎さん、

 そちらの方は?」

慶一郎「彼は寺河君。俺の後輩に当たる男だ。

 歳は大分、離れているけどね」

安彦「寺河 安彦です」

清美のN「ジャケットを小綺麗に着こなす、

 眠たげな目をした、表情の乏しい色白の青

 年。それが、初めて会った安彦さんに対す

 る私の印象であった」


食卓を囲む清美、慶一郎、安彦。


慶一郎「寺河君、君は線が細い癖に、よく食

 べるなぁ」

安彦「すみません。不愉快な思いをさせてし

 まって……」

清美「貴方、今なんで謝ったの? 謝る必要

 なんてどこにもないじゃない。この人が、

 貴方の食事を非難したとでも?」

安彦「すみません……」

清美「スミマセン、スミマセンってね。貴方

 が何に対して謝罪をしているのか、私には

 ちっとも、わからないのですけどもね」

慶一郎「お前ね。すぐに喧嘩腰になるのはや

 めなさいよ。寺河君も。君の健啖ぶりは見

 ていて気持ちが良い。俺が誘った食事なん

 だし、謝る必要なんてどこにもない。どん

 どん食べなさい、どんどん」

安彦「すみません。この料理、奥様が作られ

 たものですか?」

清美「豚ロースのニンニク生姜焼きに大根お

 ろしと厚揚げ、それにわかめの味噌汁! 

 何か文句でも?」

安彦「いえ、ただ……、とても美味しいもの

 ですから。箸が、止まりません」

慶一郎「あっはっはっはっは! 清美は雑誌

 編集者で、今は料理レシピ本を手掛けてる

 んだ。そのおかげか、家での料理の腕もメ

 キメキあがって、いやはや困った困った」

清美「何を困る事があるんですか!」

慶一郎「ははは、こうも見事に胃袋を掴まれ

 ては、おちおち浮気もできなくなる。体重

 も増える一方だしな。女房の飯は不味い位

 に限ると、思い知ったよ」

清美「自分が実際にできなくちゃ、良い本は

 作れない。基本ですよ。本当は、早く文芸

 誌に戻りたいのに……」

慶一郎「清美ちゃんも昔、小説を志していた

 んだよ。そうだ、折角だから一度、寺河君

 の作品を見てやってくれよ?」

清美「はぁ? なんで私が?」

慶一郎「プライドが高いのは結構だがね、も

 う少し、他人の意見を尊重して、理解する

 姿勢を身につけた方がいい。いずれは、小

 説の編集に戻るつもりなんだろ?」

清美「勝手に決めないで下さい!」

慶一郎「そう言わずに。寺河君はどう思う

 ね?」


安彦、食べる事に一心不乱。


慶一郎「寺河君、本当によく食べるね、君

 は」

清美「なんて、呆れた……」

安彦「あ、すみません。奥さんのご飯、あん

 まり美味しいもので……」

清美「私、絶対にごめんだから!」


クラシック音楽、BGに入る


紗良「でも、結局見てあげたんですよね? 

