あなたとは儚い幸せを
「逃がさない」
何処かで聞いたようなセリフです。ずっと昔のこと、忘れてしまうほどずっと以前に……。懐かしいです。
暗転した視界が緩やかに開けて私は夢へと落ちて行くのを感じました。
暖かくて優しくて幸せで、そして残酷な夢に。
「今日の夕食はハンバーグかい? また勇一郎の好きなものばかり作って……」
「あら、お帰りなさい」
「ただいま、万里」
目の前には40前くらいの眼鏡をかけた優しそうな男性。スーツを着こんだその姿が凛々しくて思わず見とれてしまいます。
彼から空になったお弁当箱と郵便受けにあった夕刊を手渡され、軽く微笑まれると年甲斐もなく心臓煩いほど騒ぎます。
「直明……」
思わず抱きついた彼の体に体温はありません。こちらが夢だと実感させられる瞬間です。
そう、この人はこのあと20年程で病を患い、闘病の末に84才の生涯を終えるんです。それを看取ったのは私じゃないですか。
それでも、時々思うんです。この幸せな夢が現実なんじゃないかって。
けれど、視覚以外、温度も味覚も触覚すらないこの風景は明らかに幻。願えば願うほどに虚しさが胸に広がっていきます。
それでもこうして会える。それを慰めに私は現実を生きています。
「どうしたんだい、万里? また勇一郎に何か言われたとか」
「そうじゃないの。貴方と結婚出来て幸せだなぁ~って」
「何言ってるんだよ」
「そうね。でも、ありがとう」
当時は言えなかった言葉です。そんな言葉を思い付きもしませんでした。だって、この穏やかな生活が幸せだなんて知らなかったから。
それに気付いたのはそれを失ってからだったと思います。
だからでしょうか? 罪滅ぼしにもならないのに、夢の中の直明に優しくするんです。
彼はそんな時も、いつも困ったような笑みを浮かべるだけ。
だって、私はこの表情の彼ばかりを見ていたから。きっと、この場面で過去の私は怒っていたんだろうなぁ。
じんわり広がる罪悪感。これは安定した生活に現をぬかし、幸せになる努力を怠った自分への戒めなのでしょうか?
再びゆっくりと暗転する視界に涙が滲みます。
ああ、もう終わり?
いつも通り短すぎる会瀬です。このまま眠っていたいですが、現実がそれを許してくれません。
「直明……」
「なんだい」
あれ?
開けた世界に私は少し驚きます。けれど、目の前に居る直明の姿に気持ちが落ち着いていきます。
ああ、夢の舞台が変わったんですね。
「万里、今まで彼女でいてくれてありがとう」
この場面です。あの言葉を聞いたのはココなんです。
「なっ、何よ。まさか、別れ……」
「これからは、婚約者だね」
「へっ……」
「もう、逃がさない」
いつも優しい直明が唯一強気に出たサプライズ。このプロポーズには肝を冷やしました。だって、しんみりした顔で「今まで彼女でいてくれてありがとう」って明らかに別れ話でしょう?
そうだ、私はこの日決めたんでした。
「直明、私を泣かした罪は重いわよ。一生イジメてやる」
彼の前では不機嫌そうに振る舞おうって。笑ってやるものかって。
意固地になっていたんです。本当は満たされていたのに。
そうしているうちに本当にわからなくてなってしまったんですね。自分がどれだけ愛されて、満たされているのか。
でも今ならいくらでも言えます。
「なんてね。ありがとう。嬉しい」
このあと、前世の私は確か直明をボッコボコにしたんですよ。生意気だって言いがかりつけて。
でも、今の私はそんなことしません。
「私からもお願いします。結婚してください」
ああ、幸せが増していく。あの時も変に照れたりせずに、こうすれば良かったんですね。そうすれば、確かな幸せを感じているって伝えてあげられたのに。
それでも、私は幸せだったはずです。ただ、それを分け合えなかっただけ。そのせいで、充実感がなかったんでしょうね。
あ……、また暗転です。そろそろ起床ですね。今日も直明に会えて幸せでした。出来れば勇一郎にも会いたかったなぁ。
けれど贅沢は言えません。
「ありがとう、女神様」
ーーどういたしまてーー
頭の中で清らかな声が響きます。
この夢は女神様が私にくれたご褒美です。私が役目を果たす限り許される小さな幸せ。役目が終わるその時、上映が終わる映画みたいなものです。
これが消えてしまう前に、私はこの幸せを胸に焼き付けなければいけません。今生で、幸せを掴むために。
読んでくださってありがとうございます。