 なんだかんだで優しいんですね」

清美「無理矢理やらされたのよ。正直、今で

 も根に持っているわ」

紗良「当時の寺河 安彦はどんな文章を?」

清美「気に食わなかったわね。文体も内容も

 妙に重々しく格好つけて」

紗良「私の知っている寺河 安彦のイメージ

 と違いますね。柔らかで優しい筆致であり

 つつ、鋭い鋸の刃で何度も何度も肉を引き

 裂く様な、痛みと凄惨さの人だと」

清美「面影も無いわよ。まるでいい子ちゃん。

 というよりも、中身ががらんどうの木偶人

 形の様だった。だから私、彼の原稿を叩き

 付けて、こう言ったのよ」


クラシック音楽、止む。

原稿を投げつける清美。


清美「理解できないわ。どうして慶一郎さん

 は、貴方みたいな凡庸な男に目をかけてい

 るの?」

安彦「すみません、凡庸で」


安彦、ケーキを食い、紅茶を啜る。


清美「人の話を聞く時位、食べるのを控えな

 さいよ!」

安彦「美味いですね、これ。何ですか?」

清美「(溜息を吐き)紅茶のシフォンケー

 キよ」

安彦「手作りですよね。美味しいなぁ。清美

 さんの作る料理は、とても美味しくて美味

 しくて。なんででしょうね?」

清美「知るか! あんた、食に対する情熱だ

 けは並々ならぬものがあるのよね」

安彦「不安なんです。物を食べていないと」

清美「不安? ちょっと、詳しく聞かせなさ

 い」

安彦「いえ、物を食べていると安心できると

 いうか。実家は商店をやってまして。大き

 くも小さくもない、そこそこの店なんです

 が。僕が7歳の時に母が悪性腫瘍で死にま

 して。1年後に後妻が入ったんですが、こ

 れも2年程で心疾患で他界し。2年後にず

 っと若くて健康な、新しい後妻が来てくれ

 たんですけど、この人も3年後に交通事故

 で亡くなりまして」

清美「あら、御気の毒様」

安彦「親父はそれで魂が抜けてしまい、それ

 からは再婚もせず、仕事一筋になった訳で

 すが。僕、この3人の母と上手く付き合う

 事ができなくて」

清美「実のお母さんとも、折り合い悪かった

 の?」

安彦「手を上げられた覚えは、一番多くあり

 ます。3歳年上の兄は、誰とも仲良くやっ

 てたんですが。でもですね、ご飯の時は、

 食事の時だけは和やかというか、家族団欒

 ができたんです。どの母の作るご飯も、美

 味しくて美味しくて。父と母、兄と僕が食

 卓を囲む中、『美味しいね、美味しいね』

 と料理をパクつく時だけは、どの母も優し

 い目をしていた。そんな記憶がありまし

 て」

清美「それだよ、君の文章に欠けてるものは。

 なんでそれを、もっと表に出さないの? 

 今の君を形作る、重要な原体験じゃない

 の! 凡庸なのも当然だわ。この原稿用紙

 の中には、君の核というものが、何も投影

 されていないんだから!」

安彦「ですが、極個人的な情動を露にするの

 は、恥の様に思われまして……」

清美「馬鹿なの? 恥の切り売りをするのが

 作家でしょうが! そこに渦巻く渇望、寂

 寥、因果、そういった物を精製して、言霊

 に載せて綴りなさい!」

安彦「そんなものを、世の人は見て、喜ぶの

 でしょうか?」

清美「あんたが美味しい美味しいって食べて

 る私の料理、真心なんか一片たりとも入っ

 てないから。怨念よ。やりたい仕事も出来

 ず、嫌いな料理に精を出して、頭の中が倦

 んでいく、その怨念をぶつけてるの」

安彦「怨念。あの美味しい料理は、怨念です

 か」

清美「良いも悪いも無い。あんたが戦う世界

 は、煮え滾る思いが無数に投げ込まれたド

 ロドロのカレー鍋よ。他の味に殺されたく

 なければ、パンツを脱いでハラキリやって、

 何もかも曝け出す他ないじゃない!」

安彦「あは、そうか! あはははは、やっと

 わかりましたよ、清美さん!」

清美のN「その瞬間、安彦さんはパッと顔を

 あげて叫んだの」


クラシック音楽、BGに入る。


紗良「清美さん。寺河 安彦は、一体何に気

 づいたんですか?」

清美「3人のお母さんが作る、料理の美味し

 さの秘密よ。ご飯を食べる彼を優しく見つ

 めるお母さん達が、料理に込めた思いの正

 体」

紗良「それって、まさか」

清美「怨念よ」

紗良「寺河 安彦にとって、怨念こそが最高

 の味付けだった?」

清美「あんなに嬉しそうに目を輝かせて笑う

 彼は、後にも先にも見た事がなかった」

紗良「笑顔を浮かべて怨念を飲み込む作家、

 ですか」

清美「それからの安彦さんの作風は、まった

 く見違えるものになった。まるで柔らかな

 羽毛で和毛を擽る様な優しい文体。精妙に

 描き出される美醜の陰影は、絡み合う蛞蝓

 に蜜を垂らした如し。踊り狂う筆致の奔流

 は魂の薄皮を乱暴に引き剥がし、抗いがた

 い狂熱へと誘う。破滅的な終焉は熱と臭気

 に彩られ、傷痕から夥しく流れ出る、膿の

 如き読後感が深く心に焼きついていく。そ

 して、いつしか私は、私の手の中で逞しく

 変容していく男の眼差しの、虜になってい

 ったの」


クラシック音楽、止む。

   ピアノジャズが流れる高級レストラン。

入り口の扉を開けて入店する安彦。


清美「安彦さん、こちら。座りなさいな」

安彦「どうも、清美さん。慶一郎さんは?」

清美「いないわよ。今日は取材旅行で帰らな

 いの。もう2、3日は留守にするわね」

安彦「そうですか。てっきりご一緒かと」

清美「貴方の処女出版を、私と一緒に祝うの

 は不服? 。いいから座りなさいな」

安彦「はぁ……」


食事を取る清美と安彦。


清美「慶一郎さんも、喜んでいたわ。目をか

 けてきた甲斐があったって。暇が出来たら、

 晩酌に付き合ってあげて。あの人、飲兵衛

 だから」

安彦「はぁ……」

清美「何よ、浮かない顔して。やっぱり不

 満? 私と2人きりじゃ」

安彦「僕がここまで来られたのは、何を置い

 ても清美さんのお陰です。だから、初めて

 の本は貴女に手掛けて頂きたかったのに」

清美「別に、気にする事無いわよ」

安彦「今は医学雑誌の編集をしていると聞い

 てますけど。凄いなぁ。最新の医療情報を

 扱うんですよね。興味深いです」

清美「雑誌が変わったから、もう料理を作っ

 て貰えないんじゃないかって、心配してる

 んでしょ? 安心しなさい。レシピ本から

 離れても、今まで通り作ってあげるわ。と

 いうか貴方、手が止まってるじゃない。こ

 れからメインディッシュが来るっていうの

 に」

安彦「なんか、食欲が湧かなくて。味が今ひ

 とつ、物足りないっていうか」

清美「私と食べるディナーは不味い?」

安彦「清美さんの料理が好きなんです。こん

 な豪華なディナーでなくてもいい。貴女の

 作った食事が、一番美味しいんです」

清美「そう」


清美、食器とナプキンをテーブルに叩

きつけ、椅子を立ち上がる。


安彦「清美さん、急に立ち上がって、一

 体?」

清美「だったら、幾らでも食べさせてあげる

 わよ。その代わり……」

安彦「清美さん、駄目……、んッ……」

清美のN「私は弱弱しく抵抗する安彦さんを

 引き寄せると、捻じ伏せる様に唇を奪っ

 た」


ピアノジャズ、止む。

クラシック音楽、BGに入る。


清美「それからすぐ、2人でレストランを出

 て、家に帰り、有り合わせの食材で粗末な

 おかずを2、3品作って、それから男女の

 契りを交わした。それが初めて関係を持っ

 た夜の事よ」

紗良「すごい……、ロマンチックですね」

清美「そんな大層な物じゃない。前の家は古

 い木造建築であちこちガタが来ていたし、

 部屋は散らかったままで生活の苦労が見え

 隠れ。愛し合うにしても、煮物の匂いが染

 みついた部屋に薄い布団の上じゃあね」

紗良「ご主人はその事を……」

清美「知らないまま、死んだわ。あの飲兵衛、

 想像もしなかったでしょうね。彼が飲みに

 行くのを見計らって、逢瀬を重ねたのだか

 ら。安彦さんは物凄い健啖家の癖に、お酒

 はさっぱりなのよ。そんなこんなで、私達

 の関係はダラダラと6年間続いて、そして

 終わりを迎えたの」

紗良「それはどうして? 寺河 安彦が良心

 の呵責に耐え切れなかったからですか? 

 その、ご主人への」

清美「始めはそうだったわね。初めての夜、

 夜明けの太陽を見つめる彼の目に、後悔の

 涙が光っていた事を、今でもありありと思

 い出す。でも、思い上がったババアだと思

 って欲しく無いけどね。身体を重ねる度に、

 私に対する彼の執着は、凄まじい勢いで大

 きくなって行ったのよ。少し、背筋が寒く

 なる位に」

紗良「それは! ……それは重い、ですね」

清美「いいえ、重荷に思った事なんて一度も

 無かったわ。貪る様に私を求める彼の好意

 には、純粋な歓びを覚えたし、何よりもね、

 手応えをヒシヒシと感じられたから」

紗良「手応え……?」


クラシック音楽、止む。

不穏な音楽、BGに入る。


清美「私の料理と私の身体が、安彦さんの血

 と骨と肉を形作る、その手応え。料理を食

 べて、肌を合わせた数だけ、安彦さんの作

 家としての力量は、みるみる大きくなって

 いった。私と彼との間柄は、唯の作家と相

 談役、男と女の関係に留まらなかった。そ

 れはまるで、大地と、それに根を張り天を

 突くほどに高く伸びる大樹の如き関係。一

 人の作家とその作品が、私という人間その

 ものを糧として育つ有様を、私は最も間近

 な場所で見守ってきたのよ」

紗良「お母さんと赤ちゃん、の様なものでし

 ょうか?」

清美「より共犯的で、ドロドロとした熱を帯

 びたものよ。食べるものと、食べられるも

 の。私は、彼にとって最高の御馳走だった。

 紗良さんなら、いつかわかる日が来るかも

 しれない」

紗良「何故、その様に思われますか?」

清美「私達、どこか似ている気がするから。

 煙草、いいかしら?」


清美、煙草に火を点けて、一服する。


清美「貴女、嫉妬しているんでしょ? 寺河 

 安彦と身も心も深く結びついた私の事を、

 妬んで嫉んで、憎んでいるでしょ?」

紗良「そんな。私は、唯のファンですよ?」

清美「その『腐爛の季節』、古書店で買い取

 っただなんて、嘘よね?」

紗良「どうして、そう言い切れるんです?」

清美「興味本位で訪ねて来たというのも嘘。

 私を憎み、嫉み、妬む為に、雪の中を掻き

 分けて、わざわざここに来たのかしら?」

紗良「……話を、戻しませんか?」

清美「そうね。貴女がそう望むのなら。6年

 続いた不倫関係の終わり。その理由が知り

 たいのよね」


不穏な音楽、BGに止む。

食卓を囲む清美と安彦。


清美「安彦さん、あごに米粒がついてる」

安彦「え、どこ? どこですか、清美さん。

 ちょっと、とって下さいよ?」

清美「どうして私が君の面倒を一から十まで

 見なくちゃいけないの?」

安彦「相変わらず厳しいな、清美さんは」


安彦、盛大に食事を食べている。


清美「ご飯、美味しいですか?」

安彦「はい。清美さんのご飯は最高に美味し

 いです。胃袋が底無しならば、無限に食べ

 続けられます」

清美「よく味わって食べなさいね。これから

 はもう、作ってあげられないのだから」


箸を止める安彦。


安彦「どういう事です?」

清美「もう終わりにしましょう。私達、別れ

 るべきなのよ」

安彦「(味噌汁を啜りながら)いやぁ、この

 味噌汁が、また絶品です。誰が作ったもの

 よりも、一等美味しい。出汁の取り方が違

 うんですかね?」

清美「私の話を聞く時には、箸を置く約束で

 しょう?」

安彦「本気、じゃないですよね? 今日は、

 虫の居所が悪いだけで。それとも僕、何か

 気分を害する様な事……」

清美「全て私の都合ですから、安彦さんは一

 切悪くないです。だから、別れましょう」


食器と食卓をひっくり返す安彦。


安彦「いやだ、いやだいやだ! 僕は、僕は

 離れませんよ! 清美さんがいなきゃ、僕

 は駄目なんだ!」

清美「馬鹿! 味噌汁をひっくり返すだなん

 て! 大丈夫? あんた、火傷してな

 い?」

安彦「ほら、今だって、こうして僕に優しく

 してくれてる! 清美さんは自分に嘘を吐

 いているんです。僕が嫌いになった訳じゃ

 ないんだ。愛してくれているんだ。だった

 ら、止しましょうよ。別れるなんて、止め

 ましょう」

清美「知ってるでしょ? 私、嘘を吐くのも

 吐かれるのも嫌いなの。だからはっきり言

 わせてもらうけど、安彦さん、私、貴方に

 飽きちゃったの。もう関心が持てないの

 よ」

安彦「そうです、駆け落ちをしましょう。慶

 一郎さんなんかと一緒にいるから、心に罪

 悪感が芽生えてしまうんです。2人でどこ

 か遠くに逃げましょう、ね?」

清美「出て行って、今すぐに。見てよ。貴方

 のせいで、畳がご飯と味噌汁でグチャグチ

 ャ。後片付けをしなくちゃ……」

安彦「清美さん、僕はいやです! 僕は清美

 さんを絶対に離しません! 貴女は僕の、

 僕の女なんだ!」


清美を押し倒す安彦。

争う安彦と清美の喧騒。


清美「ちょっと、安彦さん! やめて、離し

 て! 誰か、誰かーッ!」


喧騒がフェードアウト。

クラシック音楽、BGに入る。


清美「全てが終わった後、ぐちゃぐちゃの夕

 飯に塗れる私を見下ろして、彼は泣いて謝

 ったわ。『ごめんなさい、ごめんなさい』

 って。その夜以来、彼とは一度も顔を合わ

 せた事は無いのよ」

紗良「嘘ですッ!」

清美「私、嘘を吐くのも、吐かれるのも嫌い

 だもの。だからこうして、我が身の恥を晒

 す様な事まで、わざわざ貴女に話している

 の」

紗良「私には、寺河 安彦に対する誹謗中傷

 にしか聞こえません。真実は違うんじゃな

 いですか? 文学で成功を収めた寺河 安

 彦にとって、貴女の存在は徐々に邪魔なモ

 ノになりつつあった。だから寺河 安彦は

 貴女に別れ話を持ち出し、貴女はそれを恨

 みに思った。そして6年前、復縁を持ちか

 けた寺河 安彦を、貴女は無碍にして…

 …」

清美「それを苦にして安彦君は失踪を? 彼

 は線が細くて依存心も強いかったけど、人

 一倍負けん気も強い男だったわ。その程度

 の失恋で折れるなんて、到底あり得ない」

紗良「……なら、本当の事を教えて下さい。

 別れた理由って、一体なんなんですか? 

 関係に飽きたからなんて、そんな理由じゃ

 納得できませんよ」

清美「その言葉のまんま。完成品が、気に食

 わないという事」

紗良「完成品って、寺河 安彦の事?」

清美「寺河 安彦という人物と、彼が生み出

 す作品の面白さの証明を見失ってしまった

 のね」

紗良「なんですか、それ。だって、さっきは

 あんなに流暢に活き活きと、寺河の魅力を

 口にしていたじゃないですか!」

清美「私は、この世で最も寺河 安彦を理解

 している女よ。彼の資質の何たるかも、全

 てを知り尽くしている。だからといって、

 それに心底惚れ込んでいる訳ではない、そ

 うなってしまったのよ」

紗良「理解できません。どうしてそんな事

 に?」

清美「わからない子ね、貴女も。彼の可能性

 に惚れ込み、彼と彼の作品を作り上げたの

 は、この私。寺河 安彦こそ至高の作家で

 あると信じたからこそ、心身に渡って与え

 られるだけの奉仕をしてきた。けれども、

 完成していく寺河 安彦を見て、それが間

 違いではないかと思う様になった」

紗良「ご自分の審美眼が間違っていたと?」

清美「寺河 安彦は、間違い無く至高の作家

 よ。そこに疑いを持つ余地は無い。世界人

 類にとってはね。ただ、私にはそうではな

 かった。そう気づいてしまったの。良い物

 だという確信が疑念に変わり、やがて拭い

 去れない不信感に至る。それだけの事よ」

紗良「なんて身勝手……」

清美「夢っていうのはね、追いかけている時

 が、一番輝いてみえるものなの」

紗良「清美さんにとって、寺河 安彦は一時

 の夢に過ぎなかったんですね」


清美、ティーカップを乱暴にテーブル

に置く。

クラシック音楽、止む。

緊迫感のある音楽、BGに入る。


清美「紗良さん、今度は貴女が語る番ではな

 くて?」

紗良「語るって、何をですか? 私は唯のフ

 ァンですよ?」


清美、ティーカップをひっくり返し、

紗良の髪に掴みかかる。


清美「あんた、仲本 紗良とか言って、それ

 偽名なんじゃないのかい? 寺河 安彦の

 縁の人間なんじゃないのか? ファンだと

 かなんかじゃなくてさぁ!」

紗良「痛い、痛い! 痛いっつってんだろ! 

 髪の毛引っ張るんじゃねーよ、ババァ!」


清美、紗良の頬を力一杯叩く。


紗良「……何すんだよ。ババァ! きゃ

 あッ!」


清美、更に紗良の頬を叩く。


清美「その白くて可愛らしい頬っぺたを、殴

 りつけてやったんだよ。ほら、もう一

 発!」


清美、三度紗良を殴る。

嗚咽する紗良。


清美「ああほら、こんなに赤くなって……」

紗良「いやッ! 触らないで!」

清美「そんなに脅えないで。ごめんね、乱暴

 な事をしてしまって。でも、紗良さんも悪

 いんだから。私は嘘が嫌いなのに、紗良さ

 んは平気で嘘を吐く。貴女、安彦さんの娘

 さんなのでしょう? 私と別れてすぐ、あ

 の人が資産家のお嬢さんと籍を入れたと、

 風の噂に聞いていたわ。そうなのね?」

紗良「お願いです。もうぶたないで……」

清美「紗良さんの、本当の御名前は?」

紗良「寺河 紗良」

清美「寺河さん、貴女のお父さんについて、

 話してくれるでしょ?」

紗良「話します! 話すから、ぶたないで…

 …」


緊迫感のある音楽、止む。

ノスタルジックな音楽、BGに入る。


紗良のN「今から8年前。私が10歳、父が

 42歳の頃。私が小学校から帰ると、決ま

 って見る父の姿がありました」

8年前の紗良、玄関から家に入ってくる。


紗良「ただいまー」

   8年前の安彦、トイレで嘔吐している。

紗良「お父さん、また吐いてるの?」

安彦「(息を切らせて)紗良さん、おかえ

 り。まったく。ちょっと油断したら、これ

 ですよ」

紗良「大丈夫? まだ気持ち悪い? ご飯食

 べられない?」

安彦「もう大丈夫。晩御飯までには、体調も

 少しは良くなりますから」

紗良のN「私の知る父は食が細く、胃腸も弱

 くて。体調次第では食べた物をすぐに吐い

 てしまったり、お腹を下してしまう。そん

 な病弱な人でした」


ノスタルジックな音楽、止む。

秋の虫の音。

ドアをノックし、安彦の書斎に入る紗良。


紗良「お父さん、御夕飯持ってきたよ」

安彦「ありがとう。そこに置いてください」

紗良「はい」

安彦「……何です? 部屋に戻らないんです

 か?」

紗良「別に。お父さんが、きちんとご飯を食

 べるか、見張ってようと思って。最近、ろ

 くに食べてないでしょ?」

安彦「お母さんに言われて来たの?」

紗良「すぐに気持ち悪くなっちゃうの、辛い

 と思うけど。食べられるだけ食べないと、

 御仕事できなくなっちゃうよ」

安彦「そうだね、ありがとう。この料理、お

 母さんが作ってくれたの?」

紗良「豆腐となめこの御味噌汁に、鯖の味噌

 煮に、ほうれん草のおひたし。美味しそう

 でしょ?」

安彦「紗良さんには、お母さんの料理はそう

 見えるんですね」

紗良「お父さんは違うの?」

安彦「味がね、わからないんです。お母さん

 の料理に限った事じゃないんです。高級料

 理店もジャンクフードも、全部ひっくるめ

 て、僕には味がしないんです」

紗良「それじゃ、食べる事が全然楽しくない

 よね。病気、なのかな?」

安彦「前はそうではなかったんですよ。もう

 10年以上昔、君が生まれる前の話です。

 でも、そんな事を言ったら、折角作ってく

 れたお母さんに失礼だ。ありがたく頂かな

 くてはね」


衝撃的な音。

トイレに駆け込む安彦。

安彦、便器に盛大に嘔吐する。

紗良、トイレのドアを叩く。


紗良「お父さん、大丈夫? また吐いてる

 の? 気持ち悪くなっちゃたの?」

安彦「平気ですよ。ただのトイレですから。

 心配しないで、部屋に戻って……」


再び激しく嘔吐する安彦。


紗良「お父さん! お父さん!」


クラシック音楽、BGに入る。

清美、紗良にケーキを出す。


清美「さっきは本当にごめんなさい。チョコ

 レートケーキ。私の手作りよ」

紗良「……頂きます」

清美「お口に合えばいいけれど」

紗良「美味しいです、とても」

清美「それにしても、驚いたわ。食べる事に

 異様な執着を持っていた安彦さんが、まさ

 か拒食症になっているだなんて」

紗良「父は『食に関しては、常に鼻を摘まれ

 ている様だ』と、語ってくれた事がありま

 す。何を口にしても、まったくの無味無臭。

 食欲の喪失は他の生活面でも色々と影響し、

 私が物心ついた時から、母との仲は常に険

 悪でした」

清美「御可哀想に。あの人から食べる事を取

 り上げるなんて、この上なく残酷な事」

紗良「気の毒に思って下さるんですか? 清

 美さんに酷い事をした父を、恨みに思って

 いないんですか?」

清美「私は、寺河 安彦を最も理解する女な

 のよ。個人的な感情は抜きにして、彼にと

 って食べるという行為がどれだけ大きく貴

 い物か、良く知っているつもりだから」

紗良「それを聞かされるのは、あまり気分良

 くありませんね」

清美「貴女の愚直な正直さ、美徳では無いけ

 れども、私は好きだわ」

紗良「……父の食への拒絶反応は、日を増す

 毎に激しくなっていきました。6年前の失

 踪直前の頃には、食事は数日に一食のみ。

 父はこけた頬に、伸び放題の髪と髭が藪の

 様に覆った顔で書き物机に齧り付き、昼夜

 の別もなく、筆を走らせ続けていました」


クラシック音楽、止む。

6年前の紗良、書斎のドアをノックす

る。


紗良「お父さん、夕飯持ってきたよ。入って

 いい?」

安彦「入るな。原稿の邪魔だ」

紗良「これ、私が作ったんだ。お父さん、も

 う三日も食べてないでしょ? 入るね」


書斎に入る紗良。

安彦、原稿にペンを走らせている。


紗良「ご飯、ここに置くね? ボルシチとシ

 ーザーサラダ。食べられるだけでも、食べ

 て。……ねぇお父さん、明日、何の日だか

 知ってる? 私の誕生日だよ、12歳の。

 お母さんがね、なんでも好きなもの食べさ

 せてくれるって。お父さんは、何が食べた

 い?」

安彦「クソッ! また書き損じた! この馬

 鹿野郎が!」


安彦、原稿をグシャグシャにして投げ

捨てる。


紗良「パソコンあるんだから、使ったら? 

 その方が便利でしょ?」

安彦「ふざけるな! こんな気の抜けた鍵盤

 で、僕の脳髄に揺蕩う言霊を降ろせる訳な

 い! 出来損ないが僕に意見するな!」

紗良「できそこない……?」

安彦「こんなクソ不味いモン持ち込みやがっ

 て! これを持ってとっとと出て行け!」


   安彦、夕飯の食器を紗良に投げつける。


紗良「きゃあっ!」

安彦「早く完成させないと。完全を目指さな

 いと。完璧を作らないと、僕は駄目だ、駄

 目だ駄目だ駄目になってしまうんだ」

紗良「お父さん、ボルシチ、熱かったんだ

 よ? そんなもの投げつけて、私に当たっ

 たらどうなるかって、考えてくれなかった

 の? ひどいよ」


紗良、ドアを開けて書斎を飛び出す。


紗良のN「辛かったですね、本当に。そして、

 父が書きあげたのが『腐爛の季節』です。

 本の出版以降、抜け殻の様になった父は、

 何かを待ち続けて、部屋の中で呆然と過ご

 す日々を送っていました」


春の朝、季節の鳥の声が響く。

紗良、ドアをノックし、書斎に入る。


紗良「お父さん、朝ごはん、簡単だけど。こ

 こに置くね」

安彦「紗良、手紙は来たか?」

紗良「お母さん、本当に出て行くつもりだ

 よ? 止めないの?」

安彦「手紙、来てないのか。そうか……」

紗良「ごめんね。私、お母さんについていく

 から。お父さんも身体に気をつけてね。ち

 ゃんと寝て、しっかり食べないと、駄目だ

 よ。さよなら!」


書斎を飛び出していく紗良。


安彦「清美さん、僕の献本、読んでくれたか

 なぁ?」


クラシック音楽、BGに入る。


紗良「その後、母はお酒に溺れて身体を壊し

 ました。喪が明けて、久しぶりに帰った生

 家には、既に父の姿は無く。代わりに見つ

 けたのが、この『腐爛の季節』の献本と、

 清美さんからの手紙です。あの日、父が待

 ち侘びていた手紙は、貴女からのものだっ

 たんですね」

清美「良かったわ、貴女の話を聞く事ができ

 て。私が知るべき話だった。そう思えるか

 ら」

紗良「だから私、ここに来ました。ねぇ、清

 美さん。『嘘は吐かない』。それが貴女の

 信条ですよね? そうならば、隠さずに教

 えて下さい。……父は今、どこにいるので

 すか?」


クラシック音楽、止む。

不穏な音楽、BGに入る。


清美「ケーキ、残さず召し上がって下さった

 のね。気持ちの良い食べっぷりは、お父様

 譲りかしら?」

紗良「(徐々に消え入る様に)話を逸らさな

 いで……」


目の回る様な音。

紗良、ソファーにぐったりと倒れる。


清美「身体が宙に浮いた様な、フワフワした

 イイ気持ちでしょ? そのうち、霧が散る

 様に意識も無くなっていくわ」

紗良「(朦朧と)何を、言ってるの?」

清美「紗良さん、私達、やっぱり似た者同士

 みたい。私は今、自分でも意外な程に激し

 く、嫉妬の炎を燃やしているわ。貴女と貴

 女のお母様に対してね。羨ましくて仕方が

 無いのよ。安彦さんの、崩れていく姿を間

 近で感じられた事がね。でも、本当に良か

 った。貴女の話を、最後まで聞く事ができ

 て。ケーキに仕込んだ薬の分量を間違えて

 たらと、ヒヤヒヤしていたんだから。おや

 すみ、紗良さん。また後で会いましょう」


ブツリと視界が途切れる様な音。

不穏な音楽、止む。

調理をしている清美。

目を覚まして身を起こす紗良。


紗良「ここは……?」

清美「おはよう、清美さん。ちょうど良かっ

 た。今、貴女がここに来るまでのあらまし

 を説明していた所なの」

紗良「清美さん? あれ、狭い? なにこれ、

 檻? 私、どうしてこんな所に」


   紗良、檻の鉄格子をガタガタと揺らす。

デスメタル音楽、徐々に大きくなり、

BGに入る


清美「暴れても無駄だと思うけど。それ、熊

 を捕獲する為の檻だから」

紗良「なんで? どうしてこんな所に私を閉

 じ込めるんですか! ……何?」

安彦「(呻き声)うぅううぅ!」


紗良の隣の檻の中で、安彦が暴れる。

ショッキングな音。


紗良「ば、化け物! 出して! 出して下さ

 い! 化け物と隣り合わせの檻だなんて

 嫌!」

清美「失礼ね。親しき仲にも礼儀ありよ。久

 しぶりのご対面だというのに」

安彦「うがああああ!」

紗良「……お父さん? ぎゃああああ!」

清美「気がつかなかった? 髪も髭も伸び放

 題だし、随分と容貌も変わったものね。こ

 の人、ここに来てから200キロも体重が

 増えたのよ」

紗良「ぎゃあああ! う、うでっ! うで、

 あし……あ、あ、足がっ!」

清美「彼の両腕と両足の事? 切ったの。切

 断したのよ、私が。生兵法だけど、医学系

 出版物の編集経験が役に立ったわ。料理の

 スキルも、こんな活用の仕方があったとは、

 思いもしなかった」

紗良「お父さん? 私、紗良だよ。覚えて

 る? こんな姿になっちゃって……」

安彦「うううううう……」

清美「残念だけど、彼、喋れないから。つい

 でに舌もちょん切ってやったの。今からで

 も遅くはないとか、よりを戻そうとかなん

 とか、煩くって」

紗良「ひどい。こんな仕打ち、人間のやる事

 じゃない! この人、私のお父さんなのよ。

 清美さん、貴女が愛した寺河 安彦なの

 よ!」

清美「ムキにならないで。本人は至って満足

 しているのだから」


雷鳴の音。


清美「雷の日の夜だった。この家に、玄関を

 叩く音が響いたの。私がドアを開けると、

 そこには安彦さんが立っていた。傘も差さ

 ず、ずぶ濡れのまま。ガサガサに痩せて、

 まるで溝鼠の様な身体で。それを見た時、

 感じたの。私、今のこの人となら、きっと

 上手くやっていける、って」


雷鳴の音。


清美「ほ〜ら安彦さん、ご飯よ」


   紗良、安彦の檻の中に食事を投げ込む。

安彦、獣の様に食事を貪り食う。


清美「ふふ、見て。こんなにガッツいちゃっ

 て。舌もないのに、よくもまぁ美味しそう

 に食べるものだわ。餌代も馬鹿にならない

 けど、その甲斐はあるわね」

紗良「お父さん、やめて! この女の作った

ものなんか食べないで! なんで? どうし

てこんな事をするの? 清美さん!」

清美「全身全霊をかけて夢見る事ができたあ

 の頃を、取り戻したいから」

紗良「こんな所に閉じ込めたって、何も解決

 しないのに!」

清美「ちがう〜。だから壊すの。陶芸家は、

 焼き上がった失敗作をどうする? 割って

 壊すでしょ? 同じ事よ。尤も、私は成功

 作品であっても、壊して解体すべきだと考

 えるけれども」

紗良「お、お願いします、助けて下さい! 

 この事は誰にも言いませんから! だから、

 殺さないで……」

清美「ああ、紗良さん、紗良さん、紗良さん。

 私が命をかけて愛した寺河 安彦の愛娘。

 私に良く似たお嬢さん。そんな貴女に、無

 駄な危害を加えたり、粗末に扱ったりする

 筈が無いでしょう」


   清美、紗良の檻の中に食事を投げ込む。


紗良「紗良さんのご飯よ。よく噛んで食べな

 さい」

紗良「私も、壊すんですか……?」

清美「自惚れてはいけないわ。貴女はまだま

 だ未完成品。私の大事な御人形さん。まず

 は貴女を、理想的で完璧な完成品に仕上げ

 てあげる。貴女のお父様にしたのと、同じ

 方法でね。大丈夫。貴女なら、貴女のお父

 様以上に完璧な完成を遂げる事ができる。

 確信があるのよ」


デスメタル音楽、止む。

不穏な音楽、BGに入る。


紗良「……うそつき」

清美「なんですって?」

紗良「あんたは寺河 安彦に嫉妬してたんだ。

 彼の才能を妬んで嫉んで、憎んでたんだ。

 だから彼に取り入った。依存関係を成立さ

 せて、自己満足を得ていたんだ!」

清美「……なるほど。続けて。」

紗良「だけど、寺河 安彦の成功が磐石にな

 るにつれて、満足よりも憎しみの方が大き

 くなっていった。だから、あんたは壊すん

 だ。完成したものを台無しにしなくちゃ、

 気がすまないんだ!」

清美「……なぁんだ、紗良さん。貴女、すっ

 かり、完成してるじゃないの」


清美、けたたましい音を立てて、チェ

ーンソーを起動する。


紗良「チェーンソー? いや、清美さん、や

 めて!」

清美「怖がらなくていいわ。貴女のお父様と

 同じ様にしてあげるだけだから。嬉しいで

 しょ?」

紗良「うそつき……、嘘吐き! いやああ

 あ!」


デスメタル音楽、激しい曲調で再び鳴

り響く。

扉を閉める様な、幕引きの音。

デスメタル音楽、唐突に止む。

                 (了)



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